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朝になり、洞窟を出て、もうどのぐらい歩いているのかわからない。
次の追手が来る前に森を抜けたい、と朝食も取らずに歩き出した。
歩きなれない森の中を時折転びそうになりながらもフィンの後をついていく。フィンは全ての荷物を背負っているというのに、目の前をスタスタと歩いていく。
空腹感もあり、睡蓮は日頃の運動不足のツケを払わされている気分になって憂鬱になった。
ただ、こんな風に体を動かして必死に歩いていると、昨夜のことを少し客観的に考えられるようになってきた。
昨夜はフィンと一線を越えてしまった。
でも後悔はない。昨夜の出来事を乗り越えるためには、お互いに必要なことだったと思える。
ふと、誰に対して言い訳をしようとしているんだろうと頭を振り、すぐさま今考えたことを否定した。
豹変しているヴァレリーに襲われそうになった時は本気で怯えたこともあった。
あの時は仕方ないことなのかもしれないけれど、運というか縁というものがあって、私たちはうまくいかない運命なのかもしれない。
そこまで考えると鼻の奥がつんと痛くなった。
最後に男が竜珠の花嫁と言った時、フィンは聞こえただろうか。
聞こえていないといいのに、と睡蓮はまたもや自分勝手なことを考える。
フィンは朝、起きた時から怖い顔でいつもよりもずっと言葉少なだった。
睡蓮は空腹と疲れで頭が少し麻痺していた。
だから、フィンが口にした次の追手という単語にも何も気づかなかった。
フィンが指している相手が、単なる夜盗ではなく睡蓮の命を狙っている追手だということに。
フィンとの間隔がだいぶ離れてきた頃、ようやく一休みさせてもらえることになった。
遅めの朝食を取るとようやくひとごこちついた。
「トゥシャンに着く前に言っておく」
それまで必要最低限の言葉しか発してこなかったフィンが、いつになく表情を硬くしたまま睡蓮に声をかけた。睡蓮は何を言われるのかと身構えてしまう。
それを見たフィンはようやく表情を少し和らげた。
「そんな身構えなくていいよ。俺は、あんたにとっての諸刃の剣ってことを伝えたかっただけだから」
疲れすぎていたため、フィンの言いたいことが良くわからずに睡蓮は怪訝な顔をする。
「あー…ちょっと言いづらい話なんだけど、俺、最初はあんたを暗殺しろって言われてたんだよね」
「えっ!?」
睡蓮は思わず近くにあった木の枝を拾い、両手で握りしめた。
そんなことをしても役立たずなのは明らかだったけれど。
「でも今はあんたを全力で守れって言われてるから安心してよ」
「な…なんで安心なんか…っ」
「だよな。いつやっぱり殺せって命令が来るかわからないし」
話す内容は物騒なのに、フィンは世間話のように言った。膝に腕をおいて頬杖をついて、のんびりと干し肉を噛んでいる。
「…セドラーク宰相から…頼まれてるの?」
睡蓮は隠さずに宰相の名前を出した。フィンがいつ、誰から依頼されて大道芸人の一座に前もって入り込んでいたのか。
クレールやケイナの計画がどうやって筒抜けになっていたのか知りたかったのだ。
「違う。昨日の追手が宰相の、だよ」
「じゃ…誰」
「もう一人の竜珠の花嫁候補だよ」
やっぱりという気持ちに絶望する。フィンが口にした名前は、心の底で疑っていた人物だった。
イリーナと宰相がどうやってか結託してクレールの立てた計画が筒抜けだったのかもしれないけど、でもだったら何故イリーナがフィンに最初は暗殺を依頼した後、ボディーガードを依頼するんだろう。意味が分からない。
母と同じ顔のイリーナの笑顔が脳裏に浮かんだ。
そして、フィンには最初から自分がヴァレリーの竜珠の花嫁候補だと知られていた。
…知ってて、なんで一緒に暮らそうって言ったり、それに昨夜のことだって。
睡蓮は頭の中がぐちゃぐちゃになって、今度こそ声が出なくなった。
「このままいけばほぼ確実に、姫は竜珠の花嫁になる。今回の依頼はあの化け物と姫の交渉の結果で、あんたを宰相から守れということだった。あんたが姫の邪魔をしない限りは命は安泰だ」
「竜珠の花嫁になるのを邪魔をしようとしたら…フィンはどうするの?」
フィンはそう質問されるのを想定していたようで、少し肩をすくめてなんてことのないように言った。
「そりゃ、姫にあんたの命を奪えって言われるだろうな」
その言葉を聞いて、睡蓮は立ち上がった。体が震えて両手で持った木の枝が小刻みに揺れる。
けれどすぐにフィンに腕を掴まれ、抱きしめられる。
