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睡蓮はその時の映像がまるでスローモーションのように、ゆっくりと動いていくのを見つめていた。
イリーナたちの乗った馬車は死と再生の谷の橋の上を走っていたが、雨でぬかるんでいる中を急いで走り抜けようとしたことと、横からの突風で馬が足を滑らせたせいで橋の上から落ちていった。
御者だったフェルディナンドとタレイア姫は橋から落ちるときに馬車から放り出されたけれど、イリーナだけが馬車の中にいるのにドアが水圧で閉じてしまう。
イリーナは気を失っているのか、目を瞑ったままだった。
睡蓮は無駄だと分かっていても、イリーナに手を伸ばす。
睡蓮の手は馬車をすり抜け、イリーナもすり抜けていく。
馬車は徐々に水の中に沈んでいく。
湖の水底はやけに光っていて、イリーナは馬車ごとそのまま光の中へと吸い込まれていこうとしていた。
「イリーナさん!! 目を覚まして!! この光の先は…!」
私の住む現実世界に繋がっているの…!
徐々に光が眩しくなっていき、睡蓮は目が開けられなくなっていた。
睡蓮はその後のことを自分の都合の良い風に想像していた。
イリーナさんが現実の世界にやってきて、そして、親切な老婆に保護されて…
そして、私が産まれる…?
イリーナさんは私のお母さんだったの?
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おぎゃあおぎゃあ、と白い部屋の中で小さな泣き声が聞こえる。
「おめでとうございます、女の子ですよ」
イリーナは汗だくになりながらも、ほっとした顔で看護師から赤ん坊を受け取った。
たった今産まれたばかりの赤ん坊は顔が真っ赤で本当に小さくて愛おしかった。
「そうそう。その赤ちゃん、何か強く握っているみたいだからお母さんがそっと開いてあげてくださいね」
「…?」
イリーナが怪訝な顔つきで赤ん坊の右手をそっと開いてみると、そこには黒い真珠が握られていた。
いつかの湖でヴァレリーが渡してきた竜珠だった。
「ヴァレリー…。あなた…。私の娘を選んでいたのね…」
今思えば、不思議なことは何度かあった。
ヴァレリーが気配を消して近づいてきた時も、お腹の赤ん坊がぽこぽこと足を蹴飛ばしてヴァレリーが来たことを教えてくれていた。
ヴァレリーの後を追って湖に行った時だって、お腹をドンドンと蹴られて何故かヴァレリーを探しに行く羽目になったのだ。
「そして、この子もヴァレリーを認識していたのね」
イリーナは愛しい我が子に頬ずりをして涙を流した。
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「えー! また恐竜博物館~? たまには別のところに行こうよー、お母さん」
睡蓮の物心がついたころには、適度に人が集まっている恐竜博物館へ行くのが週末の決まりごとのようになっていた。
行けば楽しいのは確かだけれど、少し飽きてきたのもある。
小さな睡蓮がイリーナに向かって駄々をこねた。
「ええ~? お母さん、恐竜大好き! 睡蓮にも恐竜大好きになってほしいなー。ほら、あのティラノザウルスって、かっこよくない?? きゃー! 私のジャバウォックちゃん、また会いに来ちゃったー!」
睡蓮はイリーナと小さい自分のやりとりを見ながら、そのときは恐竜に勝手に愛称をつけて変な親だと思っていたけれど、今となっては母の気持ちがわかる。
こうやって毎週のように恐竜を見せて恐怖心をなくしておけば、いつかヴァレリーに会った時、竜化したヴァレリーを受け入れやすいだろうという母心なのだろう。
確かに、母の思う通りに竜化したヴァレリーを見て、驚きはしたものの、特に怖がることはなかった。
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だいぶくたびれてきたランドセルを背負って、学校帰りに病院へ向かうのは、足が重い。
ナースステーションで名前を書いている小さな睡蓮を見つめながら、睡蓮は当時のことを思い出していた。
母はガンになっていて、もう助からないらしいと保護者となってくれた老婆から教えられていた。
毎日、病室に行くたび、目を閉じている母親を見るのが怖いとも思っていた。
今日もお母さんは生きてる? いつまで一緒に居られる?
そんな気持ちを誰にもぶつけられずに悲しみに潰されそうになっていた日々。
その日は、クラスメイトと些細なことでケンカをして、ぶつぶつ文句を言ったことを覚えている。
「あのね、良いこと教えてあげる。将来、睡蓮にはとっても頼りがいがあって優しくてめちゃくちゃカッコいい旦那様が出来る予定だから」
「えー? 何それー。お母さんの言うことってよくわかんない」
「睡蓮も会ったらわかるよ。お母さんもそうだったの。睡蓮のお父さんはね、ものすごーくものすごーく…」
そう言ってイリーナは窓の外に目をやった。
夕陽で眩しいのか、泣きそうになっているのかよくわからない表情だった。
「優しくてかっこ良かったの。竜騎士団の団長をしててね、王様や国を守るお仕事をしていたんだよ」
「またお母さんの妄想話が始まったー。おばあちゃんがお父さんは蒸発したって言ってたよ」
「まっ! おばあちゃんたら! そんなことないわよ? あ、そうだ。お父さんね、婚約の印の真珠をね、どこかの飲み屋に置いてきちゃって手ぶらでプロポーズしてきたのよ? 信じられないドジな人でもあったわ」
「ハイハイ、わかりましたー。それじゃあまた明日来るよ」
「うん、気を付けて帰ってね、愛してるわ、睡蓮」
それが、母と交わした最後の言葉だった。
睡蓮はその場面を静かに涙を流しながら見つめていた。
もっとお母さんと沢山話をすればよかった。
ヴァレリーのことを説明してくれれば、もっとちゃんと向き合って恐竜博物館にだって違う気持ちで行ったかもしれないのに。
ううん。最初からそう説明されてもきっと信じられなかったり、竜に化ける人間がいるだなんてと怖がるだけだと思って、お母さんは言わなかったんだと思う。
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イリーナが小さな骨壺になって家に戻ってきた後、老婆から一つの箱を手渡された。
「これはお母さんからの最後のプレゼントだよ。大事に取っておきなさいね」
箱を開けると黒い竜珠のペンダントとバースディカードや手紙が入っていた。
バースディカードを開くと、16歳になった睡蓮へと書かれていた。
睡蓮の16歳のお誕生日には、大人の仲間入りとしてこのプレゼントを渡したいと思います。
このペンダントは実は睡蓮の未来の旦那様からの預かり物なのです! だから無くしたりしないでね。絶対よ?
他には文庫本カバーにしてある刺繍のハンカチと、当時はへんてこな文字だと思って読まなかった手紙が入っていた。
今ならその文章が読めるのに。
小さな睡蓮はちらりと見ただけですぐに箱にしまってしまった。
睡蓮は歯がゆい思いをしながらももう十分だとベルを手にした。
思いがけず、自分の父親のこともわかった。
睡蓮は胸が熱くなるのを感じながらベルを鳴らした。




