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昨晩は本当にどうかしていた。
ヴァレリーは朝稽古を終え、剣の手入れをしながら自己嫌悪に陥っていた。
あの日。辺境地区から王都へ戻る途中。10年間全く知りえなかった竜珠の気配を感じ取り、王都の外れの街を行進している最中に持ち主を見つけた。
背の高い、痩せた女だった。見ようによっては少年のようにも見える。薄茶色の長い髪に琥珀色の瞳。取り立てて目立つ風貌でもない。
―――盗人め。
心の底で湧き上がった黒い感情と共に一人ごちた。竜珠を持っているのが男だったら有無を言わさず馬から降りて奪い返すところだった。しかし、琥珀色の瞳がただただこちらを見て大きく見開かれているのを、馬上から冷ややかな気持ちで見下ろすのが精一杯だった。
イリーナではない、別の人間がそれを持っていたことにショックを受けていた。いつの間にか、ぎり、と手綱を握りしめていたようで乗っていた馬の耳がせわしなく動き始め、段々と怯えはじめたので深呼吸をして別のことを考えるように努めた。
自分を無理やり納得しようと思いつつも、城に着くや否や国王のところへ謁見の手続きをとることなく向かい、ほとんど八つ当たりのように詰問してしまった。
王は内心立腹していただろうが竜珠の持ち主の所在を教えてくれた。役所に来た人間の名前と住所が書かれていたが、聞いたことのない知らない男の名前だった。今すぐそんな他人に会いに行く気力もなく、かすかに身の回りに漂う竜珠の心地よい気配を感じながらも、自分には関係ないことだと無視してやり過ごしていたはずだった。
昨日の夜。
ふいに竜珠の気配が消えた。今まで知らないでいた竜珠の気配は悔しいけれど、近くになくとも心の平穏をもたらすものだった。
ささくれだった心がゆっくり静かに癒されていくような。そんな心地よい気配が突然消えてなくなったのだから気になって仕方がなかった。
城内の官舎から王都の郊外の街まで早馬で駆けていっても1時間はかかる。
ヴァレリーは空を駆ける方を取った。
飛竜で行けば、ほんの10分程度で目的の家の裏山にたどり着く。
高度を急激に落として素早く裏山の木々に紛れ込んだつもりだったが、偶然窓辺にあの女が外を見ているのが目に入った。あまりに気持ちが急いていたせいか周りの状況確認する余裕もなかった。
しばらく気配を隠して木の陰に隠れて様子をうかがっていたが、女はこちらを見ているようで見えていないようだった。すぐにカーテンを閉めてしまった。
書類の住所の近くまで来たというのに、竜珠の気配は辿れなかった。
心がざわついたまま官舎に戻ったが、朝方までほとんど眠りにつくことができなかった。
「今日はちょっとご機嫌ななめだったのかな。ヴァレリー君」
手入れの終わった剣を鞘に納めたところで、同じ騎士団に所属しているクレールが声をかけてきた。部屋の入口に肩を寄りかからせて立っている。
貴族のたしなみの一つで竜騎士団に入団して精神を鍛えようとする貴族の子弟は多い。なかでもクレールはすらりとした長身にストレートの金髪に碧眼の持ち主で、非常に女性受けのする端正な顔立ちをしているものだから、鎧を着て馬に乗るよりも、夜会の女性たちとお酒を飲みながらダンスをしている方が似合う。
剣の腕は人並みだが、弓を持たせると誰にも引けを取らない腕の持ち主でもある。
「単なる朝稽古なんだから、ストレッチ感覚でやんなきゃ。手加減してやらないと本気で新人がいなくなってしまうよ」
クレールが呆れた声で言う。そういえば今朝は救護院へ行く羽目になった後輩たちの数がいつもより多かった気がする…と、言われて初めて気付いた。
「クレール。優男風の話し方やめてくれないか、気持ち悪い」
「何があったんだよ、城に帰って来てからおかしーぞお前」
クレールは急に人が変わったかのように口が悪くなるが、ヴァレリーを心配していることには変わりはない。
「…別に。何もない」
「あぁ? すぐにぼんやりするわ、稽古は半殺しまでやるわ、剣磨きだってさっきから何十回も同じとこ拭いて…何もないわけねーだろ!?」
傍からそんな風に見られていたのかと、ヴァレリーは目をしばたたかせた。
「ありがとな、クレール」
ヴァレリーは剣を腰にさして立ち上がった。
「ちょっと出かけてくる。午後の稽古に間に合うかわからないからメニューは任せる」
「おう!任せとけ…って、さては女だな! このやろいつの間に!」
ヴァレリーは何かを言いかけたが結局口を噤んで、困ったような顔で手を振って応えた。
竜珠の気配が戻ってから、ほっと安堵して喜んだりする自分に戸惑い、そんな感情に頭が追いついていかない。
とりあえず、あの女と話がしてみたいと思った。何故、イリーナに贈ったはずの竜珠を持っているのかと。もし、イリーナと知り合いなら、彼女は今何をしているのか、幸せなのか。
イリーナが別の男性の横で幸せそうな顔をしている姿を想像しただけで、心がずきりと傷む。ヴァレリーはそんな考えを頭から追い出し、竜珠の気配がする図書館へ向かうことにしたのだった。
睡蓮は図書館の片隅で絵本を広げながらいろんなことを考えていた。
昨晩、鳥のようなものを見たとダフネに言うと、それは飛竜だと教えてくれた。
竜騎士の乗る竜のことらしい。今では数が少なく、滅多に空を飛んでいるところを見られないので、人々の間では飛竜の姿を見た日は良いことがあるのだという。
