20
―――…様…リリー様…
時々、まぶたにきらきらと光が差し込み、さらさらと心地よい風が吹いてくる。
このままずっとこうしていたいのに、誰かの声が邪魔をする。
「リリー・ド・モンターク! 起きなさい!」
ミセス・ジョーンズの大きく張り上げた声に、睡蓮はびくっと体を震わせて飛び起きた。
「は…はいっ!」
目の前には笑いを堪えているアビゲイルと、肩を震わせて顔を真っ赤にしているミセス・ジョーンズが立っていた。
「ごめんなさい…」
「…全く、お茶の作法の途中で居眠りするだなんてもってのほかですよ!」
母親ぐらいの年齢のミセス・ジョーンズが呆れた顔で口元を指さした。睡蓮はひざにかけておいたナプキンでそっと口元を拭き、居住まいを正す。
ちょうどよい木陰に置かれた白いテーブルクロスのかかったティーテーブルの上には、お茶菓子と紅茶が添えられている。
辺りを見回すときっちりと刈り込まれた芝生に、少し離れたところには花壇があって色とりどりの花々が咲いている。
なんで自分は屋外のきれいな庭園でお茶をしていたんだろうと考え、段々目が覚めてくると礼儀作法の勉強の時間だったことに気づいて顔が青くなる。
午前中に社交ダンスのステップと数種類のお辞儀や話し方の練習、食後に国の歴史と文化を習い、休憩と称して作法を学んでいる最中にいつの間にか居眠りをしてしまっていたらしい。
「ミセス・ジョーンズ。今日は朝からダンスの新しいステップを習ってくたくたなの。少し休ませていただけないかしら」
アビゲイルが貴族の令嬢口調でそう言うと、ミセスジョーンズは仕方ないですね、とため息をついた。
「半刻ほどでまた参ります」
そう言って屋敷の方へ歩いて行った。庭園の出入り口に護衛兵が立っていて、ミセス・ジョーンズはこちらを向きながら何かを伝えて屋敷の中へと消えていった。
彼女が見えなくなったのを見計らって、アビゲイルがひそひそと話しかけてきた。
「レン、大丈夫か」
「うん、ちょっと疲れちゃったかも」
クレールとアビゲイルの屋敷に来て早2か月が経った。
季節も冬から春に変わり、気温もだいぶ高くなって過ごしやすくなっている。
モンターク家の屋敷についたと同時に仮の名、リリー・ド・モンタークと名乗ることになった。
ヴァレリーはあの後すぐに教会から出られるようになったらしく、睡蓮はお役御免になった。
すぐさま何事もなかったかのように職場復帰というわけには行かないらしく、王都や城内のほとぼりが冷めるまでしばらく北の国境付近の辺境警備に回された。
ヴァレリーが王都を出る際も顔を合わせないまま、今日に至る。
ただ、時々、近況報告の手紙がモンターク家に届くのみで。
「そういやさっきヴァレリーから手紙来てただろ? なんて書いてあったんだ?」
「春からの警備団との引継ぎが終わったから、近々王都に戻ってくるって書いてあったよ」
「他には?」
「? これだけだよ?」
アビゲイルの盛大なため息をつき、天を仰いで唸り声を上げる。
「甘い言葉の一つもなしか! あの男!」
「あはは。この手紙は騎士団の検閲を通してるんだよ? 書くわけないじゃん。私だって普通に近況報告しか書かなかったし」
「そういうものか?」
「そうだよ」
逆に、初めてヴァレリーから近況報告の手紙が届いた時は驚いた。
教会の中では二人きりだったし、周りの上下関係やら何もかもわからないまま話せていたけど、モンターク家に引っ越してきてから貴族のしきたりやら王族のなんたるやを基本から教えられ、ヴァレリーが国の英雄で、本当に雲の上の人の存在だということはこの2か月あまりで十分すぎるほどわかった。
そんな雲の上の存在の人の側室になれ宣言は、周りにばれたら貴族令嬢たちの垂涎の的になること必至だった。
そんな人に抱き付かれたり、キスされちゃったりしたんだよねぇ…。
教会の中での二人きりでいた時のことを思い出すと、顔が赤くなる。
「やーらし! レンってば。思い出し笑いしてる」
「なっ! してないよ!」
「あ。誰か来た」
護衛官の横をすり抜け、一人の女性がこちらへとやって来るのが見えた。
黒髪をアップにして侍女の外出着を羽織ったケイナだった。
「お久しぶりでございます」
そう言い、ケイナはカーテシーという挨拶をすんなりとこなす。
この屋敷に来て初めてならった礼儀作法の一つだった。片足を斜め後ろに引き、もう片方の足を軽く曲げて挨拶をするのだけれど、上品さや優雅さが足りないといつもミセス・ジョーンズに怒られてばかりだったのを思い出した。
「ごきげんよう、ケイナ。ここには今、私たちしかいない。堅苦しい挨拶は抜きだ。今日は何の用だ?」
「はい、では早速本題に入らせていただきます。リブターク候が王都にお戻りになられました。明日、王城にて帰城の祝宴が催されますので、ぜひお二方にもぜひともご出席されますよう」
「そうか。冬の遠征団が戻ってきたから今年も盛大にやるだろうな」
「夜会とは違うの?」
意味のよく分からない睡蓮は、お城でのパーティーを漠然と想像してみた。
「夜会は独身貴族たちが出会いを探す場だ。遠征団が戻って来た時の祝宴は、遠征していた騎士たちを労うものだからそんなに形式ばったものじゃない。でもやっぱりドレスを着て着飾ってやってくる令嬢たちと、話を合わせなきゃいけないからメンドクサイことには変わりない。去年までは私も騎士団側だったんだが、今年からはそうも言ってられないしな」
