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どのくらい、時間が経っただろうか。
睡蓮はモンターク家の自室で鏡の向こうに映る自分の顔をずっとにらみ続けていた。
正確には、鏡の向こう側から時折自分に話しかけてくる自称竜珠に向けてだけれども。
「そろそろちゃんと話をしましょう」
そう言ってしばらく黙っていると、やがて鏡の中の自分の顔が勝手に動き出した。
―――話?
「私はあなたが何したいのか、さっぱりわからない」
睡蓮が怒りを含んだ声音で返事をすると、鏡の向こうの自分の顔が半目になってそっぽを向いた。
―――私は別に何もしたいと思ってない。ただ、睡蓮とヴァルの気持ちがわかるから、本当はこうしたいって思ってることを現実に起こるよう手伝ってるだけ。
「ヴァルが近づいただけで私が倒れたのもあなたの仕業よね?」
―――彼が近づいてきたとき、あなたが怖いって思ったから拒絶しただけよ。
「これからは勝手なことしないでほしい」
―――じゃあ、あなたは本当は何がしたいの?
「……っ」
睡蓮が返答に詰まっていると、いつの間にか鏡の向こうの顔は自分の顔に戻っていた。
また逃げられたという気持ちになり、大きく溜息をつく。鏡を一瞥し、のろのろとソファに座り込んで目をつむる。
真正面から自分は本当は何がしたいかと問われ、元の世界に戻りたいと即答できない自分に気づいた。
ここでの生活は仮の人生で、早く元の世界に戻ってちゃんと自分の生活を取り戻さないといけないってずっと思っていた。
けれど自分を取り巻く環境は、流されることは多々あっても元の世界よりはずっと優しく、このままこの世界に居続けてもいいかもしれないと錯覚してしまいそうになる。
特にヴァレリーに関しては、嘘とはいえ竜珠の花嫁として特別扱いされている自分に、何か傲慢な気持ちが生まれているような気もしていた。
そういったしがらみを全部取り払って今後のことを考えなくては、と改めて気持ちを引き締める。
そう。覚悟を決めるために、ちゃんと話をしなくちゃ。
**********
「…というわけで、ヴァルに取り次いでほしいの。アビーなら騎士団の稽古の時にでも、さらりと話が出来るでしょ?」
夕飯が終わった後、サロンでお茶を飲みながら睡蓮がヴァレリーとの話し合いを持ちたいとアビゲイルに持ち掛けた。
睡蓮が仮の花嫁候補だとしても、城に赴けばすぐにヴァレリーに会えるというわけではないからだ。
独身の女性が竜騎士団の団員に気軽に約束事を取るのはそう容易いことではないのを、モンターク家に来てから教わった。
この世界では女性から行動を起こすことに対してあまり寛容ではないようで、特に貴族クラスの独身の男女が二人きりで話すことは憚られているような風潮があった。
手っ取り早く話をすすめるにはクレールに頼めばいいのだけれど、男性恐怖症のフラッシュバックが起こるようになってしまった今の睡蓮にとって、アビゲイルにそっくりな容姿のクレールですら近寄るのが怖い。
「あの? アビー?」
話を持ち掛けた後、アビーはしばらく目を見開いてじっと睡蓮を見つめていたが、やがてはっと我に返って前のめりに身を乗り出してきた。
「…いや! レン、今までの失礼な発言、ほんとにごめん! 知らなかったとはいえ私は無神経なことを言い過ぎた」
アビゲイルががばっと頭を下げる。
公爵家の子女がむやみやたらに頭を軽々しく下げるものではないと、ミセスジョーンズからしつこく教育されていたため、睡蓮は慌ててアビゲイルの肩に手を置いた。
「ちょっ、ちょっと待って、アビー。私、怒ってないから謝らなくていいんだよ」
「でも…!」
「黙ってた私が悪いの。本当のことを言っても信じてもらえないって最初から諦めてたから」
睡蓮が自嘲気味にそう言うと、アビーは小さく溜息をついた。
「…確かに。最初から打ち明けられてても、にわかには信じられなかったかもしれないな」
「でしょ? でも本当のことを知ってもらえて気持ちが軽くなったような気がする。嘘をつきとおすのは心が苦しいよ。私はいろんな人に嘘をついてきたから」
そう言いながら、初めてこの世界で知り合ったダフネやアルマンドの顔を思い描く。
あの人たちにはとても親切にしてもらったのに、嘘を塗り重ねたまま別れてしまった。いつか再会したときに、ちゃんと本当のことを言える時が来るんだろうかと切ない気持ちになる。
「あとね、とっておきの内緒にしていたことがあるんだ。これはクレールさんも知らないことなんだけど」
睡蓮はそう切り出してから、自分が別の世界からやってきたことを告白した。
