36
「奥様のお部屋にご案内する前に、お話ししておくことがございます」
サロンに入ってきた執事のマーカスは再度一礼をし、ちらりとヴァレリーを見遣った。
ヴァレリーは黙って小さく頷く。
「リリー様。ヴァレリー様の母君、ミレーヌ様は一日のうちに数時間しか目をお覚ましになりません。なにとぞ、ミレーヌ様の気分を煩わせることのないようにお願いいたします」
「わかりました」
「それから…、国王陛下とヴァレリー様のことについては何もおっしゃらないように」
「…?」
竜珠の花嫁候補としてヴァレリーの母親に会うんじゃないの? と、マーカスの言っている意味がよくわからなくてヴァレリーに視線を向けると彼は首を横に振った。
「俺は意識のある母上にもう何年も会ってない。俺と国王陛下の区別がつかなくて錯乱状態になるんだ」
その言葉を聞いて、睡蓮は心が痛んだ。実の母親にそんな仕打ちを受けるなんて、ヴァレリーは今までどれだけ傷ついてきたんだろう。
「俺の母上は竜珠の花嫁だった。母上に会えば竜珠の花嫁になる覚悟がどれほどのものか、答えが見つかるかもしれない」
睡蓮がこくりと頷くと、マーカスが車いすをサロンに持ってきた。
「歩くのが大変でございましょうから、奥様のものですがこちらへ」
歩けないため、車いすに乗せてもらうと執事のマーカスが後ろから椅子を押してとある部屋の前まで案内される。控えめにノックをして扉が開かれるのを待った。
侍女が扉を内側へ開くと部屋の中央には大きな天蓋付きのベッドがあり、侍女らしき女性に背中を支えられて上半身を起こしている人影がヴェールの向こうに見えた。
「…あら、マーカス。こんな時間にお客様?」
「左様でございます、ミレーヌ様。こちらはモンターク公爵家所縁のお方、リリー・ド・モンターク様にあらせられます」
「モンターク家…懐かしい名前ね」
「あ、あの…リリー・ド・モンタークと申します。以後、お見知りおきを」
車いすでベッドの傍に近づいて会釈をすると、ベッドの上には顔に深い皺が刻まれた老婆がこちらを見つめていた。こちらを見つめる銀色の瞳がヴァレリーと同じということに気づいて、ヴァレリーの母親なんだと改めて認識する。
「リリー…リリーね…。どこのリリーかしら…」
長い白髪を右側にひとまとめにし、両手で梳きながら考えるそぶりを見せる。
睡蓮はモンターク家の誰の娘とまでは聞いていなかったため、何も答えることが出来なくて内心冷や汗ものだった。
「まぁいいわ。クレールとアビゲイルは元気にしてる? 私の可愛い甥と姪なのよ」
「は、はい…。先日、お二人と一緒に王城での祝宴に出席してまいりました」
クレール達とヴァレリーがいとこ同士だということに衝撃を受けながらしどろもどろに返答した瞬間、王城というキーワードが国王陛下やヴァレリーを連想させるものにならないかとヒヤヒヤしてしまう。
ミレーヌの自分を見る視線が心なしか厳しいように思える。
一日のうち数時間しか目を覚まさないということで、もっとぼんやりした感じの女性かと思っていたけれど、さすが国王陛下の妻であり、ヴァレリーの母親だなと感心する。
「マーカス。少しの間、リリーと二人きりにさせて頂戴」
「かしこまりました」
扉付近に待機していた侍女たちとマーカスが部屋を出ていくと、ミレーヌはベッドのそばへ来るように示した。
睡蓮はゆっくりとベッドへ近づき、ミレーヌの思案している横顔を見ながら何か気の利いた話が出来ないかと考えていたが、やがて、ミレーヌが睡蓮の方へ手を差し伸べてきた。
「リリー。手を」
「…はいっ」
車椅子から身を乗り出して両手でミレーヌの細く、枯れ枝のような手を支えた。すると、ミレーヌの手がしっかりと睡蓮の手首をつかんだ。睡蓮が顔を上げると、眼光鋭い銀色の瞳が睡蓮の心の奥まで見透かそうとしているように見える。
「やはりそう」
「…ミレーヌ様…?」
