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かすかな竜珠の気配を辿り、図書館の中へ入る。
館内に入ると、急に心の中がざわついて落ち着かなくなった。深い悲しみの感情が伝わってきて、こちらまで気分が落ちてしまい、嫌な気持ちになった。
竜珠の持ち主の感情が直に伝わってくるのかもしれない、とヴァレリーは思った。他人の喜怒哀楽の感情に自分の感情を乱されたくはない。特に出征時には命にかかわるからだ。
閲覧室の片隅で、頬杖をつきながら本を読んでいる姿を見つけた。うつむいて何を読んでいるのかと思ったら、幼児向けの絵本を開きっぱなしにして、何か考え事をしているようだった。
声をかけようとして、ふと俯いた横顔を見ると懐かしい女性を思い出した。
―――なぁに? ヴァル。驚かせようったってすぐにわかるのよ。あなた気配を消すの下手なんだもの。
濃い緑の瞳が笑みを浮かべてこちらを見上げる。
かつて愛した女性の笑顔と目の前の女がなぜかだぶって見えて、ヴァレリーは頭を振った。
泣きそうなほど悲しい感情に引きずられて、昔のことを思い出しただけだ、と気持ちを切り替えた。
「突然話しかけてすまない。少し話をしたいのだがよろしいだろうか」
我ながら下手な声のかけ方だと重々承知していた。傍にクレールあたりがいたら腹を抱えて笑い転げただろう。女は一瞬あくびをして、涙を拭いたような仕草をしていたが、泣いていたのを下手にごまかしているようにしか見えなかった。やがて焦点がこちらに合うと琥珀色の瞳を大きく見開いた。
「建国にまつわる竜の絵本か。懐かしいな」
女性の涙について何と声をかければいいのかわからなかったため、特にとりとめのない話をしたつもりだった。だが目の前の女は体を強張らせてこちらを凝視しているのみだった。もしやと疑問に思った言葉を口に出してみる。
「言葉を話せないのか?」
女の胸元にある竜珠が目に入った。無意識にもっと近くで確認しようと身をかがめると、女は慌ただしく立ち上がって後ずさった。
立ち上がると、やはり背の高い女だと思った。夜会でダンスの相手をしなくてはいけない時、貴族の令嬢のほとんどはかかとに高さのある靴を履いているにも関わらず自分の肩までもないのだ。
そんなことを思いながらもなんて声をかけなおそうか考えていた時。
『な、なんなんですか? あなたは』
女が震える口調で何か言葉を発した。各国の多言語の勉強をしてきた自分にも理解のできない言葉だった。だが声のトーンでこちらを非難しているのは明らかだった。
弁解しようとした時、机の上に置いてあった荷物をひったくるようにかき集めて抱え込んだ姿は、威嚇している猫のようにも見えた。
「レーン。探したよー! こんなところで何してるのー?」
ふいに浅黒い肌の若い女性が近づいてきた。この女と知り合いのようだった。女は走って彼女の背後に回り込む。
耳元で何かを囁いていたが、やはり耳の良い自分にも聞き取れない言語のままだった。
やがて、女がその場を立ち去った。浅黒い肌の女性だけがその場に残り、こちらに向かって一礼をする。
ケイナと名乗った女性は国王陛下の命であの女―――レンという女の身辺調査を行っていると唇の形だけで告白した。声にして誰かに聞かれでもしたら大事になる。懐から王室からの密勅書を取り出してこちらに差し出す。黒の竜珠がらみなら、あの王ならそれくらいのことはするだろう。
受け取って中身を確認する。直筆の王のサインも、勅紙の手触りにも偽物の様子は見受けられないし、何より、レンに硝子の容器を知らせたのもこのケイナという女性の差し金だとわかると、無性に居心地が悪くなった。一筋縄ではいかなそうな頭の回転の良さそうな女性だと思ったからだ。
ただ、理解できないことは、レンという女はケイナとはちゃんと大陸公用語を使って会話が出来るのだという。それも流ちょうに。
さっき声をかけた言葉は大陸公用語だったのだが、あのひきつった表情からするとこちらの言っている言葉が理解できないように思えたが。
ケイナに、彼女に頼みごとをお願いしたいと伝えてくれというと快諾してくれた。
我ながら、突拍子もない頼みごとを思いついたものだ。
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ケイナはほどなくして教室へ戻ってきた。
「ねぇ…あの人、ほんとに知り合い?」
