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睡蓮は居ても立ってもいられなくなって、ベッドから飛び起きた。
けれど3年もの間ずっと寝たきりだった体は思うように動かず、ベッドから床に転げ落ちる。
何とかして立とうとしても筋肉が衰えすぎていてなかなか自分で起き上がれなかった。
情けなくて涙が出てきそうになった。
3年もヴァレリーを一人ぼっちにさせただなんて。
心が脆い人だってわかってたはずだったのに。
私がしたかったのはこんなことじゃない。
ヴァレリーに本当の竜珠の花嫁を連れて行ってあげたかっただけなのに。
今更会わせる顔がないと思いつつ、でもちゃんと会わなくちゃとも思う。
それに、最初からこんなに時間がずれてしまうなんて知っていたら、あえて過去を知ろうとは思わなかったかもしれない。
あのまま過去を知らないままだったら、私はフィンを選んでいたかもしれないんだ。
どんなに罵られてもいい。会わなきゃ。
睡蓮はなんとか立ち上がり、よろよろとしながらも扉を開けた。
扉を開けると廊下にケイナが立っていた。
「そんな体でヴァレリー様のところへ行くつもり?」
「そう。アビーを待ってられない。一刻も早く会いに行きたい」
ケイナはため息をついて睡蓮に手を差し出した。
「昔、あなたを魔法陣で移動させたこと覚えてる? 今ならヴァレリー様のところまでは無理だけど、こちらに向かってるアビーのところまでなら移動できる。アビーの飛竜に乗ってそこからすぐに城へ戻れば…」
ケイナの腕に縋りつくような姿勢になりながらも、睡蓮は必死に懇願した。
「お願い! 今すぐアビーのところまで連れて行って!」
「そう言うと思って準備しておいたわ」
「ありがとう!」
その後、少しばかりの体力回復の魔法をかけてもらい、自分の荷物をまとめ、何かあった時のための少しばかりのお金も借り、ケイナに連れられて魔法陣の敷いてある部屋に移動する。
薄暗い部屋の中で青白い紋様が浮かび上がっている魔法陣はかなり大掛かりなものだった。
周りに魔術師のような人間が10人ほど詠唱を唱えている。
「まだ修行中の身だからね。一人で遠距離移動の魔法陣は組めないの。さあ、魔法陣の中心に立って。アビーのいるところまで転移させるから」
ケイナの言う通りに魔法陣の中心に立つ。
「目を瞑って、アビーのことを強く念じて」
そう言われた瞬間、足元がぐらりと揺れたような気がして睡蓮は思わずどこかに捕まろうとして手を伸ばした。
睡蓮の姿が消えた後、ケイナは複雑な表情をしながら魔法陣があったところを見つめていた。
「……レン。あなたは後悔しない人生を送ってね」
**********
手を伸ばした先に見えた風景は、とある宿の裏にある飛竜を休ませる竜舎だった。
突然その場に現れた睡蓮に、繋がれている飛竜が驚いて暴れだす。
「わっ…! ちょ、ちょっと静かにして…っ? 何もしないから……ね?」
いつかのオリバーに言われた、今の自分は飛竜にとっては裏切り者という言葉が思い出された。
自分が近づいたら飛竜が攻撃してくるのではないかと及び腰になってしまう。
そもそも、ケイナのプランに深く考えずに飛びついてしまったけれど、飛竜に乗って城に戻るというのはかなり無謀な話だったかもしれないと、今更ながらに飛び出してきたことに焦りを感じ始めた。
繋がれているのは気性の荒い飛竜なのか、しきりに顔を前後に振って牙を剥きだしてくる。
その力で頭絡につないである左右の綱を通じて柱がしなりだしてくる。
柱が倒れて綱が解けたら襲われるかもしれない、と最悪のことを考えながら宿の方へ向かおうと体の向きを変えようとした矢先。
「何者だ! 飛竜に近づいたら命はないと思え!」
背後から唐突に喉元に剣を突きつけられ、睡蓮はぎくりと体を強張らせて立ちすくんだ。
咄嗟のことに睡蓮は声も出せずに真剣を間近に突きつけられて何もできなくなってしまった。
剣の持ち主はゆっくりと剣を突きつけながら睡蓮の真正面に体を移動させた。
そして、険しい顔から途端に呆気にとられた顔になる。
「……レン!? お前、なんだってここに……?」
目の前に現れたのはアビーだった。
アビーははっと我に返ると素早く剣を鞘にしまった。
剣が目の前からなくなると、睡蓮はへなへなとその場にしゃがみ込む。
よくテレビで剣や銃を突きつけられているシーンを見るけれど、自分がやられると本当に足がすくむことを再確認した。
「よ…よかっ……アビーに会えた……」
脱力しつつも、アビーに会えた喜びで涙腺が緩む。
ぶわっと涙が溢れてきている睡蓮にびっくりしながらもアビーもしゃがみ込んだ。
「ケイナのところにいるんじゃなかったのか?」
「お願い。すぐにヴァレリーのところに連れて行って!」
必死に頼み込む睡蓮とは裏腹にアビーは少し困ったような顔をして黙り込んだ。
「この子、アビーの飛竜なんでしょう? お願い!」
「……レン。ちょっと落ち着こうか」
「なんで!? 私、早く教会に行かないといけないの! 落ち着いてなんかいられないよ!」
「……ようやく目が覚めたと思ったら、何をそんなに慌ててるんです?」
背後から呆れたような口調の男性の声がかかり、睡蓮はぎくりと体を強張らせた。
「オリバー」
アビーの問いかけに、オリバーはゆっくりと睡蓮の視界に入るように歩いて近づいてきた。
