指先の温度 2
それから、少年に勉強を教える日々が始まった。
最初は共用のスペースの一角でやっていたけど、数日後には私の病室でやるようになって、テストが始まる頃には、互いの連絡先を交換するようになった。
-テスト終わりました。
-どうでした?
-教えてもらった所バッチリ出ました。
-お、これは高得点期待できますね。
-今までよりはいいと思いますよ。
お昼食べたらそっち行きますね。
-気を付けて。
少年から来る連絡はテストに関してだけでなくて。例えば近所の野良猫の話とか、他愛もない話もたくさんあって、退屈な日々の1つの楽しみになっていた。
こうして少年のテストが無事終わって、結果が返ってくる日。
少年からは特に何の連絡も無くて。1人、少し寂しい思いを抱えて外に出る。
リクエストしてもらった曲をいくつか練習して、一息ついた時だった。
着信を告げたスマホを手に取って、スリープ画面に表示されたメッセージに温かいものが胸に広がる。
-今から行きますね。結果はお楽しみです。
少年の家からここへは10分程度の距離だから、何もしないで待っていようか。
もう少しリクエストの曲の練習をしたかったけれど、少年が来て聞かれちゃったら意味がないから。
「こんにちは。」
「こんにちは。どうでした?」
賭けの内容は簡単。各教科で過去最高得点を取ること。
基礎はきちんと出来ていたし、応用も理解すれば呑み込みが早かったから、心配はあまりしてなかったんだけど…。
「……教えながら、頭がいいなとは思ってましたけど、ここまでとは。」
「自分でも驚きましたよ。本当に自分のか確認しましたって。」
「順位、いつも真ん中ぐらいだって言ったましたよね…?」
「友達にも似たようなこと、散々言われました。」
少年が見せてくれた紙に書かれた順位は6位。教科によってばらつきはあるけれど、平均94なら大健闘だろう、100点もあるし。
「まぁ、悪いんじゃなくて良かったです。
それじゃあ、リクエストの曲、吹きますか。」
「期待してます。」
2週間しか練習出来てないから、覚えてはいるけど、今まで吹いていた曲のように完璧ってわけにはないから多少の不安はあるけれど。
「間違っても、許してくださいね?」
「大丈夫ですよ。」
貴方の吹く音が好きなんです。
だなんて、サラリと言われたものだから、顔が赤くなるのは仕方ないと思う。
「ありがとう。」
凄いとか、天才だとかは散々言われてきたけど、音そのものが好きだなんて言われたのは初めてで。
嬉しくて、自然とやってやる。という気持ちが出てくる。
途中少し危なかったけど、ミス無く全ての曲を吹き終えて、安堵と同時に感じる達成感がとても懐かしかった。
「……良かったです。」
「どうも。」
「何で不満そうなんですか?」
「いえ、何も。」
私の抱く達成感の割には思ったより少年の反応が淡泊で、なんとも言えないモヤモヤしたものが胸に広がったけれど、それを口にするのはなんだかためらわれた。
「感動しましたよ?」
「…そうは見えませんけど。」
「感情が顔に出にくい性質なんで。なんなら感想を原稿用紙に書いて後日持って
きましょうか?」
「それはいいです。」
少年なら本当にやりかねなかった。
大人気ないな。と小さな溜め息を1つして、意識を切り替える。
「さてと、そろそろ帰らないといけない時間ですね。」
「まだ暗くなったら冷えますしね。」
「本当、大丈夫なんですけどね。」
ここの人たちは心配性なんですよね。
自分のことは自分が一番理解してるというのに。もう18年もこの身体と過ごしてるんだから。
「春に倒れたんでしょう?無茶しないでくださいよ。」
「少年まで…。自己管理出来ないほど子供じゃないですよ、もう。」
「ならいいんですけどね。」
「……何ですか。」
「心配してるだけですよ。」
真剣な顔で言われたから、言葉に詰まった。
ふぅ。と少年は溜め息をつくと、私に向き合って言った。
「部屋まで送りますよ。」
「え?いや、いいですよ。」
「お・く・り・ま・す」
「…ハイ。」
少年から無言の圧力が来て、ハイ以外の選択肢は許されなかった。
こうして短い距離ではあるけれど、少年に病室まで送ってもらうことになって、道中は吹奏楽の話で盛り上がっていた。
のに…。
「うわ。」
「お、ようやく戻ってきたか!」
私の病室の前にいる爽やかなオーラを放つ高身長イケメンの姿を見つけたとたん、歩みが止まって、顔が引きつるのを自覚した。
そして今までの穏やかな気持ちが一瞬で荒んだ。
「?」
「久しぶりだな、我が愛しの妹よ!」
「今すぐ家に帰れ。」
「うわ…。」
大げさに両手を広げる高身長イケメンに対し、容赦ない言葉を吐いた私に、笑顔かポーカーフェイスがデフォの少年の顔が珍しく引きつる。
「この人にはこれぐらいやらないと、直ぐつけあがるんですよ…。」
珍しく疲れ切った声を出した私の様子から察してほしい。というか、仕草と最初の台詞から理解してほしいのだけど。
「おやおやどうしたんだい?
