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ベルが鳴るのと同時に、目の前が真っ暗になり、ふわりと毛布に身体を包み込まれる感覚があった。
―――今まで全てを話せなくてごめんね。
優しく、染み渡るように竜珠の声が頭の中で響いている。
―――何も知らない状態で記憶を全て明け渡してもよかった。そうすれば事は簡単だったかもしれないけど。
「そうだよ。すぐに打ち明けてくれてればこんなことには…」
―――うん。でもね。何も知らない状況でヴァレリーを好きになってほしかったんだ。竜珠の花嫁だからというんじゃなくて。そしてこれは睡蓮のお母さんの意思でもあったんだ。
「……お母さんの……?」
―――だってヴァレリーと恋愛をしないで結婚するのは、決められたことのようでとてもつまらないことだと思わない? お母さんはいつもヴァレリーと出会って恋愛してほしいと願っていたんだよ。
「そんなこと言ったって、私がヴァルを好きになるかなんてわからないじゃない」
―――いいんだよ、それで。それは睡蓮が決めることなんだから。確かにヴァレリーは睡蓮を竜珠の花嫁に決めていたけど、だからって睡蓮がそれをそのまま承諾しなきゃいけない理由はないよ。ブルーノがそうでしょう。
確かに選択権は女性側にある。
側で彼女の子孫を見守っていくのも一つの愛なのかもしれないけれど、それでもやっぱり唯一無二の存在が自分を見てくれないのは精神的に堪えるだろうとは思う。
だからといって、最初からヴァレリーの正式な花嫁だと言われ、寿命が普通の人間よりもかなり延びると言われてすんなり受け入れられるものでもない。長い時間を過ごす覚悟だって必要だ。
そもそも自分が住む世界とは違うと思っていたのだし。
―――とにかく、ヴァレリーのことを少なからずは良いと思ってくれているみたいだから安心したよ。
竜珠のはっきりした物言いに、睡蓮は返事に詰まる。
―――今の睡蓮になら、全てを返せる。これまで見てきた感情を、自分で感じてみて。
「え?」
突風がこちらに向かって吹いたかと思うと、突然視界がひらけた。
真っ白で何もなく、目も眩むほどの白い光で目が開けられなくなる。
目を瞑る瞬間、竜珠の声が聞こえた。
―――ばいばい、睡蓮。
がくん、と足元の底が抜けたかと思うと、次に目が覚めたのはベッドの上だった。
汗をびっしょりとかいていて、気持ち悪い。荒い息を整えてからゆっくりと起き上がる。
見渡すと客間のようだったけれど少し、乾いた土や砂と麝香のような香りが漂う部屋だった。
その時、白くて長いドレスのような民族衣装をまとった侍女らしき若い女性が入ってきて、ベッドの上の睡蓮と目が合う。
目が飛び出るかと思うぐらいに大きく目を開いてその女性はその場で一瞬固まった。
睡蓮も何か言おうとしたけれど、喉から声が上手く出なくて思わず咳き込んだ。
「えっ!? ちょっ!? レン様…!? わわっ! ちょ、ちょっとお待ちくださいませねっ!?」
侍女はベッドサイドに慌てて駆け寄り、持ってきた蒸しタオルをチェストに置くと、代わりに水差しからコップに水を注いで睡蓮に差し出した。
睡蓮がコップを受け取り、自分で飲もうとすると侍女はそのまま手を添えて水を飲むのを手伝ってくれるそぶりを見せた。
「ずっと眠ってらしたから、一気に飲み込むとむせてしまいますので意識してゆっくり飲んでください。腕の力も落ちてるはずですから手を添えさせていただきますね」
そう言われて睡蓮は喉の渇きを感じていたけれど、最初は口の中を湿らす程度、次は少しだけ水を飲み込むと、すぐさま水が体に吸収されていくような感覚に陥った。
十分な量の水を飲むと、一息つけた。
「……ありがとう」
「どういたしまして! お体を清めさせていただく前に、ケイナ様に連絡してこようと思うんですがよろしいですか?」
こくりと睡蓮が頷くと、その女性ははにかんだ笑みを浮かべて一礼をして慌ただしく部屋を出て行った。
一人になって、ふとさっきの言葉を反芻する。
ずっと眠ってらしたから―――
ずっとって、どのくらい?
