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竜珠の花嫁  作者: 理子
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 突然の揺れに目をつむり、体を強張らせるが、どこにも痛みは感じなかった。

 咄嗟にヴァレリーがかばってくれたおかげで睡蓮はどこも怪我をすることはなかった。

 うっすらと目を開けると、目の前に斜めに傾いでいる本棚が迫ってきていてぎょっとした。

 ヴァレリーが倒れてきた本棚を支えつつ、心配そうに見下ろしていた。


『ケガは?』

「う、うん……ありがとう。大丈夫。あなたもケガはない?」

『ああ…だが』


 睡蓮の無事を確認した後、ヴァレリーは本棚を元の位置に戻した。

 重厚な本棚が倒れてくるくらいだ。相当な衝撃だったのだろう。

 他の本棚があちこち床に倒れているのを見て、もしここに一人でいたらと思うとぞっとする。


『ブルーノのところに行かなくちゃいけない』


 執務室のある方へ顔を向けながらヴァレリーが呟いた。


「もしかして今の爆発と関係あるの?」

『ブルーノが何かやらかしたんだろう。抑えられる人間が行かないと』


 城内から人々の悲鳴が聞こえ始めた。


『睡蓮は一旦王城の外へ』

「だめだよ! 私もいっしょに行く」


 ヴァレリーは一瞬、逡巡した様子を見せたけれど、すぐに睡蓮を抱えあげた。

 図書館を出ると、慌てふためいて逃げ惑う人々が通り過ぎるが、深くフードを被ったヴァレリーと睡蓮には誰も目を留めなかった。

 執務室までスムーズにいくことが出来そうだと顔を見合わせて頷き、ヴァレリーは執務室へと駆け出したのだった。


 **************


 時は少し前に遡る。


 ブルーノは執務室で黙々と書類にサインをしていたが、離れたところで書類整理をしているニコルに意識が向いていた。

 ニコルはさきほど突然執務室にやってきて、仕事が終わったら話があると言ったきり、黙々と書類整理をしている。

 仕事が終わったら、セドラークと打ち合わせをしなくてはいけない。

 そのあとは何故か日課のようになってしまっているイリーナとのティータイムがあるのだが、何となく今の今まで言い出せずじまいだった。


「ああ…こほん。えー、ニコル? 何か話があるなら今のうちの方がいいと思うんだが? この後もうすぐセドラークがやってくるし、イリーナともお茶をすることになっている」


 いつになく深刻な顔をしている彼女に、ブルーノは子供をあやすような口調で話しかけた。

 ニコルはまとめた書類を棚にしまうと、そうだねと言いながらブルーノの近くにやってきた。


「ボス。今まで聞けずにいたんだけど、いつ城を出ていくつもり?」


 三年も何も言わずにずっと侍女の仕事をやってきた。何か不満もたまってきているのだろう。

 給金を増やしてほしいという話でもなさそうだし、ひょっとすると年頃を少し過ぎてしまったニコルに対してしっかりと考えなくてはいけない類の話だろうか。

 そんなことを思いつつも、何の表情も浮かべていない彼女の瞳を見て小さくため息をついた。

 ブルーノは困った顔でそうだなぁ…と独りごちた。


「ヴァレリーの引継ぎのめどがついたら出て行くさ。元来、俺はこういう仕事は合わない」


 雰囲気が重たくならないように、少し軽めの口調で告げるが、ニコルは俯いたままだ。


「……そう」


 ニコルはブルーノから期待していた答えを引き出せなくて少しだけ落胆したが、彼に背を向けてワインが並んでいるカウンターの方に近づいた。

 そしてそのまま背中を向けたまま話を続ける。


「イリーナはボスのこと好きだよ。彼女のことはどうするの?」

「どうするってお前……彼女とは何もないし、今後も何もないさ」


 ニコルはブルーノから見えないように赤紫色の薬瓶をポケットから取り出し、ワインオープナーの先端を器用に回してゆっくりと蝋を剝がしていく。

 彼の返事がニコルが想像していた通りで、ひとまず安心した。

 特に彼女に対して何の感情も持っていないことがわかると同時に、彼は誰に対してもそうなのだろうなと思ったら、もうどうでも良くなっていた。

 蝋を剥がすと、甘いけれど苦さも混ざっているような独特の香りが漂う。


「……? ニコル、それは?」


 ブルーノがふとどこかで嗅いだことのあるような匂いに眉をひそめた。ゆっくりと椅子から立ち上がり、ニコルの背後に立つと彼女はくるりとブルーノに向き直った。


「気づいてると思うんだけど。私、ボスのこと好きなんだよね」


 ニコルが覚悟を決めてそう告白すると、ブルーノはやっぱりその話かと困ったような顔で目を伏せた。

 長く一緒に居すぎた弊害だ。もっと早くニコルと離れればよかったのかもしれないと思いつつ、なぜか決断できなかった自分にも違和感を覚える。


「……ニコル…俺は」

「私のことも、何とも思わない?」


 何と言えば彼女を傷つけないようにできるだろうか、と眉間に皺を寄せながらゆっくりと口を開きかけた瞬間、ニコルは背伸びをしてブルーノの首に腕をかけ、噛みつくように力強くキスをした。


