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―――イリーナからお茶のお誘いが来た。
睡蓮は今、王城へ向かう馬車の中にいた。
彼女から誘われたことに関して、二つの感情の中で揺れ動いていた。
一つは、純粋に母に面影が似ているイリーナと話してみたかったから、誘われて嬉しかったということ。
もう一つは、ヴァレリーの正式な妻になる予定の女性に会って嫉妬心に苛まれないかということ。
大きなため息を一つこぼすと、腕を空の方に伸ばしてストレッチをした。悩んでいても仕方ない。正式にお茶の誘いを受けてしまったのだし。
もう大人なんだから、大人の駆け引きに慣れていかないと。
ヴァレリーと付き合って行くにはいろんな障害があるはずだし。
そこまで考えて、自嘲的にほほ笑んだ。
障害、ね。
以前の自分なら、そんな気持ちになんてならないと思っていた。
万が一、相手がいる人に気持ちを動かされることがあっても、すぐに忘れられるよう気持ちを切り替えようと思っていた。
家族に恵まれなかったからこそ、自分は暖かい家族を築こうと心に決めていた。
だのに今の自分はなんだろう。
障害だなんて、きれいな言葉で自分を納得させようとしてることに気づいて、睡蓮は笑いをこらえきれないでいた。
「…っく。…あはっ、あははっ、ははははは!」
涙が出るぐらいに大きく笑い声をあげてお腹を抱えて笑う姿は、誰にも見られることはなかったけれど、睡蓮は自分に思い切り唾を吐いてやりたい気持ちだった。
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城の中で通されたのは大広間のような廊下の窓際にある半分個室のようなスペースだった。
高い天井からテーブルの高さぐらいまでの長さのカーテンが下がり、中に入っていると誰が歓談しているのかわからないようになっている。
そのようなスペースが声が届かないくらいの距離で等間隔に5つほど造られていた。
洋風の個室居酒屋みたいだな、と睡蓮はふと思う。
「こちらでお待ちください」
護衛騎士に促され、果たしてどちら側が上座なのか下座なのか、そして自分はどちらに座ればいいのか躊躇していた時、背後から声をかけられた。
「リリー様?」
慌てて振り向くと、睡蓮は息を飲んだ。
初めて姿を見たときに思った通り、生前の母に生き写しだったのだ。
燃えるような赤い髪。エメラルドのように深い緑の瞳。
顔立ちが似ていると声も似てくるというが、声を聞いただけで懐かしくて涙が出そうになる。
慌てて目頭を押さえ、ぎこちない様ではあったけれど王宮での挨拶の姿勢を取った。
「おまたせしてすみません。イリーナと申します」
そう告げて、イリーナは優雅に挨拶をする。
なんてことだろう。声までそっくりだなんて。
睡蓮は腕に鳥肌が立つのを感じていた。
寂しい時はいつも母と一緒に遊びに行った時のビデオを見て、母の声を何度も聞いた。
だから今でも生前の母の声を思い出せる。
「リリー様?」
怪訝な顔をして軽く首をかしげているイリーナの声に、我に返る。
「挨拶が遅れました。リリー・ド・モンタークと申します。以後、お見知りおきを」
「立ち話もなんですからお座りくださいな。今日はリリー様にとっておきのお茶をお持ちしたんですよ」
イリーナの背後に侍女がお茶のセットを持って立っているのに気づき、睡蓮は慌てて席についた。
「まずはお礼を言わせてください。私の代わりに竜珠の花嫁の代理を務めることになっていたんですってね」
ひゅっと喉の奥がしまるような気がした。
私の代わりに。
確かに、ヴァレリーからは婚約者の振りをしてくれと言われていたし、竜珠の花嫁も期限付きでお願いしたいと言ったのは自分だ。
自分から言っておいて、いざ他人から、それもライバルのイリーナに言われるとダメージが思ったより大きい。
「い、いえ…。私も婚約者の振りをして欲しいと頼まれただけですし…」
ショックを受けながらも睡蓮が小声でそう答えると、イリーナは途端に目を輝かせて身を乗り出してきた。
「まあ! 振りだったんですね? ああ、良かった。もしヴァレリー様の寵愛を受けていたらどうしようかと思っていたんです。だって国王の正妻は竜珠の花嫁がなるものだし、私は訳あって長い間ここへ戻ってこれなかったから、ヴァレリー様の心変わりを心配していましたの。でもそんな心配なんて不要でしたわね! 何しろ竜の血筋の男性は一生涯一人だけを愛するということですし」
睡蓮はかろうじて笑みを顔に張り付けたまま、頷くしかなかった。
イリーナには悪気がないのだろうけれど、言葉の一言一言が心に突き刺さってくる。来たばかりだけど、飛んで帰りたい気持ちになった。
「リリー様、このお茶は神経を休ませてくれる成分が入っているんですよ。慣れない王室のマナーやら王妃としての立ち居振る舞いなどを習っていては気が休まりませんの。お土産に包んだので良かったら飲んでくださいませね」
イリーナはにっこり笑ってそう言い、自分の目の前に置かれたカップを口元に寄せた。
睡蓮も自分のカップを手に持ち、そっと口元へと近づけた。ふんわりとラベンダーのような香りが漂うお茶だった。神経を休ませる成分が入っているというのも頷ける。
ふと、イリーナの胸元に目をやると、竜珠のペンダントがつけられているのに気が付いた。
睡蓮の首元への視線に気づいたイリーナは、胸元に手をやり、小さくほほ笑んだ。
「このペンダント、ヴァレリー様にいただいたんです。黒い竜珠って珍しいですけど、ヴァレリー様なら特別ですもの。竜珠の花嫁ってことですよね」
「そ…そうですね、竜珠はほとんどが無垢な白と決まってるそうですが、さすがヴァレリー様の竜珠は違いますね」
睡蓮は愛想笑いをしながら、何かしっくりこないものを感じていた。
黒い竜珠が珍しいって、ひょっとして、イリーナはヴァレリーが竜化することを知らない…?
