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「……ここからこっちは私の陣地だからね!」
睡蓮が顔を赤くしながら大きなベッドの真ん中に鞄を置いて言うと、フィンはニヤニヤしながら頷いた。
「陣地って」
「いいから! 絶対こっちに転がってこないでね?」
「はいはい、わかりました」
フィンは湯浴みをした後から少しウトウトしている様子だったので、早めに就寝することにした。
小さな明かりだけを残し、二人でベッドに横たわるけれど、睡蓮は一向に眠れなかった。
さっきのいかつい男たちに追いかけられた時の恐怖で、目が冴えてしまっている。
「ねぇ…フィン。まだ起きてる?」
夜目に慣れてきた頃、フィンの寝ている方に顔を向けると、くぐもった声が返ってくる。
「……ん…? うん…」
少し寝入りばなのような声だった。
「あ、ごめん。寝てるよね…」
睡蓮は天井を見上げ、ぎゅっと目を瞑った。
あのいかつい男の言葉が何度も頭の中で繰り返される。
不遇の王子フィンダル。
あの言葉を聞いた時のフィンの顔。
単なる通り名ってわけでもなさそうだったけど。
パチッと目を開けて再び横を見ると、フィンがこちらを向いて頬杖をついて起きていた。
「起こしちゃった?」
「いや。眠れないんだろ」
「……」
なんて返事をしようか逡巡していると、フィンが中央寄りに近づいてきた。
真ん中に置いてあった鞄を脇にどけて、毛布を開ける。
「こっち来いよ」
「ええっ!? いいよっ! っていうか陣地入ってきちゃダメって言ったじゃん!」
睡蓮が慌ててそう答えると、暗闇の中でチッと舌打ちが聞こえる。
「…何もしねーよ。こういう時は人の心臓の音聞くとよく眠れる。俺も早く寝たい。あんたが起きてるとなかなか眠れないんだ」
ほら、と毛布を開けながら腕がダルイとか悪態をつき始める。
睡蓮がおずおずと近づいていくと、ぐいっと腕を引っ張られ、バランスを崩してフィンの胸の上に乗っかるような形になってしまう。フィンは毛布を掛けなおすと、両方の腕でしっかりと睡蓮を抱きなおした。
眠る寸前だからか、体温が高い。
「こ、子守歌もお願いします…!」
こんな恋人みたいな密着した寝方では、余計に目が冴えてしまう…! と睡蓮は硬直しながらもフィンに子守歌をねだった。
「…ったく。注文多い奴だな。じゃあ俺の知ってる眠くなる歌な…」
不満げな声の割には、律儀に歌を歌いだす。耳に心地よい、低くて静かな音だった。
最初のフレーズから、睡蓮は聞いたことのある歌だとわかった。
懐かしい歌だった。音としての歌詞は拾えるけれど、全く意味のわからない歌だった。
母が子守歌でよく歌ってくれた。
フィンのかすれて眠りそうになる声に合わせて、睡蓮も同じ歌を口ずさむと、フィンは目を薄く開けつつも、一緒に歌い続けた。
最後まで歌い終わると、フィンの声が頭上から降ってくる。
「……なんでこの歌知ってんだ?」
「昔、お母さんが子守歌で歌ってくれたんだ」
「…へぇ」
フィンはそう言って睡蓮を抱きしめる力を少し緩めて背中をさすりだした。
睡蓮はフィンの心臓の音を聞きながら、段々と眠くなるのを感じていた。
「…フィン? ほんとだね…眠くなってきたよ…」
「おー、良かったな…」
「おやすみぃ…」
その後、睡蓮はすぅすぅと寝息を立ててぐっすりと眠りこんだ。
フィンはそっと睡蓮の前髪をすくうようにして横に流して寝顔を覗き込む。
「レン。あの歌は…イシュト王家にしか伝えられてない。お前、ほんと、何者なんだよ…ちきしょう…」
もう一度睡蓮をそっと抱きなおすと、フィンも苦し気な表情で目を瞑り、やがて睡魔には勝てずに眠りについたのだった。
**********
朝。目が覚めると、フィンがいなかった。
睡蓮は慌ててベッドから起き上がり、洗面所に駆け込むが、誰もいない。
けれど大きな荷物は置きっぱなしだし、置いていかれたわけでもないようだった。
