~01~
「……だがとにかく君の話と、それから自分がいろいろと正しく引き出した君の答弁から判断したところでは。
君の同胞の大多数というものは自然の摂理でこの地球上をのたくりまわっている最も恐るべき、また最も忌まわしい害虫の一種であると結論せざるを得ないようだ」
ジョナサン・スウィフト「ガリバー旅行記」 新潮社・世界文学全集より
眼が覚めると、目の前には青空が広がっていた。
おどろいて身を起こした。周りを見回すと、そこはどうやら何の変哲もないの河原のようだった。
耳をすましてみる。都会の喧騒も聞こえてきてた。どうやらここは地獄の川、ということではないらしい。
ということは、俺はまだ生きていることになる。
自分の着ている服を確かめた。違う。服は囚人服でなく、白いYシャツと細身の黒いズボンだった。
さらにおどろくことには、手の形がまるで別人のようだったことだ。
以前よりもごつい。仰天して顔の感触を確かめると、やはり全く別人の顔にふれているようだった。
しばらく呆然とした。夢かと思ったが、それにしちゃ現実味がありすぎる。
時の流れに身を任せたくなる衝動を振り切り、これではいかんと自分の記憶をまさぐってみる。
最後の記憶は、たしか「階段の13段目」をのぼり終わったあたりだと気づく。
思い起こしているうちに、だんだんと頭が錯乱してきた。
……いったい何が起こったというのだろう。
自分が生きているというだけでも、ものすごく不思議なことなのに。まるで俺は全く別人に生まれ変わってしまったかのようだ。いや、本当に生まれ変わったのだ。
錯乱が次第に収まり頭は冷めてきたが、生き延びたことを素直に感謝する気分にはなれなかった。
誰が、いや何が俺を助けたか知らないが、俺のような、「人として最低な奴」が本当に生き延びてしまっていいものだろうか?
いや、待てよ?
俺は自分の犯した罪を素直に認められるような奴だったか?
たしか、俺という人間は人を殺しても何とも思わない、どうしようもない「悪党」だったはずだ。
捕まって刑を執行されても「運が悪かった」と思うだけで、自分の非を決して認めようとしない。
そんな人間が俺だったはずだ。生き延びたことを素直に感謝する、それが本当の俺のあるべき心境なんかじゃなかったのか?
思わずかぶりを振った。いまはなぜかそんな感情がばかばかしくて仕方がない。俺は心の底からそう思い始めている。
まさか、内面までまったくの別人になってしまったというのか。今までの自分にとって当たり前だった考え方が、まるで異物のように取り除かれている。
「改心」というものは、はたしてこんな感じのものなのだろうか。
それを肌で感じて、思わず背筋が震えあがる思いにかられた。
変化はそれだけではなかった。寒気に身体をさすった時、妙に空気がふわふわしていることに気づいた。
空気が軽い。いや自分の身体が軽いのだ。今すぐにでも空を飛んでしまえそうなほどだ。
試しにそこらへんの小石を拾ってみた。それなりに重量があるはずなのに、ほとんどその重さが感じられない。
思いっきり握ってみた。驚いたことに、パキパキと音がして、手を広げた瞬間にばらばらに崩れた。
その様子を目の当たりにして、もうひとつ違和感を覚えた。
そして川の向こう岸を眺めた。ひとりの老人がたたずんでいる。
信じられない。かなり距離があるはずなのに、その顔の詳細まで、まるで眼の前にいるかのようにわかる。
耳をすましてみる。自分の後ろにいるはずのカップルの会話。その内容まで詳細に聞こえてくる。
「今夜さ、中華行こうぜ」
「もー、こないだも行ったじゃーん」
……いったい何が起こっているというんだ。
こうしてはいられない。助かっているのは今の俺が「井光廉雅」じゃないわけで、もう逃げることも隠れることもする必要がないわけだ。
