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ヴァレリーが鍛錬場で剣の手入れをしていると、イリーナが正装に近い薄いオレンジ色のドレスを着て、城の侍女や護衛騎士を引き連れてやってきた。そろそろ日差しが強くなってきたので侍女が日傘をイリーナの背後からさしている。
竜騎士の面々は、ヴァレリーのお妃候補が突然現れたので色めき立つ。
「あら、もう訓練は終わってしまったの? ヴァレリー様の剣技を見てみたかったのに」
「…今日はもう終わりだ。訓練風景が見たいなら、次回、予定を合わせよう。今日はどうしたんだ?」
「用がないなら会いに来てはいけない?」
鮮やかな鳥の羽をあしらえた扇子を口元にやり、横目でヴァレリーを見遣る。
正直、他の団員たちが騒ぎ出すまでイリーナがやってきたことにすら気づけなかったが、それよりもイリーナはこんな性格だっただろうかとぼんやりと考える。
イリーナの胸元には、先日まで睡蓮がつけていた黒い竜珠があった。
ヴァレリーがその竜珠をじっと見つめていると、イリーナが扇子で竜珠を隠すような仕草をとった。
「訓練が終わったのなら、散歩でもしながらお話ししましょう」
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ヴァレリーが城内を案内するということになり、お付きの護衛騎士や侍女たちは下がることになった。
真夏ほどではないが、日差しが厳しい。日傘をさしてまで散歩をしたいんだろうかと訝しげにイリーナを見遣ると、遠目に教会の十字架に気を取られている様子だった。
「素敵。私のいる部屋からは見えなかったけれど、城内に教会があるのね?」
目を輝かせて行ってみたいというその顔は、記憶にある朗らかに笑うイリーナと重なる。
「近くで見てみたいわ。いいでしょう?」
子供のようにはしゃいでいる彼女を見ていると、十年前に一緒に過ごしていた時のことを思い出す。
ヴァレリーは話をするなら人気のない教会がいいかと、イリーナをそこへ案内することにした。
教会の中庭へ入って大きなガラスの窓越しに教会内部を覗く。
天井近くのステンドグラスの装飾から色とりどりの光が落ちてきていて幻想的な雰囲気を醸し出していた。
自分が一人で閉じ込められている時には何とも思わなかったけれど、睡蓮と一緒に過ごす日々の中でそういった些細なことに気づいていくうちに、教会で過ごす時間も前に比べたらそれほど苦痛ではなくなっていた。
「素敵! 私たちの結婚式はここで行うのかしら?」
ヴァレリーは曖昧に頷くが、イリーナはそんなヴァレリーの様子に目ざとく気づいて、一つ咳ばらいをした。年甲斐もなくはしゃぎすぎたことを反省しているようにも見えた。
「中に入ってみるか?」
「ええ、もちろん」
中庭から入口の扉の方へ向かう際、首筋にチリチリとした静電気のようなものを感じた。
振り返ると地面に魔法陣がきっちりと敷かれているのが見え、いつでも封印が発動するよう準備されていることを知る。
入ってくるときには何も感じないのに、出ていこうとするときだけ発動するのだ。
今は竜化していないからこの程度の反応で済むが、完全に竜化した時の咆哮が魔法陣を通して思い切り自分に跳ね返ってきたことを思い出し、ここはいつまでも自分の檻なんだなと再確認する。
入口の扉を開けると、中は長い廊下になっている。
イリーナは天井を見上げながらゆっくりと教会の方へと歩いていく。
「王宮での暮らしも贅沢なものだけれど、こういった立派な装飾の建物を見ると、改めてツェベレシカ王国は大国だということを思い知らされるわ…。贅を凝らしても余りある潤沢な財産…。王侯貴族が贅沢をしているからといって、一般人が明日の食事や生活に困っているということもない。この国の民は貧富の差はあれど、飢えて死ぬこともないでしょうしね」
イリーナが独り言のように呟くが、ヴァレリーは無言のまま受け流す。すると少し前を歩いていたイリーナが振り返って上目がちにヴァレリーを見上げた。
「ねえ、ヴァレリー様。王位に就いたら私のお願いを聞いてもらえるかしら?」
