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目が覚めると、はるかに高い教会の天井が見えた。
室内に差し込んでくるステンドグラス越しの日差しが万華鏡のように反射して綺麗だなと、ぼんやりした頭で考える。
ふと寝返りを打って隣を見ると、そこには誰もいない。慌てて手を伸ばしてシーツの温度を計るとひんやりとして既にぬくもりは感じられなかった。
「ヴァル!?」
勢いよく上半身を起こすと、体がやけに軽い。
「……?」
自分の体を見下ろして首を傾げつつも、それよりヴァレリーはどこに、と辺りに視線をめぐらす。
ヴァレリーは窓際のへりに腰を掛けてじっと外を眺めていた。
いなくなったわけではないと内心ほっとして小さく息をつき、ベッドから降り立った。
「……おはよう、早いね」
ヴァレリーに近寄るとふわりと懐かしい森林の香りが漂う。既にシャワーを浴びてきた様子だった。
タオルを頭から被ったままちらりと睡蓮を見遣るが、顔を覆う黒い鱗は蝋燭の明かりで見て取った時よりは実際には少なかったけれど、まだ残っている。
目尻の黒いえらのような模様ははっきりと刺青のように刻まれているし、以前の端正な顔立ちと比べると恐ろしい形相になったのには変わりない。
明るい日差しの下ではそれがはっきりとわかり、ヴァレリーは気まずそうに顔をそらした。
『……後悔してないか?』
彼の自虐めいた言葉に、睡蓮はふっと笑みを浮かべてもう一歩近づき、ヴァレリーの手に自分の手を添えた。
一瞬身をすくませた様子に、睡蓮は一呼吸おいて口を開く。
「……今更ヴァルが何を言っても。気持ちは変わらない」
少し強めの意思をと思って、きっぱりと言い切った睡蓮の言葉にヴァレリーは少し顔をあげた。鱗があるために表情筋がうまく働かないようで、無表情になってしまっていたけれど、彼の周りをとりまく雰囲気が柔らかくなっているのがわかる。それに何よりもゆっくりと現れる白銀の蔦が二人の絆を証明しているように見えた。
「それにほら。髪をよく乾かさないと風邪ひいちゃうよ?」
ヴァレリーの頭にかかっているタオルに手を伸ばそうとしたとき、ふわりとヴァレリーの腕の中に抱き込まれた。
「ヴァル!?」
『睡蓮は……父親に会いたいか?』
体が密着し、顔がすぐそばにあるのに声は頭の中に直接響いてくる。
不思議な感覚のまま、睡蓮は意図がつかめずゆっくりと顔を上げた。
竜珠と一緒に過去を覗いた時、母親の横に自分と同じ髪の色の男性がいたことを思い出す。
「……うん」
睡蓮が小さく頷くと、ヴァレリーは少し瞳が揺らいでいたけれど、やがて納得したかのように頷いた。
『睡蓮のことを認めてもらわなければいけないから、会いに行かなくてはと思っていた』
「でも、ヴァルは気まずくない?」
何を言い出すんだと言いたげな顔に、睡蓮は少しからかいたくなるような気持が込み上げてきた。
「だって。ヴァルは昔、お父さんが恋のライバルだったんでしょう?」
『……!?』
「私、過去を見てきたから知ってる」
睡蓮を抱きしめる腕が離れたかと思うと、ヴァレリーは自分の腕で自分の顔を隠すようにして少し体を離した。
顔は腕で隠していても耳は真っ赤になっていて、ヴァレリーがとんでもなく恥ずかしがっていることがわかる。
「勘違いしてたって」
『それ以上言うな。恥ずかしすぎる』
可愛い。
今の外見からは全くそんなことは思えないはずなのに、睡蓮は思わず小さく噴き出してヴァレリーの腕に手を添えた。
表情は以前よりももっと乏しくなっているけれど、それ以上に感情が以前より豊かになっていて睡蓮はそのことについてもうれしく感じていた。
この人は、ずっと閉じ込められていても心が壊れなかった。
「……ヴァレリー。待っててくれてありがとう」
睡蓮が静かに言うと、ヴァレリーは腕を下ろして睡蓮のほうをまっすぐと見た。
そして、ヴァレリーは心の底からの笑みを浮かべた。
表情がわかるような外見ではないけれど、初めて見るその笑顔に、睡蓮は改めてこの人のことを好きなのだと再確認したのだった。
**************
『今からフェルディナンドのところへ向かおう。支度をしておいで』
