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今日は語学学校に通う初日だ。
役所の隣にある図書館の一角が教室になっているのだという。薄暗い建物内に入ると、少しかび臭いような、紙が古くなったような図書館独特の匂いが睡蓮を迎えた。懐かしい匂いを嗅ぎながら地図に書かれた教室へと向かう。
あれからダフネやアルマンドに強引に引き留められて、しばらく居候させてもらうことになった。ただで泊めさせてもらうのは心苦しかったので、せめて食事をと申し出たはいいけれど、いかんせん台所の使い勝手がわからな過ぎて断念してしまった。
まず、当たり前のようにあると思っていたガスがない。土間のような台所で種火を消さないように気を配っていなければいけないようだった。シチューを作ったり、肉を焼いたりする時の火加減はふいごのようなもので炎を大きくしたり小さくしたりする。調味料も慣れ親しんだものではなく、見たことがないハーブがたくさん取り揃えてあって、初めて台所へ入った睡蓮には何もかもお手上げだった。ダフネはそんな睡蓮を見て、良いところのお嬢さん育ちなんだろうから無理しなくていいと苦笑しながら言ってくれたのだった。
睡蓮のクラスは初級レベルのクラスだった。クラス分けのテストを行った際、流ちょうな大陸公用語を話す睡蓮に学校は不要ではないかと教師が提案しかけた矢先、その後の筆記試験が散々な結果だったので有無を言わさず初級クラスへと編入することになった。
教室のドアを開けると既に老若男女の生徒たちが15人ほど、思い思いにおしゃべりをしている光景が目に入った。移民向けの語学学校というだけあって、顔立ちや肌の色も様々だった。
その光景を見て、睡蓮は学生時代を思い出す。
大学を卒業してまだたったの1年しか経っていない。また学生時代に戻ったような気がした。
きょろきょろとあたりを見回して、教壇から後ろ過ぎず前過ぎない丁度よい距離の机が空いていたのでそこに滑り込む。
突然入ってきた睡蓮に、周りの生徒たちは声をかけずとも興味津々の様子だった。
「はじめまして、ワタシ、ケイナ」
少し訛りのある発音で声をかけられて顔を上げると、睡蓮と同じくらいの年代の女性がやってきた。
少し肌の色が浅黒くて艶やかなストレートの黒髪を三つ編みにしている。
睡蓮は今日、自分なりに着崩したシンプルなワンピースを着てきたのだが、ケイナは茶色の上着に派手な花柄の刺繍が施されたロングスカートをはいていた。
「はじめまして。私のことは…レンって呼んでね」
握手をしようとして手を差し出すが、ケイナと名乗った女性は首をかしげて睡蓮の手を見つめていた。
国によって挨拶の仕方が違うのかもしれないと、気を取り直して宙に浮いた手を戻した。
ケイナが話しかけてきたのをきっかけに、少しずつ周りに人が集まってくる。
脳内同時通訳は便利なもので、大陸公用語以外の別の国の言語も睡蓮にはすんなり理解できる言葉として聞こえてくる。
睡蓮はいつも自分の外見が日本人離れしているせいで周りの人間たちに誤解されることが多かった。
桜が散ったばかりの季節は、新しい人間関係がなかなか肌に馴染まず、居心地の悪い思いをして、毎度自分の外見―――モデル並みに高い身長、透けるような白い肌、薄茶色の髪に琥珀色の瞳を呪っていたものだった。
ところがいまは人種のるつぼのような教室で、普通に話しかけてきてくれるのが嬉しかった。
「みなさーん!席について!授業を始めますよ!」
パン、と手を叩いてみんなの注目を集めたのはクラス分けテストを行った教師だった。
ショートカットの髪をワックスで遊ばせ、白のブラウスに黒のパンツをはいていた。