「女性のお願い事こそ怖いものはないな。次から次へと欲が出て際限なくなるだろう」
ヴァレリーが皮肉めいた笑みを浮かべながら言うと、イリーナは扇子で口元を隠して目を細めた。
「まあ酷い。私のお願いはたった一つよ。竜珠の花嫁のお願いは必ず聞いてもらえるのでしょう?」
「…内容によるかな」
はっきりと竜珠の花嫁と断定したわけでもない彼女に、あまり正直に答えないほうがいいだろうとヴァレリーは答えを濁らせた。
教会の扉の前で、小さな扉の方を開けて中へ促す。
イリーナは間近でみる教会内部の装飾に目を見張っていたが、その傍らに置いてある簡素なベッドに不可解な視線を投げかけていた。
「…教会にベッド? 何故かしら」
「たまに俺がここで過ごすことがあるからだ。ここは俺の檻でもある」
ヴァレリーが自虐的な笑みを浮かべてそういうと、イリーナは意味が分からないと言った風な顔になる。
「檻? どうしてあなたが檻に入れられなきゃいけないの」
「それは…」
ヴァレリーは少し言いよどむと、意を決して口を開いた。
「10年前のあの時、湖のほとりであなたは俺を見たはずだ」
ヴァレリーがイリーナの瞳の奥を覗き込むようにそう言うと、つい、とイリーナは目を伏せた。
「…また過去の答え合わせなの? いい加減、私が本当のイリーナだってことを認めてくれているのかと思ったのに」
「覚えていないと言いたいのか? あの時、竜珠を渡したというのに」
「私は、あの谷から奇跡的に救出されたあと、一時的に記憶が曖昧になったの。自分が誰だかもわからないまま数年過ごしていたけれど、徐々に記憶が戻ってきて…気づいたらずっと若いままだった。そして今回、あなたが私を探しているということを知って、わざわざやってきたのよ?」
「確かに、あなたの言う昔の記憶は、大筋では俺の記憶と重なる部分はあった。だが、本当に俺があなたに竜珠を渡した時のことを覚えていないのは…正直、気になる」
イリーナは目を伏せたまま黙り込んでしまった。ヴァレリーもそれ以上続けられずにお互いに無言になった。
イリーナは床を見つめながら、先日、ジョルジュ・セドラーク宰相との面会時の話し合いを思い出していた。
『イリーナ殿。今後もヴァレリー様から当時のことを質問を受けるとは思いますが…。記憶にないことを質問された場合には、私の言ったとおりの言葉をおっしゃっていただけませんか?』
『それは私に嘘をつけ、と?』
『いえいえ、そうではありません。私の望みはヴァレリー様にぜひあなたを竜珠の花嫁に指名してもらいたいのです。あなたもそうではありませんか?』
『……』
『そんなに警戒なさらずとも。私は国を第一に考えております。どこの馬の骨とも知れぬ、いついなくなるかわからない素性の女性を次期国王陛下の竜珠の花嫁にするには賛成致しかねるのです』
『それで私にどうしろと?』
『バレージ氏の子を妊娠していた、と告げるだけでよいのですが』
『…私が妊娠していたことまで、よく調べ上げたのね』
『ああ! 当時妊娠されていたことは覚えていらっしゃるのですね、それは失礼しました。ならば安心です。我々の利害が一致しましたね』
そう言って見慣れぬ赤い瞳が細められ、あからさまに作った笑みを浮かべる宰相に、イリーナは食えない男だ…と内心毒づいていた。
あの男は今後も『イリーナ』の正しい過去の記憶を伝えに来るだろう。それまでには自分もあの男に尻尾を掴まれることのないよう、細心の注意を払わなくては。
「そういえば、子供は?」
ふと顔をあげると、ヴァレリーが小さなミスも見逃さないといった様子でこちらを見下ろしている。
来た、と思った。ヴァレリーから妊娠の話を問いただすのを予想していた宰相の通りだった。
それも、遠回しにイリーナが妊娠しているかどうかではなく、単に子供という言い方で。
「子供…? ああ、私の子ね。私の子は…気づいた時にはお腹からいなくなっていたわ。おそらく事故のせい」
「…そうか。それは…残念だった」
イリーナの話を信じてすまなそうな顔で目を逸らすヴァレリーを見て、また一つ、竜珠の花嫁として認めてもらえたのだと確信する。