移民で語学学校に通ってるケイナを疑うわけではないけれど、この国の竜騎士、それも有名らしき人と知り合いということがどうしても繋がらない。穿った目で見つめる睡蓮を見て、ケイナは笑った。
「まだ言ってなかったわね。私、お城で侍女の仕事をしているの。まだあまり文字が読めないものだから仕事に支障が出ないよう、学校に通わせてもらっているのよ。彼とは城内でひょんなことで知り合ったことがあってね」
侍女。具体的に何の仕事をする人なのかはわからないけれど、お城のお姫様や王子様の身の回りの世話をする人だったりするんだろうか。だとしたら竜騎士と城内で知り合うこともあるのかもしれない。睡蓮はあまりなじみのない職業と仕事ぶりに想像力を働かせながら頷いた。
「そういえば、レンは何の仕事をしようと思ってるの?」
そう問われて睡蓮は返答につまった。文字が読めるようになったからって、すぐに仕事が出来るとは限らない。この世界の常識を、当たり前のことをまだほとんど知らないのだ。
「まだはっきりとは決めてないよ」
男性があまりいない職場を探したいとは思ってはいるが、仕事を選べる立場にない。女性ものの洋服店やスイーツを扱うお店で働ければいいぐらいにしか考えていなかった。
「そうなんだ。実はさっきの彼がね、頼みごとを聞いてくれる人間を探してるんだけど…レンは興味ない?」
「頼みごと?」
「そう。もちろんただでとは言わないわ。お給金はもらえるし、彼、いろんな国に出征している関係で、いろんな言語に精通しているの。もし頼みごとを引き受けてくれるなら、空いている時間に学校以外でも勉強も見てもらえるかもしれないわよ」
なぜだろう。睡蓮にはケイナが深夜の通販番組の宣伝する人に見えてきた。さらさらと流れるように話す様は、すんなり首を縦に振るには怪しいところが多すぎる。まるで、最初からセリフが決まっているかのように。
「頼みごとって何なのかわからないけど、あの人とは言葉が通じないみたいだし…正直苦手。私にはちょっと荷が重いかな」
ケイナの勢いに若干引き気味の睡蓮が遠回しに断りの言葉を発すると、ケイナは今の言い方が押しが強すぎたと気づいたようだった。
「ごめん。一方的にまくしたてちゃって。でも彼、初対面だと取っつきにくいかもしれないけど、本当は良い人なのよ。だから、ほんといい話だと思うから考えてみてね」
視線だけで人を殺せそうだし、黙っていると雰囲気が怖い感じの人だもの。取っつきにくいのはよく分かる。
睡蓮は内心鼻白んだ気持ちで聞いていたが、曖昧に頷いただけだった。
それは明日になったら、やっぱりダメときっぱり断る気でいたから。
返事を即答できないところは、NOと言えない日本人気質なのかもしれないな、と自嘲気味に思う。
けれど、その晩。
暗い顔をしたアルマンドが帰ってくるなり、重い口を開いた。
―――仕事をクビになった、と。
アルマンドは10年前の大戦で足に大怪我を負い、退役軍人となった。その後、街の食堂で調理の仕事に就いていたのだが、何日か前に入ってきた新人に自分のポジションを奪われたのだという。
彼はそう若くはない。再就職するにもよほど伝手がないと難しい年代だった。
ダフネはと言えば、庭で栽培している花をまとめて花屋に卸しているだけで、今は冬。花を卸す仕事は春までできない状態だった。
このままでは三人とも路頭に迷ってしまう。
ダフネは持ち前の明るさで何とかなるよと笑い飛ばそうとしていた。しかし、すっかり意気消沈しているアルマンドと単なる居候でしかない睡蓮には、ダフネのそんな強がりが逆に痛々しく感じられていたたまれなくなっていたのだった。
自室に戻り、眠る前にいつものように黒真珠のペンダントを硝子のキャンディポットに入れようとした時に、ふと雑貨屋の店主の顔を思い出す。
そうだ。このキャンディポットの代金だってまだ支払ってない。
お昼のケイナの言葉を思い返してみる。
黒髪の彼の頼みごとがどんな内容なのか、お給料はどれぐらいなのか。自分にも出来ることなのかわからないけれど、もしダメならケイナの紹介でお城の侍女という仕事に就けないか聞いてみよう。
そう考えるとなんだか気分が上がってきた。自分でも単純だと思う。いつもお世話になっているダフネたちにようやく恩返しが出来そうだと、未来が開けたようなそんな気になっていた。
次の日。
ケイナの口から伝えられた言葉を聞いて、睡蓮は固まってしまった。
黒の竜騎士の頼みごとというのは。
しばらくの間、婚約者の振りをしてほしいとのことだったのだ。