57
老婆に目を瞑るように言われ、しばらくじっとしていると水の中を漂っているような感覚におそわれた。
暗いけど暖かい。どこだかはわからないけど、懐かしい場所。
―――睡蓮。
やけに低い男の人の声が耳元で聞こえる。
まぶたを開いても何も見えない。
―――これからヴァレリーはイリーナに会うよ。
声は男の声だったけれど、竜珠だということがすぐにわかった。
返事をしようとした瞬間、ドクン、と大きく胸の鼓動が響き渡った。
ぐらりと足元が揺れたかと思うと急に目の前がひらけたため、睡蓮は目をしばたたかせた。
扉が開かれると、そこは睡蓮も来たことがある竜騎士団の団長室だった。
ただそこの団長室の席に座っている人間が、ヴァレリーやクレールではない別の誰かということだけが違っていた。
「遅れて申し訳ありません。クレール・ド・モンターク並びにヴァレリー・リブターク到着いたしました」
クレールが通る声で言うと、団長らしき男性は席から立ち上がり、ソファにかけている女性たちに声をかけた。
女性二人はソファから立ち上がり、クレールとヴァレリーに向かって顔をあげた。
一人は黒髪に少し浅黒い肌の少女で、もう一人は赤い髪に緑の瞳の女性だった。
お母さん…?
睡蓮は記憶にある母親にそっくりな女性に混乱していた。
それよりも、ヴァレリーの鼓動の激しさに驚く。
ふいに睡蓮はヴァレリーの目線で外の風景を見ていることに気づいた。
さっきからヴァレリーの顔だけが見えない。
そうだ。竜珠を渡す前だから竜珠はまだヴァレリーの元にあるんだ。
今よりだいぶ若いクレールの顔は見られても、ヴァレリーの顔が見えないのはちょっと残念に思う。
「クレール。お前、髪を切るだけじゃなく染めろといったはずだが」
「庶民にも金髪の人間はまれに居ます」
団長らしき人間は困ったような顔をしたけれど、もういい、と話を切り替えた。
「タレイア姫。金髪の方がクレール、黒髪がヴァレリーです。クレールは弓が得意でヴァレリーは剣と体術に長けています。今回の作戦は隠密行動を取らなければならないため、姫と年の近い新人を起用しましたが腕は確かなのでご心配なきようお願いいたします」
クレール、次にヴァレリーが王族への挨拶として膝をつき、彼女の指先に額をあてた。
タレイア姫と呼ばれた黒髪の少女は、ヴァレリーに手を触れられた時には頬を少し赤らめながら俯いていた。
この少女が…フィンのお姉さん…。
睡蓮は複雑な気持ちで彼女を見つめていた。
こんな少女が毒の入ったお茶を自分に勧めてくるようになるだなんて、想像もつかない。
まだあどけなさが残っている顔立ち。中学生か高校生ぐらいの年代だろう。
クレールの顔立ちも今よりだいぶ若い。竜騎士の新人ということは18歳ぐらいなんだろうから、今からだいたい10年前の話なんだろうと予測できる。
「それから、タレイア姫の身の回りの世話をすることになるイリーナだ。彼女は民間人で何の武器も使うことが出来ないから、万が一の時にはフォローを頼む」
自分の名前を紹介されると、イリーナと呼ばれた女性はにっこりと笑った。
「はじめまして、イリーナです」
その笑顔にヴァレリーの鼓動がなお一層早くなる。
睡蓮は歯がゆい気持ちでそれを感じていた。
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「ヴァル。お前さあ…。鏡で自分の顔見てみろよ」
「え?」
タレイア姫を交えて、母国へ隠密に帰国させる作戦会議が終わった後、クレールが騎士団の建物内にある身だしなみチェック用の姿見の前で立ち止まった。
「怖いぐらいに緩みっぱなし。なんだよ、イリーナがタイプだったのか?」
ヴァレリーは鏡で自分の顔をマジマジと見つめた。
睡蓮はその時初めて若いヴァレリーの顔を見てドキリとする。
クレールのようにまだちょっとあどけなさが残っているのかと思っていたら、今とさほど変わらない。
ちょっとがっかりした気持ちになったけれど、ただ、頬が少し赤くなっているヴァレリーの顔は可愛らしいとは思った。
「いや…タイプっていうか…」
照れ気味で言葉を続けようとした矢先、クレールは被せるようにして口を開いた。