「ねえ、ヴァレリー様。私からは竜珠の気配というものを感じる?」
しなだれかかったような声音でそうそうたずねると、ヴァレリーは目を逸らしたまま、いや、と答えた。
「…私のこの姿を見てもわかるでしょう? 10年前から年を取らないこの姿。いい加減、竜珠の花嫁として迎えてくれてもいいと思うのだけれど」
イリーナがそう言うや否や、いきなり周囲の空気が重たくなった。一人で立っているのが辛くて思わずヴァレリーにしがみつく。
「なっ…何!? 何なの!?」
怖くなってヴァレリーの顔を見上げると、ヴァレリーの顔がいつもとは違うことに気づく。
瞳孔が縦に細くなり、目元には黒い模様が浮かび上がる。パチパチと空気がはぜる音がして髪が逆立つ。
肩に添えられた手を見遣ると、爪が異様に伸びてきているのが見えた。
思わずヴァレリーから後ずさり、恐怖で引きつった顔のまま、小さな扉へと視線を向ける。
ヴァレリーはそんなイリーナを見て、ふぅ、と大きく溜息をついて顔を背けた。
すると途端に空気の重たさが消える。静電気で頬に張り付いていた髪も指で撫でればすぐに取れた。
「ヴァレリー様…今のは一体…?」
背後からイリーナが恐る恐る話しかけてくる。ヴァレリーは二、三度大きく息をつくと、自分の手を見て爪が消えていることを確認してから振り向いた。
「さあ…気のせいじゃないか? あなたもだいぶお疲れなのではないだろうか。城の客間では息抜きもろくにできないだろうし」
振り返りながら、今のは幻覚だと言わんばかりの態度で素っ気なく言うと、イリーナは少し不満そうな顔になった。
「もうここの探索は結構よ。城でお茶を頂きたいわ」
「すぐに教会の入口に護衛騎士が来る。俺はちょっとここで休んでいくから。また次回鍛錬場の見学でも来てくれて構わない」
ヴァレリーはそう言ってガラス窓の方へと歩いていき、イリーナの方へは振り返らなかった。
「…ねぇ」
ヴァレリーの背中にそっと手を置き、もたれかかるようにして背中に密着する。
「湯あみをしてないからあまり近寄ると汚れるぞ」
「大丈夫。今は城の中で生活しているんですってね? 夜、私の部屋でお酒でも飲みながら話さない? 仮にも婚約者でしょう」
「そうだな。近いうちに」
ヴァレリーは振り返ってイリーナの手を取り、小さな扉のところまでエスコートする。
「教会の入口に護衛騎士が待機しているだろうから。ではまた」
イリーナの指先に軽く口づけをすると、わずかにほほ笑んでイリーナを扉の向こうへと促す。
扉が閉まると、ピシリと封印される音が聞こえた。
ここ最近、竜化のタイミングを自分でコントロールできるようになってきたとはいえ、ほんの少しの竜化で封印が施されるとは、よほど信用がないのだろう。
今回はすぐに出られるだろうが、クレールに言われたこともあるし、少し落ち着いて考え事もしたい。
ヴァレリーはだるい体を引きずってベッドに横たわった。
イリーナはバレージ隊長との子供を妊娠していた。
まさかバレージ隊長と示し合わせて嘘をついていることはないだろうが、それにしても母親の自覚のようなものが見えない。
自分の子供を事故で亡くしてしまったと言っても、あんなに軽く言えるものなんだろうか。
いや、10年も経てば何事もない風を装えるのかもしれない。
そう考えて、睡蓮にも酷いことをしている自覚はあるが、イリーナに対する態度も婚約者のそれとは異なり、さっきの態度も含めておざなりになっているような気がする。
喉から手が出るほど渇望していて、一時は諦めていた竜珠の花嫁が目の前にいるのに。
なのになんだ、この状況は。
あまりの自分の不甲斐なさに失望する。
10年前、湖のほとりで自分の竜の姿を見たイリーナ。
とても驚いてはいたけれど、恐怖で顔が引きつるということはなかった。
その時、衝動的に竜珠を取り出し、イリーナに押し付けた。
それで受け取ってくれたと勘違いした自分は、イリーナの気配が消えた後、我を無くして一つの国を滅ぼしてしまった。
ヴァレリーは過去の自分のしてしまったことを思い出し、眉間にしわを寄せながら目をつむった。




