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竜珠の花嫁  作者: 理子
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 その後、二日かかってようやく谷にたどり着いた。

 以前来たときは飛竜に乗っていたのであっという間に谷底まで降りられたけれど、自分の足で降りるとなると断崖絶壁のような岩肌にほんの少し飛び出た通路を延々と降りていくという、冷や汗が出まくる崖の道だった。

 何度も足を取られて谷底へ落ちそうになるも、フィンがしっかりと命綱をつないでいてくれたおかげで事なきを得たけれど、これが一人きりだったらとうの昔に落ちていたと思う。


「何にもない谷底まで降りて行こうっていう奇特な人間はあんまりいないからさ。みんなここを通るときは橋を渡っていくし」


 なんてことはない、と言った風にフィンはスタスタと前を歩いていく。時々体が斜めになっていても体幹がしっかりしているおかげで落ちる心配もなさそうだ。足の裏に強力な磁石でもついてるんじゃないかと睡蓮は恨めし気な視線を投げかけながら思う。


 ようやく谷底について、睡蓮は広い面積の地面に感謝しながらその場にへなへなと腰を下ろした。

 フィンはその様子を苦笑しながら見つめている。


「上の橋を渡ると、俺の住んでた村にはたどり着けないんだ。谷底からしかいけないようになっててさ」


 王子様が村に住んでた? という顔をしていたのだと思う。睡蓮の顔に浮かんだ疑問に答えるように、フィンは続けた。


「クーデターの時、王族付きの騎士たちが助けてくれた。城から抜け出した後はその村で匿ってもらうことになったんだ」

「そうだったんだ…」


 想像もつかないほど過酷な子供時代を送ってきたであろうフィンに、睡蓮は同情の気持ちでいっぱいになる。


「ああ、同情なんてしなくていいよ。王子だったのも子供の頃だけだし、今となっては王族の暮らしってものに執着なんてない。それに、あいつを見てると思うように動けない立場っていうのもめんどくさいだけだなと思ってるしね」


 フィンが時々口にするヴァレリーを指す言葉には、侮蔑の色がにじんでいる。ヴァレリーのことを口に出したらセドラーク宰相にかけられた術が発動しそうで何も言えない。


「落ち着いたら湖覗いてみる? 足が震えてるなら抱いていくけど?」


 いまだに足ががくがくしている睡蓮を見て、フィンは自分の荷物を降ろしながら言った。


「ううん、自分の足で行けると思う」


 誰も見ていないだろうけど、男の人にお姫様抱っことかされるのは恥ずかしすぎる。

 何とか立ち上がって緩やかに波打つ湖の浅瀬に近づく。

 透明度は高く、水の色は水深が深くなるにつれて濃い青になっているようだった。

 日光の反射であまり底の方は見えなかったけれど、きれいすぎる水に少し違和感を覚える。


「魚とか…全然いないんだね」

「そう。なんでだかここの湖では生物が生きられないみたいだ。水草も生えてないだろ?」


 何もないということが、死と再生の谷と呼ばれる由縁なのかもしれない、とフィンが付け加えた。

 素足になって、水の中に入ってみても何も変化はない。

 生物の生きられない湖。

 ふと、心臓が止まっている状態じゃないと元の世界に戻れないのではという仮定が思い浮かんだ。


 睡蓮はそう考えて身震いした。

 それが本当だとしたら、元の世界へは生きて帰れない?


 振り返ってフィンを見遣ると、ん? と首をかしげてこちらを見つめかえしてくる。

 唐突に思いついた推測について、フィンに何か言いたい。でもなんて言っていいのかわからなくていったん開いた口を噤んだ。

 ヴァレリーは私の命を守ることを条件に、このままいけばイリーナさんと結婚する。

 私が二人に何もしなければ、ヴァレリーの側室として生きていく道もある。

 でも。

 私は、私だけを愛してくれる人とじゃなきゃ結婚したくない。

 それがフィンなの…?