久々の兄妹の再会じゃないか!ここは兄の胸に飛び込んでくるところだろ
う?」
「絶対にそんなことしないし、というか少し黙れ。」
髪をなびかせて近づいてきた辺りで嫌でも理解したんだろう。少年が引いてるから。
「…この人は?」
「戸籍上は兄。」
「酷いじゃないか!俺はこんなに妹を溺愛してるというのに。」
「それは良かったですね。私は大嫌いなんでとっとと帰ってくれます?」
「…なんだろう。妹が笑顔なのが心に痛いんだか。」
今できる精一杯の笑顔で放った一言は無事にダメージを与えれたらしい。
窓に手をついて黄昏る兄をそのまま下に落としてやりたい衝動に駆られながらも、少し後ろに下がった少年の方を向く。
「キャラ、濃いお兄さんですね。」
「ただの馬鹿です。」
「ところで!」
「「!?」」
…回復早いな。もっと徹底的にやらないとダメらしい。
というか、一瞬で真後ろに来ないでほしい。寿命が減る。ただでさえ心臓が強くないというのに、妹を殺す気なのか。
「その男は誰だい?」
「…今気づいたの?」
「俺の目は妹しか見えないようになってるからね。」
「嘘つけ。だったらとっくに失業してるでしょ。」
「はじめまして、妹さんには色々お世話になってる者です。」
「そんな律儀に挨拶する必要ないですよ。」
「いや、でもお兄さんなんでしょう?」
「一応は。
仕事中とかは真面目なんですけどね…。私の前だとただの馬鹿です。」
「あぁ、なんだかとても分かる気がします。」
「?」
「…前に少し話した僕の姉もその……個性が強いので。」
「あぁ、なるほど…。」
少年のお姉さんは二次元に染まっているらしく、尚且つさらに深淵に足を踏み入れてるらしい。
深淵が何かと聞いたら「知らない方がいいですよ。」と何かを悟った顔で言われたっけ。
「妹よ、さすがにこうも邪険にされるとそろそろお兄ちゃん泣くんだが。」
「勝手に泣いてたら?
というか、なんで日本に?しばらくは公演で忙しいから向こうにいるって言っ
てなかった?」
「向こう?」
「……これでもそこそこ有名な指揮者でして、注目の若手としてあちこちから声が
かかってるんですよ。
こんなのでも。」
「あぁ、そのことなんだがな、出演者の予定が合わなくなってね。延期になった
んだ。」
「なるほどね。
で、いつまでここにいるつもり?家には帰らないの?」
少年もいることだし、早くどこかに行ってほしいんだけど。
ニヤと笑った兄に嫌な予感がして、身構えた時にはすでに遅し。
兄の腕が肩に回って、窓際に連れていかれる。
「なんだぁ、妹よ。」
「近づかないで。」
「珍しいじゃないか。お前が誰かと親しくするなんて。」
「…たまたまよ。」
「ま、なんにせよ良かった。」
「え?」
「それじゃあ、兄は家に帰ることにするよ。また会いに来るから。」
「二度と来るな。」
笑顔で手を振り、爽やかなオーラを振りまきながら歩いていく兄にどっと疲れが身体を襲った。
「姉が前に「残念なイケメンは三次元にはいないのよねぇ。いたら美味しいの
に。」とか言ってましたけど
今、目の当たりにしました。」
「…よく分からない慰めをありがとう。」
「最後、何話してたんですか?」
「元気にしてたか。って。前に会ったのは入院する前でしたから。」
「久々の再会っての、嘘じゃなかったんですね。
あれでよかったんですか?」
確かに、血の繋がった兄に対する接し方としてはキツイ方なんだろう。
私だって自覚はしている。
「でも、入院するってなってから電話は毎日かかってくるし、出るとテンション
高いし、無視するとメールが何十通も来るしで大変だったんですよ……。」
「……。」
「少年に会う少し前に、とうとう私がキレてようやく減ったんですよね…。
それでも、朝、昼、晩と最低3回は本人曰くラブコールが来ます。」
「え、それで減ったんですか?」
「かつては2、3時間に1回かかってきてました…。
忙しいはずなのに、本当……。」
昔から兄は私を猫可愛がりしてて、スキンシップも激しかった。なんでだろう、歳が6つ離れてるっていうのが大きいのかもしれない。
かつて兄と付き合っていた彼女さんが、私を構い過ぎだと兄に詰め寄ったことがあって、その時の兄の返答が「当然だろう?一番可愛い妹を俺は愛しているからね。」だったっけな?彼女さんが我が家に遊びに来た時のことで、兄に巻き込まれて何故か3人でゲームしてた時の話だ。
もちろん、彼女さんは激怒して、私は直ぐに自分の部屋に避難した。
当然、彼女さんと兄はその後別れて、しばらくして兄は海外へお呼ばれしたから、かつての彼女さんとは完全に縁が切れているんだろう。
「災難でしたね、彼女さん。」
「身内のひいき目無しにしても、顔立ちは無駄に整った兄ですから、昔からモテ
てたんですけど、恋愛系統に関しての話は今話した彼女さんしか私は知らない
ですね……。
穏やかないい人でした。私にも良くしてくれましたし。だからまぁ、もったい
ないな。って気持ちがまだあるんですよね」
彼女さんは詰め寄る前までは、私に対しての兄の行動を笑って見ていたし、助け舟を私に出してくれたこともあったから、私は彼女さんに対してはいい印象しか持ってなかった。
流石に、我慢の限界が来てしまったみたいだけれど。
「まぁ、誰だって恋人より身内が大事って目の前で、本人から言われたら怒りま
すよ。」
「…兄の場合は行き過ぎてると思うんですが?」
「それは…僕の口からはちょっと。」
ということは少年も同感だと。
沈黙は肯定とみなしていいですよね、この場合。
「さてと、変なののせいで遅くなってしまいましたね。家は大丈夫ですか?」
「時間的にはまだまだ余裕ですよ。」
「なら良かったです。
では、送ってくれてありがとうございます。」
「いえ。それではまた明日。」
「…はい。」
曲がり角を曲がって見えなくなるまで、少年の背を見つめる。
「また明日。」その約束がもたらす物がくすぐったくて。
だけど胸にあるこの温かい気持ちに名前を付ける気も、自覚する気も、私には無かった。