突然そんなことを言うので、教会の魔法陣をくぐるのは大丈夫なのかと顔に出ていたようだった。
ヴァレリーは黙って頷いた。
睡蓮は慌てて浴室へ行き支度を急いだ。
シャワーを浴び、髪を整えて浴室から出てくると、既にヴァレリーは着替え終わり、顔があまり見えないようにして暗色のフードを深く被りなおしていた。
教会の小さな扉の前で、睡蓮は不安になってもう一度確認をする。
「本当に、大丈夫なんだよね?」
『ああ。心配ない』
そういって、何事もないようにドアノブに手をかけて扉を開けた。
長い廊下が見え、睡蓮が廊下とヴァレリーを交互に見やると先にどうぞと促される。
恐る恐る自分だけが先に廊下へ出ると、そのあとに続いてヴァレリーが扉をくぐるようにして外に出てきた。
『ほら、平気だったろう? 竜化が収まってないときに出ようとしたこともあったが、その時は……まあ最悪だった』
少しおどけたような口調で言うが、いつかの時に竜珠の気配が消えてしまった瞬間に、ヴァレリーはまた不安定になってしまったのかもしれない。こんな風にふいに辛い過去を思い出すのは避けたかった。
ただ、そんな気持ちですらヴァレリーに筒抜けのようで、彼は何も言わずに睡蓮の頭を軽く撫でただけだった。
そして教会を出ると、いつから待機していたのかわからないけれど、竜騎士たち数名が肘をついて出迎えた。
「クレール団長がお呼びです。執務室へご案内いたします」
**************
「まずはおめでとうって言った方がいいか」
記憶にあるよりも少し歳を重ね、髪が短くなったクレールがにやにやしながら言う。
竜騎士団の執務室へ通された睡蓮は、クレールの前で少し気恥しい気持ちになっていた。
城へ来たときはヴァレリーに会わなくてはという気持ちで頭がいっぱいだったため、そのあとのことを全く考えていなかったからだ。
クレールは睡蓮がいなかった3年ほどの期間に何が起こったのかを順序だてて説明してくれた。
国王陛下は退位し、ヴァレリーのお母さんの下で暮らしているということ。
そしてブルーノがヴァレリーの影武者として、王位に即位したこと。
イリーナさんは側室候補のままだということ。
どれも初めて聞くことばかりで、睡蓮は物事を順序良く把握していくことに精いっぱいだった。
「ヴァル、お前なぁ、3年の間にいろんなことが起こってたっていうのに、全くその話はしなかったのか。どれだけ飢えてたんだ」
『そんなことはどうでもいいから、フェルディナンドの今の居場所を教えろ』
睡蓮が何て言っていいのか戸惑うと、そのまま伝えていい、とヴァレリーは促した。
「えっと……フェルディナンドさんのところへお伺いしたいので、住所を教えていただけませんか?」
クレールは苦笑しながら通訳も大変だなあ…と呟いた。
「しかし、なぜ隊長に?」
睡蓮は、竜珠と一緒に見てきた過去をかいつまんで説明した。
自分はイリーナの娘であること、そしてフェルディナンドが実の父親に当たることを伝えると、クレールの顔が少し曇った。
「……隊長の住所を教えるのは簡単だ。けどな、会いに行くにはちょっと問題があるんだよ」
「問題?」
クレールはヴァレリーと睡蓮を交互に見遣ってから、ゆっくりと告げた。
「隊長は何年も前に結婚して妻と子供がいる。レンが会いに行って娘だと告白してもにわかには信じてもらえないんじゃないかと思うよ」
「そうだとしても……一度会ってみたいです」
クレールは机の引き出しから一通の封筒を取り出して、そこに書いてある住所を紙に書き写した。
「隊長が王都に引っ越してきてから、時々近況報告をしてるんだ。じゃなかったらすぐに住所なんて調べられないから運がよかったな」
「ありがとうございます!」
睡蓮がお礼を言って立ち上がると、クレールは手で座るように促した。
「まあ慌てるなよ。辻馬車を用意するから。城の馬車で行ったら悪目立ちだぞ」
**************
クレールの用意してくれた馬車に乗って、教えてもらった住所にやってきた。
お昼時で道は人通りが多い。
フードを深くかぶったヴァレリーがそこにいるだけで、人々の注目を浴びてしまっていた。
『……俺は馬車で待機していた方がよかったかもしれないな』
そういってヴァレリーが踵を返そうとしたとき、通りから中年の男性がこちらへと向かって歩いてくるのが見えた。
