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―――睡蓮がいなくなった。
プリーミャ・リツカの祭りの期間中、竜騎士たちは一日中街の警備の仕事に就くのが習わしだったが、ケイナが王に何か進言したのかもしれない。ヴァレリーだけが夕方までで仕事を切り上げて良いことになった。
浮足立った祭りの雰囲気の中には、良からぬことを考える連中も多く入り込んでいる。竜珠は竜騎士の妻の身分証明代わりにもなるが、宝飾品としてもとても価値のあるものだ。こんな祭りの日に無防備に竜珠をつけて歩き回っていたら、物盗りに狙ってくださいと言わんばかりの格好のターゲットになる。
出歩く際には竜珠の扱いに注意をするよう声をかけるついでに、プリーミャ・リツカへと誘おうと思っていた矢先だった。
いや、注意をするのは単なる口実で、自分は彼女に会いたいだけなのだ、と思う。
何かしら口を開けばいちいちびくつかれたり、少し触れようとすると本気で拒絶してくるのは気に入らない。
でもどうしてなのか色々と手を差し伸べて手助けしてやりたいと思う。
睡蓮の竜珠の気配はしばらく前から消えていた。体全体がぴりぴりと電気を放っているような感じがする。静電気が起きるたびにいらついた感情が膨らんでくる。
また硝子の入れ物にしまっているのかもしれない。できれば竜珠の気配を消すのは止めてほしいと彼女に頼んでみよう。
いや、それよりも早めに自分の屋敷に引っ越してきてもらうよう段取りを…。
ふと我に返り、なぜ自分がここまでそわそわしているのか理解できない感情に困惑する。
自分は既にイリーナに竜珠を渡した。一度竜珠を渡した相手以外には、心を砕く必要はない。いや、砕けないのだ。
睡蓮の居候先の玄関先まで来ると、妙な気配を感じた。強い香で別のささやかな香りを消すような。
おかしいと思いつつ扉をノックする。ダフネと言う女性が出てくると怪訝な顔をして問うてきた。
―――レンはあなたとお祭りに行くと言って家を出て行ったんですよ? 一緒じゃなかったんですか?
ダフネに断りを入れて睡蓮の部屋に入ると、妙な気配はまだ色濃く残っていた。異国の幻術の一種だろうか。
机の上に置いてあったはずの硝子の容器もなくなっていた。
足早に家を出て睡蓮の気配を探る。妙な気配の名残はまだ残っていたが、肝心の睡蓮がどこへ行ったのかはわからずじまいだった。
*********
ところどころで火がはぜる音、人々の笑い声があがっている。
屋台で勧められた温かい葡萄酒を一口飲むと、ことのほか甘くてぐいぐい飲める。美味しいので二杯目をもらい、カップを持ちながら屋台や広場で踊る人々を見つめていた。
ダフネには竜騎士の彼とお祭りに行くといって家を出た。竜珠はハンカチにくるめて硝子のキャンディポットの中に入れた。
キャンディポットはバッグの中にさらに割れないようにタオルでぐるぐる巻きにしてしまってある。
そうすれば、万が一硝子の蓋が外れることもないだろうし、あの竜騎士が探しに来ることもないだろう。
昼間の手品師にもう一度、昼間と同じ催眠術をかけてもらおうと思ってやってきたはいいが、一日に何度も催眠術はかけられないと断られた。
睡蓮自身に負担がかかるため、別の手品師に頼むのもダメだと念押しを食らう。
がっかりした気持ちのまま、でもこのまますぐに家に帰るのも面白くないと思い、祭りを見学することにしたのだった。
ここ数日、ゆっくり一人きりで考える時間が持てなかったように思える。
周りの人たちの言いなりになって、流されたままになっていた。
自分で独り立ちできる自信もなかったし、この世界のことを何一つ知らない。良い年齢の大人のはずなのに、自分で何も決断できないことに歯がゆく思ってもいる。
ケイナの紹介で仕事は出来ないし、かといって庶民とはかけ離れた貴族の世界に生きている人の婚約者の振りなんて、自分には無理だ。
だったら、自力で別に仕事を見つけられれば問題ない話じゃないだろうか。
そう結論づけた時、見るからに軽そうな金髪の青年が目の前に現れた。
「ねぇねぇ、キミ。さっきから見てたんだけどさ。一人? 一人なら一緒に飲もうよ~」
この世界にもナンパはあるんだ、とせっかくの意気込みに水を差されたような気がして睡蓮は気分が悪くなった。
自分の外見が特に優れているわけでもないのに声をかけられるのは、自分に隙があるからだと思っている。
「結構です、間に合ってます」
睡蓮は斜めかけにしたバッグをしっかりと前に持ち直し、青年の誘いの声を振り切って歩き出した。さっきまで飲んでいた葡萄酒は火を通したと言ってもお酒には変わらない。早足で歩こうとすると足元がふらついた。
酔っぱらって足元がおぼつかないことを悟られないよう、後ろを振り返らずに入り組んだ商店街の中を適当に歩いていく。
ずっと後ろから距離を保って追いかけてくる気配があった。深追いされると厄介だと思い、大通りに出て馬車に乗って帰ろうと思った時だった。
大通りに出られると思った道は、袋小路になっていた。元来た道へ戻ろうと振り返った瞬間、みぞおちに強い痛みを感じ、目の前が真っ暗になって意識が遠のいた。
*********
―――ねえ、睡蓮。聞こえる? あなたの気持ちを汲んで気配を攪乱したんだけど、事態は悪い方へと向かってしまったみたいだね。
小さな子供のような声が耳元で囁いた。
―――誰?