落ち着いて自分の身に何が起こっているのか確かめるしかないだろう。どちらにしろ、今はそれしかやることがないわけだが。そう思いつつ立ち上がる。
俺は河原の土手をのぼり、あたりを見回した。見慣れた日本家屋のような建物がところどころ並んでいる。格段に良くなった視力で遠くの文字を読むと、「京都」と読めた。
以前住んでいた街へと戻ってきたというわけだ。
俺は落ち着き払って街中を散策し始めた。
ふと誰か俺、いやこの顔の人物にひょっとしたら気付く奴がいるんじゃないか、そんな不安にかられた。だが今のところ誰も俺の顔をじっくり眺めてきやしない。
しばらく歩いていると、懐かしい場所に来た。俺は立ち止まって全体を見回す。
俺はかつて、この古い家屋に深い縁があった。「事件」があってからというものの、いまは誰も住んでおらず、旧家風のつつましやかな建物があちこち並んでいる中でさえ、まるで幽霊屋敷かのようなたたずまいを見せている。
……なぜ俺はあんなことをしてしまったのだろう。
いままで感じるはずのなかった胸の痛みに襲われた。
こんな感覚、前にどこかで感じたことがあると思ったが、たしか警察に逮捕されたときだったはずだ。
あのときは、ただただ自分が不覚をとったこと、そのことだけにしか苦痛を感じなかったはずなのに。
いまは自分の行ったすべての所業を猛烈に後悔している。
なぜこんな取り返しのつかない事態になるまで、こんな思いにとらわれることがなかったのか。
そうすれば、俺はあそこまで罪を重ねずにすんだのに。
「なあ、すんまへん。あんさんひょっとして……」
突然背後から聞こえた声にぎょっとして俺は振り返った。そしてまた仰天した。
顔が真っ白だったからだ。って、よく見たら京都では見慣れた風体の女性だった。
「なんどすえ? 舞妓ってそんなおっかないものじゃあらへんし……」
そして女性は気付いたように付け加えた。
「それにふり返る前からえらいおびえなはって」
俺は気を落ち着かせながら返事を返した。
「あんた、記憶喪失って信じるか?」
舞妓はそれを聞いて唖然としている。
だが世のなかにはもっと信じられない出来事があるのだ。とてもじゃないが口には出せないが。
自分の肉体が別人と入れ替わるなんてことに関しては、100%信じないだろう。
「それで、うちを見ても誰だかわからんって言うん?」
次第にタメ口にかわっていった舞妓が聞き返す。その手はグラスを掴み、中のコーヒーをストローでかき回している。和装にはふさわしくない。
「だからあんたが誰なのか、俺が誰なのか。まったくわからない。すまないが知ってることがあれば教えてほしい」
彼女の方が何かおごってくれるというので、とりあえず喫茶店に入った。
あわてて入った初めての店で、中が洋風だと悟った瞬間あせった。
舞妓のほうも最初気まずい空気をにおわせたものの、驚くべき速度でまったりし始めた。
「それで、あんさんとうちの関わりがなんなんかってことは、あんま知りたないと言いなはるわけで?」
完全にくつろいでいる舞妓が問いただす。それを聞いてドキリとした。
どうやらさっきから気まずい雰囲気を醸し出していたのがバレバレのようだ。図星である。
記憶喪失なら本来もっと相手に好奇心 旺盛なはずだ。
舞妓は深くため息をついて背もたれに背中を預ける。
「ま、ええわ。あんさんとうちの関係は、あんま深くあらへん。安心して」
失礼だとは思いつつ、俺は内心ほっとした。悟られないよう慎重に質問を繰り出した。
「で、あんたのことはなんて呼べばいい。本名か芸妓名か」
「本名でええよ。『尼戸うずめ』。あんさんうちのこと『うずめ』って呼んでた」
コーヒーを飲みつつ言う。態度が完全に舞妓らしくない。
