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飛竜に乗っている間は、二人とも無言だった。
会わせたい人がいると言ったきり、ヴァレリーは行き先も告げないまま飛竜の手綱を握っている。
行きと同じように空の上でも呼吸が楽なのはどういうことなのか聞いてみたかったが、まだ気楽に話せるような雰囲気ではないために俯いて目的地に到着するまで黙っているしかできなかった。
ふと、手の甲に現れていたはずの黒い鱗がいつの間にか消えていることに気づいたが、まだ少し尖った爪が長いままだった。
そっと彼の手の甲に触れると、背後でヴァレリーがぴくりと動き、睡蓮を抱えていたもう片方の腕に力が入り、後ろからきつく抱きかかえられるような格好になる。
そして、睡蓮の首筋にヴァレリーが顔をうずめてきた。
「ね、ねぇ、どこに向かってるの?」
心臓がバクバクと音を立てているのを自覚しながら、何事もないように問いかける。
「俺の家だ」
「ヴァルの?」
そういえば最初に婚約者の振りをしてくれと頼まれた時、ヴァレリーのお屋敷に行く話になっていたが、結局一度も行かずじまいだった。
「竜化が進んできてるとはいえ、こうも頻繁に顔が変わると睡蓮に口づけることもできない」
「っ…!」
体をねじってヴァレリーの顔を自分の首元から放すと、いまだ竜化したままのヴァレリーの無機質に輝く銀色の縦長の瞳孔が間近に迫り、有無を言わさず顎を掴まれて後ろを向かされる。
尖った爪が顎や頬に少し食い込んで痛みを感じる。
「こんな化け物を好きだと言ってくれる女性はなかなかいないしな」
そう言って睡蓮の頬をわざとらしくねっとりと舐めた。人とは違う、何かざらざらした感触が背筋をぞわっとさせる。
睡蓮はいつもと違うヴァレリーの真意がわからず、頭の中が混乱したまま、徐々に人間の顔に戻っていくヴァレリーの横顔を見つめていた。
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山脈を越え、ツェヴェレシカ王国に戻ってくると見渡す限りの荒野だった景色が緑色に一変する。
山々の谷間の丘の頂上に城壁で囲われ、頑丈に作られているように見える屋敷が見えた。屋敷の両端には塔があり、屋敷というよりまるで海外の古城のような外観だった。
近くには湖もあり、緑の芝が美しく、城の敷地内には色とりどりの花が咲き乱れ、空の上からでも手入れの行き届いた庭だとわかる。
睡蓮はドイツに来たみたい…と一時浮かれもしたが、飛竜がその古城にどんどんと近づいていき、高度も低くなっていくのに気づき、もしかしたらという気持ちがどんどん確信めいたものになっていった。
「舌を噛まないようにしてくれ。こいつは着地がまだ下手なんだ」
ブレーキが下手でつんのめるような感じなのかと考え、黙って頷いた。
古城の城壁内の比較的広い芝生の上にドスン、と気を緩めたらそのまま地面に叩きつけられそうな衝撃が来たけれど、ヴァレリーにしっかりと抱きかかえられていたので地面に落下は辛うじて免れた。
「手を離すけど、大丈夫か?」
「うん…」
飛竜から地面に降り立ち、飛竜の手綱をまとめるためにヴァレリーの支える手が離れた瞬間、睡蓮は地面にペタリと座り込んでしまった。
「わわっ、いけないっ、ドレスが汚れちゃ…?」
立ち上がろうにも足腰に力が入らず、自力では立てなくなっていた。
「飛竜に初めて乗った人間はみんなそうなんだ。無意識に力が入りすぎるんだろうな」
「さっきはちゃんと一人で立てたのに」
「後から来るんだよ、筋肉痛みたいなものが」
苦笑したヴァレリーが屈みこみ、背中と膝の後ろに手を差し入れる。ふわりと抱きかかえられて視界が高くなる。
元の世界では今までお姫様だっこをされたものがなかったから、こんなことでもすぐに嬉しくなってしまう。
ふいに扉の開く音が聞こえたかと思うと、古城の内門の横にある使用人用の玄関扉が開き、中から初老の男性が出てきてこちらへ近づいてきた。
「お帰りなさいませ、ヴァレリー様。今日はお帰りになるご連絡をいただけてませんでしたが」
「ああ、ただいま。自分の家に帰るのにわざわざ連絡しなくてもいいだろう」
「そうは言われましても、日頃、王城内のご自分のお部屋に寝泊まりしているかと思いきや、今のように突然お帰りになられるとなるとお食事の準備が整いません。過去にも数えきれないほどヴァレリー様のお帰りがなく、食事が無駄になった時に領民たちの税金を無駄遣いしていると嘆かわしいことがありましたしね。おや、ところでヴァレリー様の腕の中のそのお方はどなたでございましょう」
ヴァレリーの珍しく子供のように口を尖らせている表情と、初老の男性を交互に見やる。丁寧に見えてさり気なく説教をしつつも、飄々とした態度で睡蓮の方へ視線を向けてきた。茶色い頭髪には所々白髪が見え隠れしていて、痩せて目が細く、皺の多い顔をしているその男性の視線は、気のせいか厳しい目つきのように見えた。
「彼女はリリー・ド・モンターク。クレールの遠縁の者で、竜珠の花嫁候補だ」