その飛竜らしきものが裏山に消えていったということは口には出さないでおいた。
文字を勉強し始めてわかったことがある。単語と意味が結びついて理解できるようになると、その単語だけが二重音声にならずにこの国の言葉になって聞こえる。
自分の発する言葉も音になると日本語になっていないのがわかる。いったいどんな仕組みになっているのかわからないけど、とにかく早く文字を覚えなきゃ、と気持ちが焦る。
本音を言えば早く元の世界に戻りたい。今のままじゃここでどうやって生きていけばいいのかもわからない。
ダフネたちにいつまでもお世話になっているわけにもいかないし、ベストなのは仕事をしながら帰り方を探していくしかないんだ、という結論に至った。
帰りたいのに帰れない。知り合いが誰もない世界にたった一人。
ふと、改めて自分の境遇を顧みて、悲しくなる。小さく言葉に出してしまったら涙が出てきた。
突然、背後から何語かわからない言葉で声をかけられ、あくびをしたふりをして慌てて涙を指で拭う。見上げると、見知らぬ男が心配そうな顔をして傍に立っていた。
いや。見知らぬ顔ではなかった。黒髪に銀色の瞳の男。先日大通りを行進していた竜騎士団の中にいた男だった。睨んだだけで人を殺せそうなぐらいに殺気立った視線をこちらに投げかけてきた男。
先日と違うのは、身にまとう気配だった。初めて会った時は怒りしか伝わってこなかったけれど、今は少しだけ雰囲気が柔らかいような気がした。
しかし、睡蓮は突然すぎて言葉を発することも出来ず、彼を見上げるしかできなかった。
すぐ近くには人はいない。開かれた空間だったけれど睡蓮は心臓がバクバクと音を立てるのを感じていた。
大丈夫、何も起こらない。この人は私にいきなり殴ったりしない。
心の中で自分に必死に言い聞かせるが、全く意味がなかった。
男は睡蓮の前に広げられた絵本を見てなにやら呟いていたが、睡蓮には何を言っているのかさっぱりわからなかった。
『言葉を話せないのか?』
首をかしげ、身をかがめて睡蓮の顔を覗き込んで来ようとする。睡蓮はびくりと肩を震わせ、椅子から立ち上がって後ずさった。
少し離れて男を見返す。175センチの睡蓮が思わず見上げてしまうくらい背の高く、鍛え抜かれた体躯の持ち主だった。睡蓮の動揺する姿に困惑したような顔立ちをしていたが、長いコートの下には腰に帯剣しているのが見えて物騒極まりない。
いきなり切りつけられるかも、と最悪のことを想像してしまう。
「な、なんなんですか? あなたは」
隙を見て机の上に置いてあった絵本とバッグを素早く引き寄せ、胸元でぎゅっと抱えこむ。膝ががくがく震えているのがわかる。
男が続けて何かを言おうとしたその時。
「レーン。探したよー! こんなところで何してるのー?」
ケイナが不穏な空気をもろともせず、睡蓮の近くにやってきた。
「ケイナ!」
睡蓮は近づいてきたケイナの背後に回って小さく耳打ちした。
「あの人、何言ってるか全然わかんない。大きな剣も持ってるし、怖いよ。早くここから逃げよ」
ケイナは首をかしげて優しい笑みを浮かべながら、ぐいぐいと洋服を引っ張る睡蓮と困惑した顔を浮かべている黒髪の男を見比べた。
「怖がらせちゃってごめんね、彼、私の知り合いなの。話があるから先に教室に行ってて」
睡蓮はケイナの言葉に不信感を募らせたが、知り合いだというならそうなのだろう。男をちら、と見ただけで早足で教室へ向かった。時折心配になって振り返るが、ケイナは変わらず笑顔で手を振ってくれる。
角を曲がって睡蓮の姿が見えなくなると、ケイナは笑顔を消して男に向き直り、一礼をした。
「リブターク候。発言することをお許しください。私はケイナと申します。国王陛下の命により、彼女の身辺調査を行っている者でございます。それにしてもお見えになるのがおそうございましたね」
ケイナと名乗った女性は自分の名前を名乗った後、唇だけで次の言葉を紡ぎ、懐から封筒を出して密勅をヴァレリーに差し出した。
ヴァレリーは文面を読み、紙の手触りを確かめた後、ケイナにその書類を返す。
「俺のことを知ってるのか?」
唇だけで意思の疎通を図る術を習っているということは、隠密裏に動くよう特殊に訓練された人間に限られる。
「この国で英雄と敬われている候のことを知らない人間はいません。有名人だという自覚はないんですか?」
ヴァレリーは英雄扱いされることを良しとしないため、不機嫌な顔を隠しもせず前髪をかきむしった。
「来るのが遅いってどういうことだ」
「レンに会いに来るのはもっと早いかと思っていました。さしずめ、彼女が竜珠を硝子に閉じ込めたあたりから、気が気じゃなくなってきたというところでしょうか」
ふふ、と笑みを浮かべてケイナが図星でしょうと見上げてきたので、ヴァレリーは内心面白くなく話題を変えた。
「あの女、レンというのか。お前はあの女と話が出来ていたようだが、言葉は通じるのか?」
「もちろんでございます。彼女は流ちょうな大陸公用語を操っていますよ。その代り、文字はからきしのようですが」
「おれには彼女が何を言っているのかさっぱりわからなかった。聞いたことのない言語だったように思う」
「左様でございますか。それは不思議ですね」
「おれは彼女と話をしたいだけなんだが。ああも怖がられてしまってはやりづらい。仲介役を頼めるだろうか。彼女にある頼みごとをしたいんだが」
ケイナは頼みごとの内容を聞くと、にっこりと笑って快諾した。