 それに元の世界に帰るとしたって生きて帰れないんじゃ意味がない。


 ぐちゃぐちゃな考えのまま、湖の中で立ち尽くす。


 ―――ばかね、睡蓮。


 突然、脳裏に声が響いた。竜珠と名乗る不思議な存在。


 ―――ヴァレリーを諦めて、目の前の男にするの? あんたってそんな安っぽい女なの?


 見下すような口調で頭の中で囁かれると、どこに不満をぶつけていいのかわからない。

 フィンには見えないよう体の向きを変える。


「……まだ、考え中」


 ―――考えてるんだ? へぇ。


「何よ、何か文句ある?」


 ―――人を好きになるのは、別に考えてすることじゃないでしょ。


「じゃあどうしたらいいの? ヴァレリーは私のこと、竜珠の花嫁にしようと思ってないよ」


 ―――ちゃんと相手と向き合ってないくせに、独りよがりすぎるのよ。


 睡蓮があんまりにもイジイジしているからか、竜珠の言葉は段々と辛辣になっていく。


 ―――私はね、睡蓮。あなたが生まれる前からずっと一緒にいるの。だからあなたの決めたことには文句は言わない。でも何もしてないうちから楽な方に逃げてほしくない。


 生まれる前から?


 睡蓮は竜珠の言葉にかすかに眉をひそめた。

 この、時々思いついたように現れる脳内だけの声は、本当は自分の妄想が引き起こしているんじゃないかとさえ思っている。

 この世界に来て、環境に慣れたと言っても、心の中までは順応してるとは限らない。

 心が壊れないように、無意識のうちに人格が分裂してるのかもしれない。


 ―――これだけ話をしてきても信用されてないのね。元の世界へ帰りたい? 今なら帰ることが出来るわよ。ちょうどここに来てるんだもの。私の力で扉を開くことは可能よ。


「ちょ、ちょっと待って。急にそんなこと言われても…」


 ―――そうよね。このまま元の世界に帰っても悔いが残るわよね。でもちょっとだけ。躓いたふりして水中に潜ってみて。元の世界のあなたを見せてあげるから。


 ちら、とフィンの方を見遣ると、座り込んで地図を覗き込んでいる姿が見えた。

 幸い、こちらの方は見ていない。

 睡蓮は少し湖の奥の方へと歩みを進めていった。一段濃い青色の水のあたりは深くなっているはず…と意識していたにも関わらず、突然足元の地面がなくなって体が水中に沈んだ。


「…っ!」


 目を見開くと空気の泡が現れていく。突然のことで息をためていなかったからすでに苦しい。


 ―――底を見て。光ってるでしょう?


 苦しい最中に水底を見ると、この世界へやってくる直前、マンションの前で見た光と同じものが見えた。


 ―――よく目を凝らしてみて。


 水中で目を凝らすってどうやるのよ? とツッコミをいれたくなりながらも、必死になって光を凝視する。


 そこにはベッドに横たわった自分の姿があった。

 頭には包帯が巻かれている。

 元の世界の自分は病院にいるんだとわかった。


 ―――肺の中の最後の空気を吐き出せば、次に目覚めるのは元の世界の病院のベッドよ。まだもうちょっとこちらにいるんだったら必死になってもがいて水面に上がることね。


 竜珠の言葉は無慈悲とも言えた。

 睡蓮はこれまで服を着たまま泳いだ経験がなかった。

 服がまとわりついて足で思うように水をかくことができない。

 それ以前にもう息が続かない。

 水面から差し込む日の光をぼんやりと見つめながら、睡蓮は抗うことを止めた。

 しんと静まりかえっている水中で、視界がどんどん狭まっていく。


 私…この世界で死んじゃうのかな…。

 このままヴァレリーに会わないまま、元の世界に戻っちゃうのかな。

 意地を張らないでちゃんと向き合って話をしておけばよかった。

 けれど睡蓮の脳裏にヴァレリーの顔が浮かぶがすぐに掻き消えた。

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