「団長…いや、これからは隊長か。あの人の公私混同も今回ばかりは度が過ぎると思うんだよな。確かにお姫さんの身の回りをする適任の女性兵士が居ないのは痛いところだけど、だからといって民間人の、それも自分の婚約者をわざわざ連れていくか? 万が一のことがあったら命に関わるってのに」
「……バレージ隊長の婚約者…?」
呆然とした顔でヴァレリーが呟くと、クレールはそうだ、と頷きながらも話し続ける。
「竜騎士団長の妻ってのは、死を覚悟する時も常に一緒ってか。あーやだやだ。もし俺が今後団長になっても奥さんだけは戦地に連れていくもんか」
クレールはその時のヴァレリーの様子には気にも留めずにすたすたと先を歩いていった。
ヴァレリーは今しがたまでの高揚した気分はとうに消え、鳥肌が立つのを抑えられないでいた。
ようやく見つけた竜珠の花嫁が、すでに他人の婚約者だったとは。
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―――大丈夫? 睡蓮。ダイレクトにヴァレリーの感情が伝わるのは厳しいよね。これからは第三者の目線で見られるようにしてあげるから。
薄暗い中で、そっと肩に手を添えられる感触があった。
確かにヴァレリーの感情に振り回されるのは心が苦しい。
悲しさ、悔しさ、言いようのない言葉にならない感情が目まぐるしく渦巻いているのだ。
ヴァレリーをそっと抱きしめてあげたいけれど、今の睡蓮にはそれが出来ない。
睡蓮は黙って頷いた。
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フェルディナンド率いる少人数のイシュト帝国への隠密行動は、比較的安全なものだった。
戦時中だというのに未だ戦火が届かない僻地の移動は平和過ぎて本当に敵が現れるのか信じがたくもあった。
「国境付近になったらうかうかしてられない。安全なのはまだツェベレシカ王国内だからな」
バレージ隊長がそう言うけれど、全員、まだ自分たちの身に危険が差し迫っているとは思えなかった。
イリーナは休憩時間になるとタレイア姫の世話を焼き、タレイア姫がヴァレリーに何かしら話しかけたりする時には、イリーナは常にバレージ隊長と共にいる。
クレールはそんな人間関係を傍から見ていて、どうしたものかと思案していた。
ヴァレリーの交際歴は、今まで言い寄ってくる人間に押し切られて付き合うというパターンばかりだった。
それはヴァレリー自身が本気で好きになれる人間が今まで現れなかったからだ。
彼は竜の血を引いていて、もし彼が好きになるとしたらそれは生涯唯一無二の竜珠の花嫁になる。
今回、ヴァレリーは本気でイリーナのことを想っているように見えた。
彼自身は表に出していないつもりでも、ここにいる全員全てがヴァレリーの気持ちに気づいている。
イリーナに道端に咲いていた花をプレゼントしただの、川できれいな石を見つけたからイリーナにあげただのそんな些細な愛情表現を幾度となく見かけていたけれど、ヴァレリーの初恋を諸手をあげて応援するわけにもいかなかった。
「クレール、ちょっといいかしら?」
イリーナと二人で食事の支度をしている時だった。
バレージ隊長とヴァレリーは二人で周辺を見回りに行きがてら、新鮮な果物や木の実を見つけてくる当番だった。タレイア姫は馬車の中で昼寝をしている様子だった。
「はい、なんでしょう?」
にっこりと愛想を浮かべて言い出しにくそうにしているイリーナを促してやる。
「……ヴァルのことなんだけど、彼、私の自惚れじゃなければ、その……」
「ああ、奴があなたに懸想しているってことでしょうか」
クレールがはっきり言うと、イリーナは真っ赤になって両手をバタバタ振り始めた。
この人、俺らより5歳ぐらい年上のはずだけど、やけに言動が子供っぽい。
クレールは冷静に相手を分析しながら見つめていた。
「え…えと、その、あの、わ、私、フェルディナンドの婚約者で、決してヴァルのことを誘惑したというわけじゃなくて…」
「わかってます。大丈夫です。ただ、僕が今からいう話は、ここだけの話にしておいてください。貴族の間では知る人ぞ知る話なんですが、ヴァルは苗字こそ新貴族を名乗っていますが現国王陛下の直系の息子であり、竜の血を引いています。民間人にはあまり伝わっていないでしょうが、竜の血を引く人間の定めとして、愛する人は唯一無二であり、決して他人から誘惑されて好きになるものではないのです」