血の気が引く思いで思わず自分の顔に手を添えるが、肌の質感は特に加齢を感じさせるものではなかった。
その時、軽くノックをして女性が入ってきた。
足元までの長く黒いドレスを着たケイナだった。
「ああ、レン! 良かったわ、目が覚めて」
ベッドサイドに走り寄ってきたケイナの顔立ちは、少しばかり歳を重ねたような雰囲気を醸し出していた。
「……うん。あの……おばあさんは? 話したいことがあるんだけど…」
睡蓮が老婆のことを口にすると、とたんに喜んでいたケイナの顔が曇る。
「ケイナ……?」
「レン。よく聞いてね。あなたがツィエッラ様の部屋に行ってから今日まで、3年の月日が経っているの。その間に先代様はお隠れになって、私が次のツィエッラ候補として修業しているのよ」
お隠れに…という単語に、睡蓮は頭をガンと叩かれたような気がした。
帰ってきたら老婆と色々と話したかった。あの時から3年も経っていただなんて。
「そんなに時間が経ってたの…?」
ケイナは目を伏せて頷き、思案顔になって黙り込んでしまった。
「……ケイナに聞きたいことがたくさんある。ヴァルはどうしてる? フィンは? ブルーノさんには連れて行ってもらいたいところがあるのに」
「レン」
ケイナは意を決して喉の奥から声を絞り出すようにして語りだした。
**********
睡蓮が先代ツィエッラの部屋に籠って意識のない状態になってから3年の間に、ヴァレリーが国王となったことを知らされた。
そして、竜珠の花嫁としてイリーナもとい、タレイア姫が側室となった。
そこまで聞いて、愕然としている睡蓮にケイナは慌てて付け加えた。
表向きはヴァレリーということになってはいるが、実際はブルーノがヴァレリーの代わりを務めていて、本物のヴァレリーは教会の中で竜化したままずっとそこに籠っているという。
フィンと言えば、ヴァレリーとタレイア姫の結婚に伴い、恩赦という形でこの屋敷から出ることを許され、今はトゥシャンで一般市民として生活しているという。
「……教会に……」
睡蓮は先ほどとは別の衝撃を受けていたが、内心少し安心してもいた。
「でもね。悪い話ばかりじゃないのよ? アビーはオリバー様の竜珠の花嫁になったのよ」
ケイナが睡蓮の手に自分の手を重ねて言う。
「それに今アビーがこちらに向かってると連絡が入ってるから、詳しい話はアビーが来てから後でしましょう」
それまではゆっくり過ごしていて、と言い残し、ケイナが部屋から出ていくと睡蓮は改めてため息をついた。
私はなんて自分勝手なんだろう。
ヴァレリーが教会で軟禁状態になっていると聞いて、安堵している自分に嫌気がさした。
他の誰とも結婚せず、自分を待っていてくれているのだと傲慢な気持ちと申し訳ない気持ちがないまぜになっている。
「……ヴァレ…リー……」
睡蓮がそう呟いた瞬間、目の前が真っ白になってぶわっと全身の毛が逆立つような錯覚に陥った。
最初に感じたのは母の胎内に居るときの記憶だった。
ようやく魂の半身に出会えた喜びに打ち震えていた。
私はここにいる! と訴えていたけれど、ヴァレリーには気づいてもらえなかった。
自分ではない他の人間に気持ちを寄せていると感じた時の絶望感は言葉にしがたいほどだった。
徐々に視力が戻ってくると手の震えが止まらなかった。
しばらく震えている両手を見つめながら、知らないうちに涙を流している自分に気づく。
体中、鳥肌が立っていて、思わず両腕を抱きしめた。
そして、初めて体感した。
竜珠の花嫁が相手を受け入れると、こんなにも相手の感情が手に取るようにわかるなんて。
睡蓮は今、ヴァレリーの感情をダイレクトに受け止めていた。
孤独。寂しさ。後悔。
ヴァレリーの感情はそれらがないまぜになっていた。