―――昼間、初めて声が届いたよね? いつもずっと話しかけていたんだよ。私はあなた。一緒に生まれてきた半身だよ。
―――半身?
意識がゆっくりと現実に戻ってきたとき、ぼそぼそと人の話している声がくぐもって聞こえてきた。目を開ける前に気づいたのは泥臭い布の匂い。目をそっと開けると、頭に布を被らされていることに気づいた。頭だけじゃない、体ごと全部大きな麻袋のようなものに覆われている。
手を動かそうとすると後ろで拘束されていた。みぞおちが痛い。高倉誠に殴られた時の恐怖が蘇り、呼吸が荒く、浅くなる。
「ちぇっ! この女、大したもの持ってなかったっスね」
「馬鹿野郎! お前の目は節穴か!? この硝子細工の入れ物は骨董品の値打ち物だろうが! それにこの中に入ってたコイツは…相当高く売れる代物だぞ」
「この黒い丸っこい石がですかあ? 親分」
「竜珠を知らねぇのか? これはなかなか取れない宝石で希少価値が高いもんなんだよ。ただ、黒は見たことねぇんだよな。大概白い竜珠ばかりだし、さらに刻印があると足がついちまうから売り払うにはちょっとばかり厄介なんだがなあ…」
「ああ、この竜珠、刻印ないですわ、ダンナ」
声の雰囲気で少なくとも3人の男がいることがわかった。睡蓮はこの後自分がどうなるのか最悪のことを考えつつ、竜珠が硝子のキャンディポットから出されたことを幸運に思った。
キャンディポットから竜珠を出したら…あの人が気配を辿って助けに来てくれるかも。
そこまで考えて、なんて都合の良い考えなんだと自分を殴りたくなった。
「刻印がないってことは、そりゃ好都合だ!」
品のない笑い声が部屋に響く。
「竜珠を売り払い、この女もどこかの奴隷商に売りつければ、しばらくこんな盗賊家業しなくても生きていけるさ」
睡蓮はそんな会話を聞いて、震えが止まらなくなった。どうしよう。ここから逃げるにはどうしたらいいの。
身じろぎしたせいで、ガツンとどこかに体がぶつかり、思いのほか大きな音を立ててしまった。
男たちの会話がぴた、と止まる。睡蓮は心臓がこれ以上ないというほどバクバクと音を立てていくのを感じていた。
―――睡蓮! 落ち着いて。大丈夫。助けが来るから。心を落ち着かせて。あなたの感情が乱れると―――…
「親分、女が目覚めたみたいっス」
「…みたいだな」
床がぎしり、と揺れた。誰かがこちらへ近づいてくる。心臓の鼓動が早くなり、耳がその音でいっぱいになる。
やめて、やだやだやだ、来ないで、来ないで、来ないで。
―――来ないで!!