「えーと、あんた職業上そんな行儀で大丈夫なのか」
「うん、うち変わりもんって言われてけっこう先輩から嫌われとる」
遠慮ぎみにたしなめたら、あっけなく返された。俺の顔のもとの人物はこんな奴と知り合いなのか。
「まあ時代でしょ。いつまでもかたっ苦しいしきたりばっか守っとったら祇園もおしまいやで」
「……俺も細かいことは言わんどこう。それよりうずめ……」
「いま下の名前呼び捨てで呼んだん? いややわあ、記憶喪失なのにやらしい」
その突っ込みをうなずいて受け止めて、質問を続けた。
「俺はいったい、何者なんだ?」
「……“忍者”」
……ふざけてんのかこいつ。こんな頭のおかしい……
「いま『こんな頭のおかしい女がよく舞妓やってられんな』って思ったやろ」
ぎくっ。彼女はストローをこちらへ向けてたしなめた。
「言っとくけどいくらこんな変わりもんでもこんなところでウソついて一文の得にもならへんで。
うちも始めて聞いたときは信じられんかった」
俺はまじまじと彼女の目を見る。
どうしてだろう。とても嘘をついてるとは思えないとはっきりわかる。
俺には人の心を読む力でもあるのだろうか。一応取り繕ってみる。
「まさか、本当なのか?」
うずめは真顔で答える。
「ウソみたいなホンマの話。なんでも甲賀(近江、現在の滋賀県に伝わる忍者の名門)に伝わる秘密の流派だって。
甲賀はもともと集団技を得意としとるんやけど、ライバルの伊賀忍者に対抗するために特別に個人技に秀でた流派が作られたんだって、記憶を失う前のあんさんがそう言うてはった」
……なぜだろう。始めて聞くはずの話なのに、なぜか聞き覚えがある。
普通の記憶喪失なら手がかりになるかもしれない。
だがあいにく今の俺には、井光廉雅という全く別人の記憶が宿っているのだ。まったく関係のない話のはずである。
本音を押し殺して建前を口に出した。
「その流派の名前は、聞いてんのか?」
「甲賀葦原流」
ヤバい、この展開はまずいぞ。
「で、俺の名前は……」
本当なら聞きたくない質問を切りだす。しかしひそかな願いは打ち砕かれた。
「葦原佐久弥」
俺はあわてて顔を伏せる。
とりあえず何か思い出せそうなふりをしないと、いまの狼狽っぷりはとてもじゃないが隠せないぞ。
まずい、まずいぞ。
全部記憶にある。
しかもすべてどっかの誰かさんのことではなく、この体の持ち主のものなのだ。
井光廉雅の記憶にないはずの知識が頭の中にあるということは、俺が廉雅であるという確証をひどく揺るがせることになるぞ。
……このまんまフィリップ・K・ディックの世界に迷い込むのはごめんだ。
「……大丈夫!? あんさん大丈夫って聞いてんのにっ!」
心配そうにのぞきこむうずめに気づき、伏せたまま片手をあげる。
「だ、大丈夫だ」
とりあえず、喜んだふりをしてみる。
「聞いてくれ、記憶が一部残ってた。どうやらその辺のことは覚えているらしい」
それを聞いてうずめの顔がぱっと明るくなって両手を合わせる。
「ほんまぁっ!? よかったわぁ、じゃあ手がかりがあるっちゅうことやねっ!?」
ホントは何の解決にもなっていない。
俺はどこから井光廉雅であって、どこからがその葦原佐久弥という人物なのだろう。
そのほかにわかっていたこともあった。
「だが残念なことに、どうやら俺にはこれといった身内がいないらしい」
「……そうなん」
うずめはがっかりして椅子にもたれた。
いや、いるにはいるのだろうが、かすかな記憶ではそれは遠い親戚のように思える。
「これといった住まいもないらしい。残念ながら手がかりはゼロだ」
いやいや、ここまでわかってるんなら記憶喪失とはいえんだろ。
にしてもここまで知識があるとなると、はたして俺は本当に廉雅といえるのか、ということになる。非常にまずい。