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夕食後、突然、クレールからトゥシャンに行かないか、と告げられ、即座に返事が出来ないでいた。
トゥシャンはケイナの故郷であり、高位の魔術師が多く輩出される国でもある。魔法使いってどんな人たちなんだろうと、一度は行ってみたい国だと思っていたけれど、まさか本当に行けるとは思ってもいなかった。
「アビーを護衛につける。あいつもそろそろ行儀見習いに出ても良い歳だしな」
「あの、でも、ヴァレリーさんの側室の話は…?」
「その件なんだが、一旦それは忘れて外国で息抜きしてきた方がいいと思ってさ。これにはケイナも同意見だ。ケイナの家に滞在するように手配するから、少しは心強いだろう?」
「…それはどうもありがとうございます…」
ケイナとの微妙な距離感をクレールは知らない様子だったので、睡蓮もあいまいに笑みを浮かべてお礼を述べた。
「それに、ヴァルには今後のことをどうするか考えるように言ってある」
クレールはそう言って、少し何かを言いたそうな顔で言葉を選んでいるようだった。
「俺たちの都合で色々振り回しておいて、こんなこと言える筋合いじゃないのはわかってるんだけど、トゥシャンに行ったら、アビーの様子を見ていて欲しいんだ」
「アビーの?」
睡蓮が首をかしげて質問すると、クレールは横目でちらりとアビーの部屋の方を見つめ、少し声を潜めた。
「…オリバーが結婚相手を決めるって、俺に伝えに来たんだ。その時、ちょうどアビーも一緒でさ。あいつ、その場では平常心をギリギリ保っていたけど、内心は思い切りへこんでるんだよなぁ。何しろ初恋の相手だし」
オリバーは竜の血を引いている。その彼が結婚相手を決めたというのなら、その女性が竜珠の花嫁になる。
睡蓮はアビーの部屋の扉の方を見つめながら、自分のことのように感じて胸が締め付けられるような気分だった。
「…こればっかりは、第三者が何を言ってもどうしようもないしなぁ。素直に泣きついてくれば慰めようがあるんだが、何事もないように振舞ってるのが逆に痛々しくてな」
**********
「アビー? 入っていい?」
お茶の準備をして、アビーの部屋の前に立つ。ドアをノックして中からの返事を待つが、なかなか返事がないので自分の部屋に戻ろうかと踵を返した途端、背後で扉が開いた。
「…お茶、持ってきたんだ。一緒に飲まない?」
「ありがとう」
アビーはげっそりした顔のまま、力のない声で睡蓮を部屋の中に招き入れる。
ソファに力なく座ったアビーの横で、お茶の準備をしていく。
オリバーの話をどう切り出すか思いあぐねていると、アビーが口を開いた。
「オリバーね、結婚するんだって。相手はオリバーと家柄が釣り合ったどっかのお嬢様」
落ち込んだ声でそう呟くアビーに、睡蓮は慰めの言葉がうまく見つからないでいた。
慰めようとお茶を持ってきたのに、いざ、その話題になったら年上だというのにうまい言葉がでてこなくて歯がゆくなる。
「アビーはオリバーさんに気持ちを伝えたこと、ある?」
「気持ち? ないよ、そんなの。オリバーの相手が私じゃなかったらって思ったら、言ったって無駄だし」
「そうかなあ。無駄かなぁ?」
アビーとダンスを踊るときのあのオリバーの深い笑みを思うと、二人は両想いなんじゃないかと思ったのだけれど、確証がないのに変に期待させることは言えなかった。
「それにしょっちゅう顔を合わせるし、言えないよ」
「そっか。でも私は黙っていられなくてヴァレリーさんに言っちゃったよ」
睡蓮がそういうと、アビーは目を瞬かせて続きを促した。
「返事はもらえなかったけどね」
苦笑すると、アビーも困ったような笑みを浮かべた。
「もっと早く、オリバーが結婚を決める前に私も言えばよかったのかな。いつまでも子ども扱いされてて女性として見てもらえてなかったし。ドレスを着ておとなしくしてたらオリバーに女性として扱ってもらえたのかなあ」
アビーはそう言うと、しばらく俯いて黙り込んでしまった。
何とも言えない無言の時間が過ぎていく。お湯が沸き、お茶を淹れていくとラベンダーの香りが部屋の中に広がっていく。その時、ふいにアビーが顔をあげた。
「そのお茶…どこで買った?」
「あ、これね、貰いものなんだけど気持ちが落ち着くお茶なんだって。一緒にどうかなって」
アビーが無言で茶器から茶葉を取り出し、匂いを嗅ぐ。そして何かを思いついたのか、素早い動作でソファから立ち上がり、本棚から薬草辞典のようなものを持ち出してきた。
「アビー?」
「レンはこのお茶、どのぐらい飲んだ?」
真剣な表情で本のページをめくりながら、アビーが問う。
「えと…まだ一杯だけかな? お土産にもらったのを初めて空けたから」
「何か具合悪くなったことは? 誰からもらった?」
「…特にないけど…くれたのはイリーナさんだよ」
イリーナの名前を出すと、アビーは舌打ちをする。
「…やっぱり。これだ。小さい頃に飲まされた記憶があるから覚えてた」
アビーが見せてくれた本の文字は難しくて読めなかったけれど、文字の色に赤を使っていて、危険という雰囲気を醸し出している。
「これはシキミという薬草で、昔はものすごく薄めて鎮痛剤に使っていたんだけど、常用すると呼吸器系の運動神経を麻痺させて呼吸が止まってしまうから使用禁止になってる。これは濃度を変えたら毒殺にも使える代物なんだ。暗殺防止に兄貴も私もこれを薄めたものを飲まされて耐性をつけたんだ」
「……同じポットから出たお茶を、イリーナさんも一緒に飲んでたけど…」