ヴァレリーの屋敷へは、特に何かをしに来たわけではなかったけれど、色々と内緒にしている何かを暴露されそうで穏やかではない雰囲気になる。
しかし、ミレーヌは心なしか優しい笑みを浮かべていた。
「あなたはヴァレリーの竜珠を受け取ったのね…」
「えと、いえ、あの…その…」
ミレーヌの方からヴァレリーという名前が出てきたらどう対処すればいいのか聞いておけばよかったと、なんて返事をすればいいのか困っていたら、ミレーヌが手首を掴んでいた手を離してくれた。
「私のこの姿をごらんなさい。竜珠の花嫁になんてなるものじゃないのよ」
そう言って自虐的な笑みを浮かべて目を伏せる。
「今日はなんだか数年ぶりに頭のもやがすっきりと取れて、とてもいい気分なのよ。きっとあなたの竜珠の気配のおかげね」
「……」
睡蓮が返答に詰まっていると、ミレーヌは返事を待たずに視線を宙にさまよわせる。
「ヴァレリーはすっかり大人の男になっているんでしょうね。もしかしたらローガンに似てしまったかしら」
「…外見や表情、雰囲気は少し似ているところがあると思います…」
「そう。私はね、精神的に安定していない時期があってあの子には何度もきつい暴言を吐いてしまったの。同じ屋敷に住んでるというのに、もう何年も会ってないわ」
死別した母親と会いたくても会えない辛さ、同じお屋敷に住んでいるのに会えない辛さ…。果たしてどちらがきついんだろうか。
生きている方がどうしたって何か事態が好転することを期待してしまう分、切ないんじゃないだろうか。
「それでどうしてあなたが私に会いに来たの? 王の寵愛を受けていない竜珠の花嫁のことなんて気にも留めないものでしょう?」
ミレーヌが寂しげな笑みを浮かべて睡蓮を見つめた。
ヴァレリーが知らせたかったことはなんて残酷なことなんだろう。
寵愛を受けていない竜珠の花嫁とは、まさしく私のことじゃないか。
私は竜珠をずっと持ち続けていたから竜珠の気配を偶然纏っただけの女。
王城にいるイリーナこそが真の竜珠の花嫁なんだろうに。
今までの想いを振り返って思わず涙ぐむ。
こんなところで泣いている場合じゃないのに、と乱暴に涙を拭うと睡蓮はきっぱりと顔をあげて言った。
「ミレーヌ様。私が今日ここに来た理由を聞いていただけますか」
**********
ミレーヌはしばらくするとまた眠たくなったようで侍女を呼んでくれと頼んできた。
隣の部屋で待機していた侍女が部屋に入ってくると同時に睡蓮も挨拶をして部屋を出る。
もうすでに日が落ちて蝋燭だけの明かりしかない薄暗い廊下をゆっくりと車いすを動かしてサロンまで戻ってくる。
サロンにはヴァレリーだけがソファに座って待っていた。両手を膝のところで組み、顔は俯いたままだった。
睡蓮がサロンの入口で小さく声をかけると、はっとした顔でヴァレリーが顔をあげた。
「おかえり。だいぶ話し込んでいたみたいだな」
「ただいま。…うん。もう日が暮れちゃったね」
ヴァレリーがすっと立ち上がり、車いすから睡蓮をソファに下ろしてくれた。彼も自然と隣に座りなおす。
「今日はここに泊まって明日屋敷に送ろう。既にクレールのところに早馬を出しておいた」
「でも、飛竜ならすぐ帰れるでしょう?」
「飛竜は夜間人を乗せて飛ぶのはあまり得意じゃないんだ。特に今日の飛竜は訓練した後に長距離を飛んだから疲労が溜まってる。あいつは近くの森でもう寝てるよ」
「…そうなんだ」
睡蓮がそう返事をすると話す話題もなくなったのかサロンに沈黙がおとずれる。
「今日は材料が揃ってるわけじゃないが、シェフが腕を振るってくれるそうだ。花嫁が来たっていうので皆浮かれてる」
「…イリーナさんのことはまだ話してないの?」
「まだ発表前だからな。嘘は言ってないが、心苦しい。母上に会って、睡蓮が何か得るものがあればと思って連れてきたんだが」
「得るものはたくさんあったよ、それはもうホントにね」
少し嫌味っぽい口調になったかもしれないと思いつつ、睡蓮は溜息をついて会話をするのを止めた。