竜珠の花嫁と聞いてもなお初老の男性は表情一つ変えずに一言、そうですか、と頷いた。
「リリー様。私はリブターク家の執事、マーカスと申します。以後お見知りおきを」
初老の男性は深々と最敬礼をする。
「あ、こ、こちらこそ…! リリー・ド・モンタークと申します。こんな格好のままですみません」
未だにヴァレリーに抱っこされているまま、会釈をしようとするが上手くいかない。
「飛竜に乗ってこられた方なら致し方ありません。サロンにお茶を準備いたしますのでどうぞこちらへ」
どうぞ、と促された時に、微かに笑みが浮かんでいたように見えたのは気のせいだろうかと思っていたら。
「喜べ、睡蓮。良かったな、マーカスに気に入られたぞ」
前を歩く執事に聞こえないような小さな声でヴァレリーが耳打ちしてくる。どういうことだと目で尋ねると、ヴァレリーはばつの悪い顔をして目を逸らした。
「この家に女性を連れてきたのは初めてなんだ。誰かから聞いているかもしれないが、昔、その、貴族の子女と色々と…」
「ああ。ヴァルが昔女遊びしていた時の相手の女性たちのこと、マーカスさんが気に入らなかったから家に呼べなかったという話ね」
さらりと図星なことを口に出すと、ヴァレリーの顔が苦笑いになる。
「…容赦ないな、睡蓮」
「まだ言葉の勉強中で、遠回しな言い方を知らないだけだよ」
遠回しでも意味は同じだ…と彼が呟くのをよそに、屋敷の中へ入った瞬間、クレールの豪華なお屋敷とは異なり質素ながらも清潔で、フロアの端に置いてある花瓶にはほんのりと香る仰々しくない花々がいけられている。家具はみなこげ茶色系で揃えられていて、アンティークと呼ばれる逸品揃いのように見えた。
暖かな雰囲気の色合いの室内に、睡蓮は見とれてしまっていた。
「リリー様をサロンへお通ししましたら、ヴァレリー様は湯浴みをして清潔な衣服に着替えてきてください。なんですかその埃まみれは。そんな恰好でレディーに触れてはなりません」
「…わかったよ」
肩をすくめて返事をし、睡蓮をソファにそっと下すと、ヴァレリーは着替えてくると言い残して出ていった。
ヴァレリーがいなくなると、マーカスもどちらかへ消え、しんと静まり返った空間になる。静寂な雰囲気のなかで目を閉じると思い出されるのは、イリーナが失踪した場所のことだった。
あの湖のどこかに元の世界に戻れる場所が隠されている。
このまま、この世界に留まってていいんだろうかと逡巡する。
ヴァレリーにはずっとこの世界にいると啖呵をきった手前、こんな相談は彼には絶対できない。
でも国王陛下に無理矢理延命されてまで生き続けることになるのなら、いっそのことまだ傷が浅いまま元の世界に戻って、ここでの話は夢だと思う方がましなのかもしれない。
―――睡蓮。少しだけヒントをあげるわね。あなたがいつか結婚する相手はね、一生涯あなただけを愛してくれる人よ。
夕陽が差し込む病室内で、母親が意識を失う前に最後に交わした他愛もない会話だった。
ゆっくりとまぶたを開くと、窓から夕陽が差し込み、オレンジ色の光で室内の雰囲気が柔らかいものに包まれているような感じに思えた。
そういえば、お母さんは時々、予知めいた言葉を言っていたっけ。
お母さんの言う言葉が本当なら、私の結婚相手はヴァレリーかもしれないし、そうじゃないかもしれない。私が唯一無二の竜珠の花嫁だったら、ヴァレリーは私のことを…。
そのとき、カチャカチャと音を立ててお茶を持った中年の女性が笑みを浮かべてサロンに入ってきた。どことなくダフネのような頼りになるお母さんという印象を受けた。
「いらっしゃいませ、リリー様。私はメイド長のマーガレットと申します。ヴァレリー様がようやく、ようやく、花嫁様をお連れになったということで、みな一安心しておりますのよ」
アールグレイのような香りの紅茶が出され、マーガレットがヴァレリーの子供の頃の話をし始めた頃、まだ髪が十分に乾ききっていないままのヴァレリーがサロンに飛び込んできた。
「うわぁ! マーガレット! 彼女に余計な事言わないでくれ!」
「まぁまぁ! わたくしめがあなたのオムツを交換したり、木から落ちたとき、顔から落ちて眉に一生残るハゲができた話はこれからだったんですよ?」
…あ。前に見たヴァレリーの左眉の傷は子供の頃のやんちゃだった頃の名残だったのか。
それよりも、いつも冷静で余裕のある表情ばかり見せてきたヴァレリーが年相応というか、それよりも子供っぽい振る舞いで慌てふためいている姿を見るのは楽しかった。
小さくくすくすと笑っていると、ヴァレリーがほっとしたような顔でほほ笑んだ。
「そうやって笑っている方がいい」
睡蓮も微笑み返した時に、こほん、とマーカスがサロンに入ってきて咳ばらいをした。
「ご歓談中、失礼します。ヴァレリー様。母君が目をお覚ましになりましたがいかがなさいますか?」
マーガレットも柔和な笑みを消し、睡蓮を除く三人の表情が少し硬くなった。
睡蓮は怪訝に思いながらもヴァレリーへと視線を向けると、睡蓮の視線に気づいたヴァレリーがこちらに顔を向けた。
「会わせたい人がいると言ったが、俺の母上なんだ。今から会ってくれるかい」