睡蓮はこの世界にもパンツスーツがあったことに驚き、早くお金を貯めて自分が落ち着く洋服を買いに行きたいと強く思った。
初日の授業は想像していたけれど、散々なものだった。教科書の何ページを開いて…というあたりは普通に聞き取れるのだけれど、朗読になるとどこを読んでいるのかすらわからない。
授業が終わって魂が抜けたようになった睡蓮に、ケイナが苦笑しながら話しかけてきた。
「話せても読めない人はまだまだ多いわ。ゆっくりやっていきましょ?」
「そうだね。私にはまず…絵本からだなあ」
「ちょうど図書館にいるんだし、私が小さい頃読んでいたおススメの絵本を紹介してあげる」
ケイナの勧めてきた絵本はドラゴンの絵が描かれている絵本だった。パラパラとめくると大きな文字で少しだけお話が書いてある。
「これは有名な昔話よ。ツェベレシカ王国はドラゴンの加護によって繁栄した国だと言われてるの。竜騎士団もその名残りだし、何より国王様はドラゴンの子孫なの」
「え!? 王様って人間じゃないの!?」
睡蓮はもうこの世界にはなんでもありなんじゃないかと思って冗談ぽくたずねたが、ケイナはまじめな顔をして頷くだけだった。
冗談なのか本当なのかまだ会ったばかりのケイナの態度にどういう返しをしていいのか迷っていると、ケイナが怪訝な顔をしていた。
「ツェベレシカ王国の王様が竜の血筋だってことは大陸の常識よ? レン、あなたはどこの国から来た移民なの?」
唐突で直球すぎる質問に、睡蓮は息をのむ。記憶喪失だと言えばいいだけの話なのに、ケイナの人を見透かすような黒い瞳が睡蓮の心を動揺させる。
「私…」
「外見は…肌も白いし、ツェベレシカ人に似てるわよね? だとしたら北方凍土のトゥカトゥリ諸島あたりかしら? それとも…」
「…自分の名前しか記憶がないの。だから、何も覚えてなくて…」
「記憶が?」
ケイナは一瞬、訝し気な顔になった。出来たばかりの友達に嘘をつくのは心苦しいが仕方ない。
彼女はそっと睡蓮の腕に手を添えた。
「辛いこと言わせてごめんなさい。配慮が足りなかったわ」
「ううん、こちらこそ。変な人だと思ったでしょ? 何も知らなくて」
添えられた手から彼女の優しさが伝わってくるようで、睡蓮は罪悪感に胸が締め付けられるようだった。
「そうそう。その竜珠は夜になったら硝子の容器に入れておくといいわよ。竜騎士は嫉妬深いから竜珠を通していつでも見張ってるの。硝子はそれを弾いてくれるのよ」
何のこと、と聞こうとするとケイナは乗合馬車に乗り遅れるからと言って足早に立ち去ってしまった。
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ダフネとアルマンドが住む家は、王都の外れの郊外の住宅街に建っている。
家の裏はすぐ森になっているが、3ブロックほど歩けば街の目抜き通りまで行けるこじんまりとした街だ。
街中の交通手段は乗り合いバスならぬ乗り合い馬車である。学校までは毎日馬車で通うのだ。動物が好きな睡蓮には、行き帰りの密かな楽しみの一つになりそうだった。
馬車を降りて通りに面した雑貨屋に入る。学校に入学する前に筆記用具やら何やらを揃えてもらった店だ。
「やあ、レン。今日は何を買いに来たんだい?」
老いた店主がレジの向こうから声をかけてきた。読んでいた本から顔を上げると眼鏡をかけなおす。
ダフネにもらったお金は昼食代と馬車の運賃でほぼ消えてしまっている。子供のお小遣いほどしか手持ちがなかったため、今日は見に来ただけだと伝えた。
「硝子の蓋つきの入れ物を探してるの。小さくて良いんだけどありますか?」