目を思い切りつぶると、暗闇の中に光る稲妻が爆発するようなイメージが脳裏に浮かんだ。
「はい、そこまでー。みんな、こいつら捕まえて」
場にそぐわないのんびりした口調の男性の声が聞こえたかと思うと、大勢の人間が部屋になだれ込んでくる音が響いてきた。
時折、ガツン、ガタン、とどこかにぶつかる音も。
「何っ!?」
「うわっ!」
「いつの間に!?」
被せられていた布が勢いよく破かれ、新鮮な空気を思い切り吸い込む。時々むせてしまったが、そんなことは気にならなかった。
拘束されていた手首の縄もほどいてもらい、ようやく目の前の人物に視点を合わせることが出来た。
「…あ、ありがとう…ございます」
目の前の人物は長いストレートの金髪を後ろで一つに結んだ端正な顔立ちの青年だった。
髪の毛が長いからか、それほど近くにいても恐怖心は起こらなかった。
「僕はクレール・ド・モンターク。竜騎士団の副団長をしてます。ヴァレリー・リブタークの依頼であなたを救助しに来ました。あなたはレンで間違いない?」
こくりと頷くとクレールはにっこりと笑顔を作った。睡蓮は緊張がほどけたせいか涙があふれてきてとまらなくなってしまった。
「わぁ、泣かないで! あなたを泣かせただなんて知られたら殺されちゃうから」
誰に、という言葉は言わなかったけれど、慌ててハンカチを差し出してきたので、睡蓮は遠慮なくそのハンカチを受け取って涙をぬぐった。
きれいだったハンカチは真っ黒になってしまった。自分の顔はどのぐらい汚いんだろうかと心配になる。
「ヴァルがこの場所を知らせてくれたんだ。間に合ってよかった」
「ヴァ、ヴァレリーさん…は…?」
しゃくりあげながら問うと、クレールは少し困ったような顔になった。
「彼はここには来ていない。うーん。今頃は懲罰房にいるかな?」
「チョウバツボウ?」
「あー…、一般人にはちょっとわかりづらいかな…」
懲罰房とは刑務所の中の部屋の呼び名ではないだろうか。なぜそんなところにという疑問が心に引っかかる。
「ペンダントはどこですか?」
「それってこれのこと?」
彼が黒真珠のペンダントを目の前にぶら下げた。睡蓮が受け取ろうとした途端、クレールは竜珠を自分の懐にしまった。
「え…?」
「あなたがこの竜珠の持ち主かどうか証拠がないのなら、今は渡せない。何しろこの竜珠には刻印がないんだからね」
「刻印って…なんなんですか?」
「竜珠を持っていて刻印を知らない? 本当に? 刻印ってのは所属する竜騎士団の紋章と竜騎士とその妻の名前が刻まれているんだよ」
結婚指輪の裏側に名前を彫るのと同じようなものか、とぼんやりと考える。
「はっきりした証拠なんてないです。でもそれは私の母の形見なんです! 返してくださいお願いします!」
「ごめん。こればっかりは王の判断がないとだめなんだ。申し訳ないけど、これから事情聴取と手首の怪我の手当ても兼ねて城に来てもらうことになる。足は大丈夫? 馬に一人で乗ってもらうから」
睡蓮はうなだれたまま、彼に促されて建物の外に出る。吐く息が白い。拉致監禁されていた場所は小さな一部屋だけの猟師小屋で、小屋から漏れる灯り以外は真の闇の森の中だった。遠くを見やると、木々の隙間から月明かりが地面に細く光の線を下している。
「後ろを見てごらん」
クレールに言われて振り返ってみると、木々の連なりが途絶えたところから建物の小さな灯りが沢山連なっているのが眼下に広がっているのが見えた。ところどころに炎の柱が立っているのも見える。祭りは夜通し行われているのだろう、街中が闇の中、明るく浮かび上がっている。そして遠くの方でひときわ明るくそびえたっているのはおそらくこの国の城なのだろう。
「…ずいぶん山の上の方まで連れてこられたんですね」
「そうだね。あの盗賊たちはこの山から国境越えをしようとしたらしい。祭りの時にはよく人さらいが横行するからね」
これ以上は、馬に乗りながら話をしようということになり、クレールのぶかぶかな上着を羽織らせてもらって馬にまたがった。
「ヴァルには僕の上着を借りただなんて言っちゃだめだよ?」
意味が分からず首をかしげると、クレールは小さく笑った。
「竜騎士は嫉妬深いんだ。お姫様を守るのは自分だけという騎士の矜持ってやつ」
そう言って会話は途切れた。真っ暗な山を馬に乗って下るのは至難の業で、体重を後ろに持って行ったり、小石で馬が躓いたりした時に慌ててたてがみにしがみついたりと、とても会話のできる状態ではなかったからだった。