アビゲイルは最初こそ眉をひそめていたが、睡蓮が元の世界から持ってきた荷物を見せると目を白黒させて驚いていた。
会社のIDカードの写真にも驚き、中でも電源の入らないスマホには興味津々だった。
スマホの電源が入れば中に残していた写真を見せることができるのに…と歯がゆく思うが、ふとあることを思い出してスマホのケースを取り外してみた。
携帯を買い替えるたびに、お守り代わりにと一枚ずつ母親と一緒に写った写真をシールに加工して貼っていたのを思い出したのだ。
まだ睡蓮の母親が元気な頃、一緒に遊園地に行った時の最後の記念写真だった。お城をバックにお揃いのネズミの耳のヘアーバンドを付けて笑っている写真。
ケースの内側に貼られていた写真は日に当たっていなかったため、色あせずに鮮やかなままだった。
「アビー。この人が私のお母さん」
幼い睡蓮の隣で大口を開けて笑う母親を指さして言う。
「立派な城に住んでたんだなぁ、レンは。向こうの世界ではお姫様だったのか」
「え? やだ、違うよ! ここは遊園地。遊びに行くところ」
「そうなのか? それにしてもレンの母君はあの女性にそっくりなんだな」
アビゲイルの言葉に睡蓮も深く頷いた。
王城の広間できれいに着飾ったイリーナを見たとき、涙が出そうになったものだった。
「初めて会ったとき、お母さんが生き返ったかと思ったよ」
「顔立ちはそっくりだけど、表情は全く別物だ」
「うん…そうかもね…」
睡蓮はイリーナと呼ばれている彼女とも、一度はゆっくりと話をしてみたいと思っていた。
母のように優しい人であったなら、ヴァレリーの横に並んでいても悔しくないとさえ思っていた。
「私はレンを応援するよ」
きっぱりとアビゲイルはそう言った。
「ちゃんとヴァレリーと話し合って竜珠の花嫁になってほしいと思ってる」
「アビー…」
「だから、会う約束はちゃんと取り付けるから。安心して待ってて」
睡蓮はアビゲイルの力強い言葉に涙を堪えながら大きく頷いたのだった。
**********
睡蓮は王城の教会の入口までアビゲイルと一緒にやってきた。
大きな扉を開き、長い廊下へ一歩足を踏み入れる。
以前と違うのは音が聞こえるということ。
鳥のさえずる声がするし、時折強い風が吹いた時にガラスの窓がガタガタと揺れる音もちゃんと聞こえる。
今、この教会は魔法陣が引かれておらず、ただの普通の教会だった。
ただ、礼拝堂の方角から圧倒的な強い気配を感じていた。
少しでも気を抜いたら、意識を手放してしまいそうなほど強い気が解き放たれているのがわかる。
それは国王陛下と対峙した時とほぼ変わらないものだった。
「ありがとう、アビー。後は一人で大丈夫」
アビゲイルは長い廊下の先の礼拝堂へ視線を送り、そして再び睡蓮の方へ顔を戻すと軽く睡蓮を抱きしめた。
「じゃあレン、また後で」
そう言ってアビゲイルは笑顔を作って足早に城のほうへと戻っていった。
彼女の姿が見えなくなると、睡蓮は改めて長い廊下を歩き出した。
人の気配とは違う、何か異質な気の巡りを感じるのは初めてだった。
礼拝堂の中に既にヴァレリーがいるのを本能的に察していた。
いつの間に、こんなに人を威圧する気配を纏うようになったのだろう。
覚悟を決めたつもりでヴァレリーと会う約束を取り付けたけれど、いざその時が来たとなると心臓がはちきれそうになりそうなほどバクバクと音を立てていた。
どうやって切り出そうか、どこから話そうか、心臓の鼓動が耳まで響いて考えがまとまらなくなる。
いや、どんなに段取りを練ったとしてもヴァレリーを目の前にして冷静でいられるはずがない。
それに、こちらから会いたいと言うまで何の音沙汰もなかったのだ。
もしかしたらようやく再会できたイリーナに夢中になっていて、自分のことなど忘れていたかもしれない。
アビゲイルが取り次いでくれたおかげで会えることになったけれど、彼にとっては貴重な時間を割いてまで会う価値がある女だとも思われていないのかもしれない。
礼拝堂までの廊下が長い分、良いことよりも悪いことばかり考えてしまう。
ようやく礼拝堂の入口にたどり着き、数か月前には毎日のようにくぐっていた扉の前に立つ。
扉を開ければ、ヴァレリーがいる。
…大丈夫。ヴァルは親切で優しい人だ。
私に根気よく文字を教えてくれたし、ダンスも教えてくれた。
本当に怖い思いをしたのはあの執務室での一件のみ。
竜化しそうになって情緒不安定な時の、ただタイミングが悪かったというだけの話。
誰しもが善人じゃないし、魔がさすということだってある。
自分だって人のことを糾弾できるほど善人じゃない。
…大丈夫。
深呼吸を何度かしたあと、睡蓮は意を決して扉を開けた。