「ちょ、離して!」
「話は最後まで聞けよな」
「私を殺そうとする人となんて話すことなんてない!」
無我夢中でフィンの腕を振り払おうとしてもびくともしない。
「二人の邪魔をしようと思えないくらいに、俺に惚れさせるから。俺にあんたを殺させないでよ」
「~~~~!!」
何言ってるんだろう、この人。
ほんとにタラシだ。なんてセリフを言うんだ。自惚れすぎだろう。
「出会い方はちょっとアレだけど。俺だって、本気であんたのこと好きなんだ。昨日だって人肌が気持ちいいものだって再確認できたし。料理も出来るし、俺、イシュト帝国が復興したら、一応王子だし? いろいろ考えると俺も結構お得だと思うけど?」
内容は重たいくせに妙に明るい口調で口説かれ、抗うことがバカバカしいと思えた。
睡蓮の力が抜けたと察したフィンも抱きしめる力を緩めてお互いの額を軽くつけた。
「…王子?」
「そ。俺の本名はフィンダル・ミシル・イシュトー。交易街で不遇の王子って言われてたやつ。ついでに言うと、もう一人の竜珠の花嫁候補は俺の異母姉タレイア・ミュレット・イシュトーだ。イシュト王家の王女で、今は魔術で顔を別人にしているけどな」
イリーナと名乗ったあの女性は、本当はあの顔ではない、と聞いて少し安心する。
母と同じ顔で、人を殺すことを算段しているなんて、頭では理解しても心が納得できない。
「…ねえ、フィン。疲れすぎてて、あんまり頭が働いてないんだけど、あなた、王子様ってどういうこと?」
睡蓮が怪訝な顔をして尋ねると、今度こそフィンが意味が分からないというような顔をした。
「…あんたこそ、ツェベレシカ人なら知ってて当たり前のことを知らないのは何で?」
睡蓮はぐっと口を噤んだ。
この世界の人間ではないということを知っているのはほんの少数だ。
ツェベレシカ王国と敵対している王族の人間と名乗っているフィンに言っていいものかどうか悩む。
「…言いたくないなら、俺の当てずっぽうな推測を聞いてよ」
フィンは睡蓮を切り株に座らせ、自分は荷物を片付け始めた。
「あんたの本名は、睡蓮。あの黒竜の竜珠の花嫁候補としてどこからか密かに連れてこられた。それから、イシュト王家にも所縁のある人物でもある。子守唄代わりに歌ったあの歌を知っているのはイシュト王家の王族と乳母だけだからだ。そのことから察するに、乳母の血筋に近い者だと思われる」
話し終わると、どう? 俺の推測は、と視線だけ睡蓮の方へよこしてくる。
フィンも自分のことをさらけ出したのだ。自分のことを少しぐらいは言ってもいいかと思い直す。
「だいたい当たってる。そう、私の名前は睡蓮っていうの。私の名前が発音しづらそうだったからレンと呼んでもらうことにしたんだ」
「へぇ。じゃあこれから睡蓮って呼ぼうか」
フィンも発音しづらいというわけでもなかった。別の男性に名前を呼ばれただけで、ヴァレリーに呼ばれたことを思い出して体が震えた。
「……ううん。その名前では呼ばないで」
「そう? じゃあ今まで通りで」
フィンに睡蓮と呼ばれるたびに、ヴァレリーを思い出しそうで嫌だった。
自分の名前を呼んでもらえないことに少し寂しさを感じたけれど、これからはレンという名前で生きていこうと改めて思う。
「レンの母親はイシュト王家の乳母だった? 名前は?」
フィンが探るような視線で質問を投げかけてくるが、嘘は言いたくなかった。
「私、実はこの世界の人間じゃないの。私は日本という国で生まれた。睡蓮って名前を知ったのは、私物を見たんでしょう? 中に入っていた会社のIDカード…身分証明証と充電が切れたスマホに文庫本は、私が住んでいた別の世界のものなの」
信じてもらえないかもしれない。でも察しの良いフィンなら何とかわかってくれるかもしれないと一縷の望みをかけて言った。
フィンは少し考えた後、特に疑う様子もなく頷いた。
「それなら知らない理由が通る。この世界にも異界とつながる道はいくつかあるから、そこからやってきたんだろ」
「信じてくれるの!?」
疑うことを覚えた方がいい、と言っていたはずの人間がこうもすんなりわかってもらえるとは思っていなかった。だから逆に疑ってしまう。
「トゥシャンは魔術の発達した国で、異界からたびたびやってくる迷い人を保護したり、元の世界へ送り返したりしてる」
「ほんと? 帰れるの?」
フィンは軽く頷き、荷物をまとめて担ぎ上げた。
「歩きながら話そうか」
長くなりそうだから、歩きながらの方が良い、とフィンは手を差し伸べてそう言った。