「ようやく竜珠の花嫁の自覚が出来たようですね」
オリバーが近づくと、アビーの体からふわりと薄い緑色の輪郭のようなものが浮き上がってくる。
アビーに手を差し出し、彼女がその手を取ると蔦のようなものがお互いの腕に絡みつくように動いている。
「ああ…これが見えますか? これが竜の血を引く者と竜珠の花嫁の繋がりなんですよ。以前のあなたにもありましたが、残念ながらヴァレリー殿とは相容れない様子でしたけども」
蔦のように見えるものは、半透明で手を放してしまえばすぐに切れてしまう脆いものだった。
ただ、近くにいると互いに蔦のようなものが絡み合おうとしているのが見える。
「ケイナ殿から事情を聞いています。城に戻る前に少しお話をさせてください」
オリバーが先に歩き出し、不本意ながらもその後をついていこうとした時。
後ろでアビーが飛竜の綱を外して飛び乗る姿が見えた。
「アビー!?」
アビーは無言で睡蓮の腕を掴み、ぐいっと自分の方へと引き寄せた。
飛竜も睡蓮が背中に乗りやすいように体を斜めにしてくれたおかげで不格好ながらもアビーの後ろにまたがることが出来た。
「アビー! 何してるんだ!? 降りなさい!」
「オリバー。レンは飛竜に乗れたよ。私はこのままヴァレリーのところに連れていく」
「おい!」
オリバーの制止を振り切って、飛竜に飛ぶように指示を出す。
飛竜は二人を乗せたまま大きく翼を羽ばたかせて上空の風に乗った。
**********
しばらく無言のまま空をかけていく。
睡蓮は恐る恐る、アビーの顔色を覗き込もうとした。
ただ、アビーはゴーグルをしているため表情は読み取れない。
「……アビー…? あの……オリバーさんのこと……大丈夫……?」
「ん? ああ、いいのいいの。オリバーはブルーノ様の指示で動いてるけど、内心は私と一緒だと思うから」
「でもあとでケンカになったらごめん」
「大丈夫! 私、オリバーの竜珠の花嫁になったんだよ? 些細なケンカごときで仲たがいなんてしないって! あいつ、私にベタ惚れだからな!」
……そりゃあ、竜の血を引く人間だから。浮気も絶対にしないし一生涯その人だけを想うからこそ言えるセリフだろうけれど。
「それより、レン。ケイナに話を少し聞いてるんだろ? ヴァレリーは中途半端に竜化したまま教会から出られない。それに今は魔法陣が強化されて、今のところブルーノ様しか教会に出入りできなくなってる。オリバーや私も試してみたんだけど、教会の中には入れないんだよ。それに……」
「それに?」
「イリーナはイシュト帝国復興のためにがんとして側室の座は譲らないと宣言してる。あわよくば正妃になろうともしてるんだ。ただ、相手はブルーノ様だけどね……」
「相手がヴァレリーじゃなければ大丈夫だよ。建前上は気分良くないけど」
「……まあね。あとはセドラーク宰相が今回の件であまりいい顔してないってとこ。今のところヴァレリーが低め安定になってるところに、レンが目覚めてただでさえ不安定なヴァレリーの精神に、どのように作用するのかっていうのが見えないからね……」
あの赤い目をした男を思い出し、睡蓮は身震いした。
あの人は国のためならどんなに手を汚しても構わないと思っている。
なぜ、そんなに国に忠誠を誓おうとしているのかよくわからない。何か自分にメリットでもあるんだろうか。
「レンは……ヴァレリーの別の顔を知ってる?」
「別の顔?」
「……ほら、竜化した時の姿っていうか……」
私は見たことないんだけど、と言いにくそうに告げる。
「……うん。教会にいるときに」
「そっか。その姿を見てどう思った?」
あの時、ヴァレリーの姿を見て自分がどう思うかというよりも、ヴァレリーの心の痛みの方に気持ちがいっていたから。
「どんな姿だっていいんだ。私はヴァレリーに今の気持ちを伝えたいから」
**********
教会の入口に飛竜を着地させると、教会の門番兵が慌てて近づいてくる。
「アビゲイル様。こちらは何人たりとも立ち入り禁止との……」
「知ってる。でも国王陛下の命で来たから」
「では陛下の勅命の令状を…」
アビーは門番兵の悲痛な声をよそに、睡蓮の腕を掴んで教会の扉を開く。
「レン。ここからはお前しか行けないよ。ヴァレリーによろしく」
アビーの大人びた笑みに、睡蓮は心がざわついた。
ほんの少しだけ会わなかっただけだと思っていたのに、アビーの大人びた表情や物言いに確実に3年もの月日が経っていたのだと再確認する。
「ありがとう!」
教会の扉が閉じると、しんとした無音の空間になる。
まっすぐ突き当たりの正面の扉を開けば、ヴァレリーに会える。
睡蓮は正面の扉の前まで走り寄り、息を整えながら扉に手を掛けた。
絵に描かれたような扉は、睡蓮が触れると瞬く間に立体的な扉になり、そっと開かれた。
夕陽が差し込み、教会のステンドグラスが光って眩しい。
思わず、目を細めて天井近くを見遣る。
「……ス…イレ…ン……?」
背後から微かにしわがれた声が聞こえた。
ヴァレリーかと思って振り向くが、そこには誰もいなかった。
浴室につながる扉が目の前にあるだけだ。睡蓮はその扉へゆっくりと近づいていく。
「ヴァル?」
心臓がドキドキする。心拍の音で耳が遠くなっているような気がする。
歩いている自分の足音すら聞こえない。
「……そこにいるんでしょ? 会いに来たよ?」