睡蓮が店主に向かってそう言うと、店主は何かを思い出したように店の奥へと引っ込んでしまった。だがすぐに戻ってくると猫脚が付いた王冠の形を模した蓋がついてる可愛らしい硝子のキャンディポットを差し出した。
店主からそれをそっと受け取ると、両の手のひらにすっぽりと収まる小さなポットは店内のロウソクの灯りを反射してキラキラと輝いていた。
「…キレイ」
ほぉっとため息をついて見つめていたけれど、手持ちの小銭じゃ買えない代物であろうことは想像に難くない。
「この間はごひいきにしてもらったからね、他に使い道がないものだから持って帰っていいよ」
「本当?」
睡蓮は店主の気持ちを嬉しく思ったが、反面、相当物欲しげに見ていただろう自分の顔を想像して恥ずかしくなった。
「ただで頂くわけにはいかないです。こんなに高価なもの」
「代金は支払済みだよ。昔、これを注文した竜騎士が結局取りに来なかったんだ」
「それでも払います!」
「それじゃ、いつでも都合の良い時に持ってきてくれたらいいよ」
睡蓮はこくりと頷いて、割れないようにポットを新聞紙にくるんでもらった。
丁寧にお礼を述べ、落とさないように気を付けながら店を出て家への道を歩き出す。
ここの世界の人たちは基本的に優しい人が多いように思える。ダフネたちは突然現れた自分を何の見返りも期待せずに面倒を見てくれている。
でも。自分はたまたま運が良かったんだ、偶然に感謝しなくちゃと気持ちを新たにする。
黒真珠のペンダントは早速硝子のキャンディポットの中に入れておいた。大きな鏡の前のアンティークな机の上に置いてある。
ろうそくだけのほの暗い部屋の中で大きなたらいに少し熱めのお湯を張り、好きな香りのオイルを垂らしてかきまぜる。部屋の中がアロマの香りで満たされる中、タオルを浸して絞る。まだタオルが温かいうちに体を急いで清めていく。
シャワーとお風呂に慣れている身としては、こうした湯あみのやり方はこの世界での数少ない不満の種の一つだった。シャワーがなくともせめてバスタブがあればいいのに、と毎度思いながら湯あみを終える。髪を洗うのも苦労する。いっそのこと短くばっさりと切ってしまおうかとも思い始めていたくらいだ。
眠る支度を整え、図書館で借りてきた絵本をじっくりと読むことにする。
初級学習者向けの辞書とアルファベット表を傍らに置き、翻訳作業を開始する。
―――むかしむかし、おくぶかいやまのなかにいっぴきのドラゴンがすんでいました。
絵本の出だしはこんな感じで始まった。
文法は英語に似ているかもしれないと思いながら訳を書いていく。単語を覚えていけば、なんとかすぐに形になるかもしれないと楽観しはじめた頃だった。
窓ガラスがガタガタと揺れ、ランプの灯りが激しく揺らめいた。
突風が吹いて隙間風が入ってきたんだとわかった。机の足元には暖炉で焼いた石をバケツに入れて置いてあるのだ。これ以上寒くなったら大変とカーテンを閉めようと窓辺に立つと、きれいな満月が夜空に浮かんでいた。
外も意外と明るいんだと思った時、大きな影が頭上の月明かりを遮るように飛んで行き、音もなく裏山の木々の中に吸い込まれていった。
今のは何? 鳥・・・? こんな夜更けに。
睡蓮は大きな影が吸い込まれた裏山をしばらく見つめていたが、やがて何も見えないとわかるとカーテンをしめた。
その時、裏山の森の中で一人の男がじっと睡蓮のいた部屋を見つめているのに気づきもせず。
「…ギャアッ」
「静かに」
たった今降り立った山の中で飛竜が小さく鳴くが、それを制する男の姿があった。
月光の影に溶け込んでしまいそうな黒い漆黒の髪に、光加減では銀色に見える瞳のその男は身じろぎもせず、しばらくの間、カーテンのひかれた窓を見上げていたのだった。