「……っ!」

「いい。やっぱり答えなんか聞きたくない」


 びっくりした顔のブルーノを見つめながら、封を開けた薬瓶に口をつけて躊躇せずに一気に飲み干した。

 乱暴に口元をぬぐうと、うっすらと赤い染みが袖についた。

 止める間もなくあっという間に空になった薬瓶を見て、ブルーノは血の気が引いていくのを感じた。


「……今、何を飲んだ?」

「これ? セドラークがイリーナに持ってきた薬だよ。竜珠の花嫁になれる薬だって渡してた」

「何……!?」


 ニコルから薬瓶を奪うと同時にドアをノックする音が響き、失礼しますと言いながらセドラークが室内に入ってくる。


「……おや。お取り込み中…」


 セドラークはニコルに対して早く出ていけと言わんばかりの口調でそう言いかけながら、ブルーノの手の中に見覚えのある薬瓶を見つけて声を失った。

 なぜあの薬がここにあるのだ、とセドラークは青ざめる。


「セドラーク! この薬はどこで手に入れた!?」


 初めて見るブルーノの剣幕にセドラークは喉をごくりと鳴らす。

 返答次第ではこの場で剣で切り捨てられてもおかしくないほどに感じた。


 瞬時にどのように話を持っていけばいいのか考える。

 既に蝋が剥がされている。薬瓶には赤紫の液体が少し残ってはいたが、ほぼ空の状態だった。

 ブルーノ付きの侍女はいつ薬を飲んだ?

 今飲んだのか、もっと前か。

 それとも中身を怪しみ、飲まずに捨てた後なのか。

 いや、ブルーノのこの激昂の度合いでそれは絶対にない。

 飲んだ後だとしても遅効性のため、当日は効き目が現れないだろう。遅くとも3日後には結果が現れる。

 なんとかここはうまく切り抜けないとーーー


「あら、まだ仕事中だったの…」


 開けっ放しのままだった扉の向こうで、イリーナが声をかけてきた。


「王室付きの侍女とはいえ、こんな時間まで執務室で仕事しなくてもいいのよ? セドラーク宰相の話が終わったら夫婦の時間だもの」


 イリーナはこの緊迫した雰囲気の中、ゆったりとした足取りで室内に入ってきた。

 廊下にはワゴンの横で入っていいものかどうか逡巡しているイリーナ付きの侍女がいる。

 誰もが口を開かない空間の中、イリーナは空気を読まずに侍女を招き入れようとするが、ブルーノがそれを制して下がらせる。


「質問に答えろ」


 部屋の中に4人だけになるとブルーノの怒りを抑えている声が響く。


 セドラークは顔面蒼白のままゆっくりとイリーナの方へ顔を向けた。

 イリーナは一瞬自分の立場が危うくなりそうだったが、すぐに気を取り直して余裕のある態度を見せ始めた。


「それ……中身が無くなってるようだけど、誰が飲んだの?」


 イリーナの挑発的な問いに、ニコルは無言のまま見返す。

 イリーナにとって、もはや睡蓮は過去の人間であり、今では何かにつけてブルーノの周りにいるニコルが目障りで仕方がなかった。

 そんな時、セドラークからタイミングよく薬を渡された。彼が持ってきた薬は眉唾物で、毒薬に違いなかった。竜珠の花嫁になれる薬なんてあるわけがない。そもそもそんな便利な薬があるのなら、最初から大々的に“イリーナ”を探さなくとも身近な上級貴族の娘に飲ませてしまえば丸く収まった話だというのに。

 自分だって何年も探した挙句、最終手段としての禁忌の手段を取ったのだから。


 セドラークは既に自分に見切りをつけたのだ。暗にこの国から立ち去れと宣告されたのだと察した。

 ヴァレリーの隣に立つのは自分ではなく、あの女になるのだと言われたも同然だった。

 そんな茶番に乗せられてたまるものかと、堂々と邪魔なニコルを毒見役として指名してやろうと目論んでいた。

 自ら飲んでくれたのは予想外とはいえ好都合だった。


「……そう。あなたが毒見してくれたと言うわけね」


 妖艶な笑みを浮かべてゆっくりとセドラークの方へ目線を移す。セドラークは目をそらして床を見つめている。

 この男はいざとなると弱気になる。こんなのでよく宰相になれたものだ。

 イリーナは心の中でセドラークをこき下ろした。


「どういう意味だ。なんなんだ、お前ら。竜珠の花嫁になれる薬!? そんなものあるわけないだろう!」


 ブルーノが普段の余裕のある顔ではなく、切羽詰まった顔で怒鳴るとイリーナは途端に不愉快になった。

 ここまでブルーノが感情を高ぶらせて怒鳴る姿は初めてだった。


「答えろ! セドラーク」


 見たことがないほどブルーノが激昂しているのを見て、イリーナはぞく、と背筋が寒くなる。

 セドラークは元々青白い顔立ちだったが、それ以上に顔面蒼白になっているのが見てとれた。

 それほどまでにこの女が大事だというのか。三年傍で公務も一緒にこなしてきて、こちらに気持ちを少しも傾けてくれないのかと思うとイリーナはやるせない気持ちになった。

 ヴァレリーにも振り向いてもらえず、更にはブルーノさえも自分のことを大事に思ってはくれない。

 なぜいつも自分は選ばれないのか。


「……王都の裏通りにある薬剤師の店で入手、いたしました」

「対の薬は?」

「……ございません」


 セドラークの告白を聞いた瞬間、ブルーノは体の内側からぞわりと何かがあふれ出てくるような感覚を覚えた。

 怒りで全身の血液が沸騰しそうな気がした。

 体の内側で何か得体のしれないエネルギーが渦を巻き始めてどんどんと大きくなっていき、ニコルが止めようとする間もなく、感情が爆発した。

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