「たぶん、彼女も毒に耐性があるんだろう。イリーナからもらったものはこれだけか? 今後、彼女からは何も受け取ったらだめだ」
アビーは窓を開けて部屋の空気を入れ替え始めた。
お茶はすぐに密閉容器に入れられ、クレールの元へと持っていくことになった。
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「そうか…イリーナがこれを…」
クレールも部屋に持ち込まれた香りを嗅いで眉をひそめた。
「毎日このお茶を飲んでいたら命に関わるところだった。それにしてもこんなわかりやすい毒のお茶を渡してくるなんて、相手はよっぽど余裕があるのかそうではないのか…判断しかねるな」
「兄貴。こんな風にあからさまに命を狙ってくるのに、今トゥシャンに行くのは危なくないか?」
「いや、敵が増えただけだ。国内にいるよりましだろう」
兄妹の物騒な話を他人事のように聞いていると、クレールが睡蓮に向かって言葉を選びながら話し出す。
「あまり怖がらせるのもどうかと思っていたんだが…。レン。お前は秘密を知りすぎてる。イリーナが出てきたあたりでちょっと風向きが変わった。今後、何らかの形で命を狙われることが多くなるはずだ。今のところ、直接狙ってきたのはイリーナだけだが…その背後にはもしかすると宰相も絡んでるかもしれない。あいつはレンのことを厄介者扱いしてる節があるから」
宰相と言われても睡蓮にはピンと来なかったが、すぐにクレールが白髪で目の赤い奴、と説明してくれたので、あの城内の食堂であった彼だとわかる。
「あいつの頭の中は、個人じゃなくて国が最優先なんだよな…。生真面目なのはいいんだがな、度を過ぎることが時々ある。ヴァルもその辺り、しっかりわかってるはずなんだろうけど…なぁ」
「兄貴。私、トゥシャンに行くから。レンのこと、しっかり護衛するから安心していい」
唐突にアビーが宣言すると、クレールは、お、おう…と急に元気になった妹に戸惑いつつも頷いた。
そしてアビーは睡蓮の手首をつかみ、足早に睡蓮の部屋へと向かう。
睡蓮の部屋の中に入ると、アビーは扉に背を預けながら、俯いていた。
「私、トゥシャンに行ってレンの護衛ちゃんとする。ここにいたら私ダメになりそうだから。この気持ちを早く吹っ切りたい」
涙をこらえながら話すアビーに、睡蓮は知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。
「…お茶入れなおすから、今夜は語ろう!」
半泣きの顔で、無理矢理笑みを浮かべたアビーに、自分の表情が重なって見える。
私も傍から見たら、こんな風に無理して笑ってる時があるんだろうな。
宰相も国王陛下も私が竜珠の花嫁には相応しくない、なってほしくないと思っている。
自分の命が狙われるという話もケイナから以前に聞いていたけど、当事者のはずなのに全然現実味を帯びた話じゃなかった。
さきほどの毒入りのお茶も、何か他人事のように感じる。
優しくしてくれる人は周りにいる。だけど本心から縋れるものが何もなくて、心が麻痺してきているのかもしれない、とも思う。
ヴァレリーも言外に自分を遠ざけようとしているし、彼がイリーナを選ぶのは、ほぼ確定のような気がしてきてもいる。
元の世界へ帰る時が来るまで、せめてヴァレリーの気配が感じられない場所で過ごしたいとすら思っていた。
クレールの申し出は渡りに船だったかもしれない。
ヴァレリーに竜珠の気配が漏れないよう、自分を守るガラスの器があったらいいのに…と願わずにはいられなかった。
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「今日は月がきれいね」
イリーナは窓際で夜空を見上げながら独り言を呟いた。部屋の片隅に待機している侍女は無表情のまま返事もせずに立っている。
「今日はそろそろ休むわ。あなたも下がっていいのよ」
侍女はその言葉に少しだけほっとしたような表情を浮かべ、窓際のカーテンを引こうとする。
「カーテンはそのままで。明かりを消してくれるだけでいいわ」
侍女は大きなランプの明かりを消し、一礼をして部屋を出ていった。
「ほんとに…ここの警備は隙がありすぎるわね…。こちらとしては好都合だけれど」
そう言いながら、ベランダの片隅にいる影に視線を移す。
「何か動きは?」
「…例の女をトゥシャンに移そうとする計画があるようです。良かったですね、奴は竜珠の花嫁を姉上に決め…」
「姉と呼ぶなと言ったでしょう?」
鋭い一言に影は一瞬息を飲み、そしてすぐに謝罪をする。
「…申し訳ございません。ですが例の女が外国に行ってしまえば姫様が竜珠の花嫁として迎え入れられるのでは…?」
「そうかもしれないけど、何かヴァレリー様はまだ訝しんでいるようなの。私が竜珠の花嫁となるには…候補がいなくなればいいのよね…」
イリーナははっきりと言葉に出さない。
影は今まで必要とあらば人の命を奪ってきた。
今度も女を一人消せばいいだけの話だ。
「それでは…報告をお待ちください」
「…期待してるわ」
イリーナはそう言って窓を閉め、カーテンを引いた。
―――10年。
長いような短いような時間だった。
あともう少しで悲願が達成される。
イシュト帝国の復興、そしてこの大国をイシュト帝国の属国にするのが私の願い。
私の祖国を蘇らせ、憎い黒竜を見つけ出し、そうね、ヴァレリーに討ち取ってもらうのもいいかもしれないわ。
そのあとは、おとぎ話のように末永く幸せに暮らしていくのもいいかもしれない。
ヴァレリーは私の初恋の人でもあるのだし。
イリーナは小さな笑みを浮かべて眠りについた。