少し歳を取ったように見えるが、フェルディナンド・バレージだった。
彼は自分の家の前にたたずんでいる二人の男女に気づき、訝しげに見やると立ち止まった。
「うちに何か用か?」
警戒心のこもったはっきりした声音で言われると、睡蓮は身がすくんでしまった。
「あ……、あの……」
「呪いの類ならお断りだ。帰ってくれ」
「違います。私たちはフェルディナンドさんに会いに……」
その時、背後で家の扉が開いた。
「おとーさん? おきゃくさま?」
睡蓮が振り返ると、5,6歳ぐらいの少女がそこに立っていた。
髪や瞳の色が自分と同じ明るい茶色で、睡蓮はどきりとした。
もしかしたら自分の異母妹かもしれないのだ。
今まで天涯孤独だと思っていたのに、父親や妹までいるとわかって心臓の鼓動が早まっていた。
「ミレーネ。まだ具合が悪いんだろう。中に入っていなさい」
フェルディナンドがそう告げた瞬間、ミレーネと呼ばれた少女は躓いてその場に倒れそうになった。
倒れなかったのはとっさにヴァレリーが抱き留めたからだった。
「おいあんた! うちの娘に触る…な?」
慌てて駆け寄ったフェルディナンドがヴァレリーからミレーネを奪い返すと、おや? という顔で首をかしげた。
「……あんた……ちょっと顔見せてくれないか?」
ヴァレリーは道の往来でフードを外すことができないため、その場で身動きせずにどうすればいいか逡巡していた。
「あの! 彼はちょっと顔にけがをしていて、フードを外せないんです」
睡蓮が間に割って入って説明をしようとすると、フェルディナンドの視線はヴァレリーに向かったまま、確信めいた口調で尋ねた。
「……ヴァレリーか」
睡蓮とヴァレリーはお互いに目配せをし、ヴァレリーはフェルディナンドへ向き直るとこくりと頷いた。
「お前の気配は昔から独特だったからな。ここじゃなんだ。家に入れ。……そちらのお嬢さんも」
意図せずして、フェルディナンドと話せる機会を持つことができて、睡蓮たちは慌ててフェルディナンドの後をついて行った。
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フェルディナンドの家は質素だったが、小ざっぱりしていて清潔感があった。
一見すると、ヨーロッパの古民家のようでおしゃれなインテリア雑誌にも載っていそうな雰囲気なので、睡蓮は思わずきょろきょろと見渡してうっとりしてしまったほどだ。
睡蓮はテーブルの席につき、ヴァレリーはソファに座った。ミレーネはヴァレリーの横にくっついて離れない。
意外と子供に好かれる人なのかもしれないな、と睡蓮は思った。
「……突然、俺のところに来た用事はなんだ? 懐かしいから遊びに来たっていう間柄でもないだろう。俺たちは」
お茶を出しながらフェルディナンドはヴァレリーに厳しい目を向ける。
「いきなりやってきて、だんまりか? おい」
「あの……彼は今、言葉が話せないんです」
居たたまれなくなり、睡蓮が口を開いた。
フェルディナンドがギロリと睡蓮に目を向ける。
「お嬢さん、あなたも俺に何の用事なんだ? 娘への呪術なら間に合ってるぞ?」
「じゅ、呪術……?」
「娘の病気が治らないから、薬師よりも呪術師が押し売りに来るようになったんでね」
そういって、フェルディナンドは自分のお茶をぐいっと喉に流し込んだ。
「今日、お伺いしたのは……」
震える声で次の言葉を言おうとしても、なかなか声が発せられなかった。
『睡蓮。無理して言うことでもない。また日を改めて、クレールを間に介して自分の父親だと伝えてもらうのも手だ』
ヴァレリーの優しい提案に、ついクレールに頼んでしまおうかと思った矢先だった。
「睡蓮お姉ちゃんは、私のお父さんの子供?」
ミレーネが睡蓮をまっすぐ見やりながら無邪気に言葉を発した。
「……ヴァルの言葉がわかるの?」
「お兄ちゃんの声は不思議。頭の中に聞こえてくるよ」
その言葉にヴァレリーも戸惑っているようだった。
「おい。ちょっとまて。ヴァレリーの声の前に、なんだ今の話は。お嬢さん、あんたが俺の子供だって?」
今度こそ、フェルディナンドの眉間にしわが寄った顔を見て、睡蓮は覚悟を決めなくてはいけなくなった。