話を聞いているイリーナの緑の瞳が驚きに見開かれて、みるみるうちに大きくなっていく。
「……まあっ! まあ! まあ!」
どうしましょう、次の王様だったなんて…と顔を赤らめたり青ざめたりと表情がくるくると変わる。
竜珠の花嫁のあたりはあまり頭に入ってきていない様子だった。
「ですので、その気がないのなら奴に気を持たせるようなことは言わず、バッサリと振ってやってください。というか、こういう話はバレージ隊長とした方が良かったんじゃないですか?」
「ううん、これ以上、彼に心配事を増やすわけにはいかないわ。聞いてくれてありがとう」
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苦しい。苦しい。苦しい。
何日かの行程ののち、ヴァレリーはイリーナに想いを告げられずにいて苦しくて仕方がなかった。
それに体の内側の至る所からギシギシと成長痛のようなものがあり、背骨のあたりからそれを全部吐き出してしまいたい衝動に駆られていた。
ついに我慢の限界が来て、ヴァレリーは近くの湖で頭を冷やそうと水浴びをすることにした。
水中に深く潜っていくと、しんとした音のない世界の中で思考がクリアになっていく。
深夜の月明かりの中、水中を泳いでいるとイリーナの気配が近づいてくるのが分かった。
いくらまだツェベレシカ国内だからと言って、一人で湖までやってくるなんて無謀すぎる、とヴァレリーは水の中から顔を出した。
水中から顔を出した時、イリーナがやけに小さく見えた。
ほぼ真上を見上げるような格好で、驚いて目を見開いている。
なぜ、自分はこんな高い位置から見下ろしているんだろう? とふと自分の両手を見下ろすと、自分の手がいつもと違う、爬虫類のようなかぎ爪を持っていることに気づいた。
―――イリーナ。
声を出そうにも、声帯が異なり、イリーナと発音しているのに耳から聞こえるのは獣の唸り声にしか聞こえない。
イリーナはびっくりした顔のまま、見上げたまま言った。
「……えっと…、ヴァル、だよね?」
イリーナの確信めいた疑問形の問いに、心が震えた。
生まれて初めて竜化してしまった自分を、すぐにわかってくれた。
ヴァレリーは本能で逆鱗の中にある竜珠を取り出し、イリーナに近づいてそっと差し出した。
イリーナは両手でそれを受け取り、しげしげと小さな竜珠とヴァレリーを交互に見遣る。
「……これを私に?」
―――俺の竜珠を受け取ってほしい。
なんて言っているのかは理解できないだろうけれど、ヴァレリーは本心を打ち明けた。
「ヴァル!!」
いつまで経っても戻ってこないヴァレリーを探しに、クレールが必死な形相で駆け寄ってくるのが見えた瞬間、ヴァレリーは意識を手放した。
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ヴァレリーの竜化のことはイリーナとクレールだけの秘密となった。
イシュト帝国へタレイア姫を無事に送り届けるまでは、タレイア姫と言えども知られてはならなかった。
そして、バレージ隊長に伝えたところで竜化したばかりの不安定なヴァレリーをここで切り捨てるという選択を迫られるだけだと確信していたからだった。
ヴァレリーはイリーナにあの時の返事を促すことはしなかったし、イリーナもその件については触れようともしなかった。ただ、以前よりは会話が減ったぐらいだった。
雨季に入ったイシュト帝国はいつも雨が降っていた。
道がぬかるみ、進むスピードも遅くなり、勝手のわからない他国の領地を追手に見つからずに進むのは至難の業だった。
雨音のせいで、追手がすぐ近くまでやってきていることに気づけなかった。
「ここで二手に分かれて敵をかく乱させる。クレールとヴァレリーは裏手から追手を攻撃。俺は姫を出来るだけ安全な場所へとお連れする」
「それではここで一旦お別れです。タレイア姫、ご無事をお祈りしております」
馬車は二人を置いて雨の中を走り出した。
睡蓮の視線は自然と馬車の方へと移っていった。
過ぎ去っていく馬車を切なそうな顔をしたヴァレリーが見ている。
そんな彼を見遣りながらもどんどんと距離が離れていく。
イリーナさんはヴァレリーに返事をしないまま、このままどうなるの?
睡蓮は胸騒ぎを覚えながら馬車の行く末を見守っていた。