それとも竜化することは知っていても秘密にしているっていうことなんだろうか。
落ち着いた笑みを浮かべてみたり、若い娘のようにはしゃいでみたり、イリーナの真意がわからないけれど、睡蓮は母の形見を目の前にして複雑な気持ちでいた。
「それで。リリー様は今後はどうなさるご予定なのですか?」
イリーナの質問は、暗に婚約者の振りを辞めた後のことを言っているのは明らかだった。
もちろん、正直に答えるつもりもなかったけれど、何故か最初からこの人には上から目線で話を進められているような気がして気分が悪かった。
「あ…、私はデビュタントが遅くて…こんな私でももらってくれる人がいたらいいんですけど…」
この世界では、女性で二十歳を超えて決まった人がいない場合、いわゆる行き遅れと認定される。
貴族クラスの女性は、伴侶と死別した中年の貴族に嫁ぐか、魔術師に弟子入り、修道女になるかの三つの選択を迫られる。
魔術師という職業がどんなものかよくわからないため、やってみたい気持ちも少なからずあった。
「…魔術師に弟子入りもいいかな、と考えているんですよ」
「魔術師! まぁ! リリー様って変わってるんですね? 魔術師になりたいという貴族の子女は今ではほとんど皆無でしてよ? 何しろ、トゥシャンのジプシー達みたいに放浪の旅を強いられるんですから、常に移動し、一か所に留まらないで生活する不便さを味わいたいなんて思うのは物好きだけだと思ってました」
この世界のことを勉強しているとき、ミセス・ジョーンズはそこまで教えてくれなかった。何しろ、貴族としての礼儀作法を第一に叩き込まなくてはと意気込んでいた彼女に、ほかの選択肢のことを聞く余裕すらなかったのだ。
トゥシャンのジプシーのことや、魔術のことはこれからケイナに詳しく聞こうと思っていたところだったし。
「魔術師に弟子入りするくらいなら、私と一緒に離宮にいらっしゃいません? 私、こう見えて結構良い年なんですよ。若い子とは話が合わなくて…リリー様が話し相手になってくださればうれしいわ」
「離宮…?」
ヴァレリーはイリーナにはいろんなことを話しているんだろうなと想像する。
私は一時は二人きりで過ごすこともあったけれど、所詮、代理だ。
離宮なんておとぎ話でしか知らないけれど、ヴァレリーが側室を囲って離宮に通う姿なんて見たくなかった。
「イリーナ様は竜珠の花嫁なのに離宮なんですか…?」
睡蓮の質問はイリーナの逆鱗に触れたようだった。一瞬にしてイリーナの顔が怒りに染まる。
「ええ! 残念なことに。私の今つけている竜珠。この竜珠の気配を纏うようになるまでは、正妃として認めてもらえないようなのです。でもそれもこうやって肌身離さず身につけていればいずれなるでしょうし、時間の問題だと思うのです」
竜珠の気配を纏わない、竜珠の花嫁。そんなことあるんだろうか。もしかして偽者なんじゃないのか。
だとしたら、私にだってチャンスはあるはず。私には竜珠の気配があるのだから。
睡蓮は一縷の望みをかけながらも、つい意地悪い気持ちになって言ってみた。
「飛竜は竜珠の花嫁を特別視してるようですよ? お時間のある時に竜の巣へ出向いてみてはいかがですか?」
飛竜たちが、喜んで出迎え、空の散歩に出かけることも出来るなら、イリーナを竜珠の花嫁として認めよう。
でも、万が一、飛竜たちが認めなかったら、自分もヴァレリーに対して、イリーナに遠慮せずに真正面から向き合おう。
そう睡蓮が改めて決意を固めながら考えていると。
「竜の巣? ああ、飛竜って遠目でしか見たことがないけれどあんなグロテスクな生き物、近くで見ようなんて思ったこともないわ」
心底嫌そうな顔をしてイリーナが言い捨てる。
…やっぱり。ヴァレリーの竜化した姿を見ていたらそんなセリフは言えないはず。
睡蓮は確信した。
イリーナは偽者だ。