ヴァレリーも空気を読んでくれたのか、マーガレットが夕食の準備を知らせるためにサロンにやってくるまで黙っていてくれた。
**********
美味しいはずの料理はほとんど味もわからず、会話もあまり盛り上がらずに気まずい時間が過ぎていった。
食事が終わるとバスタブのある浴室に通される。
湯浴みが一般的だと思っていたこの世界で快適なバスルームは気分が上がるものだ。
湯浴みを終えた後はてっきり客間に通されるのかと思いきや、ヴァレリーの部屋に通されることになった。
マーカスやマーガレットはごくごく自然にそういう扱いをするし、ヴァレリーも何も言わなかった。
車椅子を押してくれていた侍女が部屋から出て行くと、ヴァレリーがキャビネットからお酒を出しているところだった。
室内はあまり生活感はないけれど、大きなベッドがどうしても視界に入ってきてしまい、睡蓮は内心落ち着かない。
「酒でも飲むか?」
睡蓮が緊張しているのを察しているのか、ヴァレリーは琥珀色の液体が入ったボトルをこちらに見せる。
「…二日酔いになるからいらない」
ヴァレリーは軽くうなづき、自分の分だけグラスに注いだ。
こういう時、テレビがあれば間が持つのに…と思いながら、壁際一面を覆っている本棚を見ながらふと思いつく。
「ねえ、小さい頃のアルバムってないの?」
何気なくそう尋ねると、一気にお酒を飲み干したヴァレリーがゆっくりと近づいてきて睡蓮を車椅子から抱き上げた。
「アルバム? 何だそれ」
ヴァレリーが至近距離で見下してくるため、アルコールが少し入った吐息が睡蓮の鼻をくすぐる。
睡蓮は内心ドキドキしっぱなしだったけれど、平常心を保つ努力をした。
ヴァレリーはそっとベッドに睡蓮を下ろすと靴を脱がせてくれた。
「えと、こっちの世界では写真って技術はないのかな。小さな肖像画みたいなものだけど、肖像画よりも鮮明で小さい頃は年代別に分けて一冊の本にしたりするんだ」
そう説明をしている最中も、ヴァレリーは黙って今度は自分の靴を脱ぎ、ベッドにうつ伏せになる。
「へぇ。睡蓮の住む世界はいろいろと進歩しているんだな」
ヴァレリーはあまり興味がなさそうな顔でそう呟くと、ゆったりと片肘を立てて頬杖をついた。
「今日は疲れただろう? 早く横になった方が楽だぞ」
このシチュエーションで、ハイおやすみーなんて出来るわけない、と内心で毒づきながらも身体は正直でだいぶ疲労していることを自覚する。
今日は空を飛んだり、ヴァレリーの両親と話したり、気を使うばかりだった。
「そんな緊張しなくとも襲ったりしないよ」
片方の腕を伸ばし、睡蓮の髪を指でくるくると回しながら呟く。
「緊張なんてしてない」
「嘘つけ。竜珠の気配は正直だぞ」
睡蓮はヴァレリーの真意がわからなくて、少しばかり腹を立てながら、ヴァレリーに背を向けて乱暴に毛布をかけながら横になった。
「ヴァレリーのお母様から、聞いたよ」
睡蓮がそう呟くと、ヴァレリーは何をとは聞かずにそっと背後から抱きしめた。
「…これでも落ち込んでるんだ。慰めてくれ」
落ち込む?
人がどれだけ悩んだり悲しくなったりしてるのか、わかっててそのセリフを吐くわけ?
いらっとした睡蓮が体の向きを変えるとヴァレリーがおでこをくっつけてくる。
「…今日のヴァレリーは、いつもより子供っぽいみたい」
「家に帰ってくるとマーカスやマーガレットがいつも子供扱いしてくるからな。自然とそうなる」
目を閉じている顔は、よく見るとかなり憔悴しているように見えた。
イライラした感情はすぐにおさまり、おずおずとヴァレリーの耳の少し上の辺りを撫でると、ヴァレリーの口角がかすかにあがる。
「あー、俺の理性が吹っ飛ぶ前に寝よう」
茶化した様子で枕の上で頭の位置を直した。
落ち込む理由は口に出さなくてもわかる。
睡蓮は目を瞑りながら先ほどのミレーヌの話を思い返していた。