とにかく、着替えてすぐに出かけられるようにはしておこう、と下着代わりの木綿のワンピースを脱いだ瞬間、ガチャリと部屋の扉が開いた。
「ん、着替え中だったか。わりーわりー」
フィンは宿の給湯室で紅茶を淹れてきてくれたのだった。二人分のカップを器用に片手で持ち、睡蓮の下着姿を見ても特に動じない。
テーブルの上にカップを置いて、昨日買った食糧を並べ始める。
睡蓮は怒るタイミングを失い、顔を赤くしながら急いで服に着替える。
髪の毛も寝ぐせがありそうだったけれど、手櫛でとりあえず落ち着かせた。
そりゃあ色気のある体じゃないけど。
でも、下着姿を見ても、何事もなかったかのようにスルーされるのは少し傷つく。
「早く食おうぜ」
睡蓮は憮然とした顔のまま、乱暴な素振りで椅子に座った。バケットのように堅いパンをがつっと掴んで小さく千切って食べ始める。
本当なら、サラダやスープも欲しいところだったけど、贅沢は言えない。
紅茶のカップを手に取り口元に運ぶと、フィンがこちらを見つめているのに気づいた。
「なに?」
「パン屑、ついてる」
そう言ってフィンは睡蓮の口の横に手を伸ばし、パン屑を取るとそのまま自分の口に入れた。
「…! フィンって…た、タラシだよね!」
「あ? なんで」
意味が分からないといった顔でパンを口に運んでいる。自覚がないとか、天然なのか。
「…こういうのさらっとできちゃうことだよ」
「あんたにしかしない」
フィンはそう言ってパンを食べ終えると紅茶を飲んだ。
天然のタラシだ…と睡蓮はフィンを見てそう思った。
そう考えると何故だか一つ一つの動作が優雅に見える。
持っているのは宿の安物っぽいマグカップのはずなのに絵になる男だ。カメラがあったらこの瞬間を留めておきたいと思ってしまう。
睡蓮は少しドキドキしながらも、そのセリフってどういう意味なんだろうと頭をフル回転させながら、残っているパンを食べることに専念した。
**********
再び荷馬車に乗せてもらい、しばらくは景色が茶色ばかりの荒野が続き、段々と景色を見ているのも飽きてきた頃だった。
「トゥシャンに着いたらその後どうすんの?」
フィンも飽きてきたのだろう、何か話をしたくなったみたいだった。
「トゥシャンのお祭りを見たら、またツェベレシカに戻るよ。ちょっと戻らなくちゃいけないことがあって」
「…へぇ」
フィンはその後しばらく黙っていたけれど、やがてゆっくりと口を開いた。
「トゥシャン着いて俺の墓参りが終わったら、ツェベレシカに戻らないで二人で一緒に暮らさないか?」
「…え?」
目をぱちくりしながら睡蓮が慌てて居住まいを正すと、フィンは少し睡蓮の方に近づいてきた。
「…それとも、ツェベレシカに男でもいんの?」
フィンの問いかけに、黒髪で銀色の瞳を持つ男が脳裏に浮かぶ。
ヴァレリーのことは好きだ。ヴァレリーも私のことをすっぱり切り離したくはないぐらいには、自分のことを好きでいてくれていると思う。けれど一生表舞台にあがることなく、ヴァレリーの気が向いた時だけ相手をする役割を強いられそうになっているのは受け入れがたい事実だ。
私はヴァレリーとお互いしか見ない相思相愛になりたいだけなのに。
ほんの少しでもヴァレリーのことを口に出したらまた気を失うかもしれないと、睡蓮は口ごもった。
「めんどくさい恋愛してんなら、俺にしとけば?」
フィンは睡蓮の何とも言えない複雑な表情で、上手くいっていないことを察したようだった。
「返事は今すぐじゃなくていいから」
きちんとした返事ができない睡蓮の頭をぽんぽんと優しく叩いて、フィンは笑みを浮かべた。
「…ちゃんと、返事するから…待ってて」
睡蓮が小さな声でそう言うと、フィンは一瞬目を見開いて驚いたような顔になったけれど、すぐに破顔していい返事待ってる、と答えた。
せっかく離れられたんだ。別の人生を送る道も考えても良いかもしれない。
もう少しじっくり考えてみようと思った。