「…いよいよ、明日が日ごろの成果を出す日かぁ。緊張するよ」
「祝宴の時はエスコートは不要だから、ヴァレリーに会うとしたら会場で直接じゃないかな。ヴァレリーの婚約者だってこと、周りに伝えてないからモンターク家ゆかりの令嬢という肩書でいろんな騎士からダンスの申し込みされるだろう。適当にあしらっておかないとあいつの嫉妬はすごいぞ」
ヴァレリーが嫉妬する姿というのは想像出来ない。なんでもそつなくこなしてしまったり、どこか飄々としたところもあるからだ。
「嫉妬って…。私たち、そんなに仲が良いわけでもないんだよ?」
「でも竜珠をもらってる」
「そりゃ…そうだけど」
でも本当の竜珠の持ち主はイリーナだっていうことは、アビゲイルは知らない。睡蓮に貴族の後ろ盾がないためにモンターク家に養子縁組してヴァレリーの家柄と釣り合うように公爵令嬢の遠縁の娘という肩書をつけるためにやってきたとしか知らないのだ。
「まぁ、とにかくせっかく遠征から帰って来たんだ。労わってやろう」
そういうものなのか…と無理やり納得し、その日は明日の祝宴のために午後の勉強がなくなったことだけが救いだった。
*********
モンターク家の馬車にアビゲイルと乗り込み、城へと向かう。
王城へと向かう馬車の窓から見る街並みは、普段よりもにぎわっているように見えた。
「街もお祭りが行われるの?」
「貴族や騎士団は城で祝宴、城下では一般市民が無事に交代できたことを祝うんだ。辺境地区の警備団は騎士団だけじゃないからな」
公爵令嬢として正装したアビゲイルが事もなげに答える。睡蓮は騎士団と軍隊の違いがよく分からないまま、曖昧に頷いておく。あまり無知なところをアビゲイルに知られたくなかった。
それでなくてもこの国の歴史やら礼儀作法に疎すぎて、一応建前としては異国の民で一部記憶喪失なのだと伝えているのだけど、それをそのまま鵜呑みに信じているようには思えなかった。
金髪を一つにまとめていた時はクレールと双子と思えそうなほど中性的だったのに、きれいなストレートの金髪を緩く編み込んでアップにした髪型、大ぶりの宝石のイヤリングに胸元には小さなダイヤがちりばめられたデザインの中央に大きな青い宝石がセットされているネックレス。上質な生地だと一目でわかるオーダーメードのドレスを着こなしているのを見ると、本物のお姫様なのだと改めて思わずにはいられない。
ただ、帯剣用のベルトを持ってきていて、許されればドレスの上に帯剣するのだと息巻いていた。
自分はというと、モンターク家の侍女たちが一生懸命着飾ってくれたのはよいけれど、着慣れないコルセットが苦しいし、アビゲイルと同じように髪を全部アップにして編み込んであるため、既に頭痛もしている。
大ぶりのイヤリングも頭痛の原因の一つかもしれない。
「今日は騎士団の祝宴だから気楽に…とは言っても、貴族令嬢はいるし、ヴァレリーは貴族令嬢の砂糖菓子になってるだろうから、兄貴やオリバーと一緒にいた方が無難だろうな」
「クレールさんはわかるけど、なんでオリバーさんまで?」
「空と陸の騎士団長だからさ。あ…ヴァレリーが降格したのは知ってるよな…?」
上目遣いに控えめに口に出すが、睡蓮は気にしてない、と首を縦に振った。
いつもと同じように首をふると、頭の上でアップしている髪の重さと遠心力で首に余計な力が入って仕方ない。
「騎士団長二人にヴァレリーがいれば、下手な騎士が近づいてくることもないだろう。今日はヴァレリーの婚約者だってことは伏せておくらしいから、ダンスの申し込みを適当にあしらうのも大変だぞ。ヴァレリーの嫉妬が怖いからな」
「私を誘いに来る人なんているかな?」
「いるに決まってる! レンがキレイなのはもちろん、モンターク家ゆかりの病弱だった深窓のお嬢様って設定なんだからな。ダンスの申し込みついでにプロポーズしてくる輩もいるかもしれん」
「プロポーズ!」
びっくりして大声を出すと、アビゲイルは笑って答えてくれた。
「貴族が恋愛結婚出来るわけないだろう。政治的なものや打算などが絡んで結婚するんだ。自分にとってメリットのある人材が目の前にいればすぐに手に入れようとするだろう」
諦観めいたアビゲイルの台詞に、どきりとする。
教会でのヴァレリーはとても優しかったけれど、彼に打算めいたものはなかっただろうか。
竜珠を持っているというだけで、優しくされている自分は彼にとっての道具でしかあり得ないのかもしれない。
「でもアビーはオリバーさんのことが好きなんだよね?」
「うん、でもオリバーは家柄が釣り合わないから結婚は無理だ。こういう時、自分の名前を心の底から恨めしいと思う」
公爵令嬢は、同じく公爵家の嫡子か、王族としか結婚できないとミセス・ジョーンズが教えてくれたことを思いだす。
幼い頃からそういう立場で育つと、手に入れられないものをあきらめる気持ちも自制できるものなんだろうか。
「で、でもさ、私だってヴァレリーさんの婚約者だよ? この私が未来の王妃になるかもしれないんだよ?」
「ヴァレリーの竜珠は単なるプロポーズじゃないからな。国の存亡がかかってる大事な片割れを、身分違いだから結婚できないなんて断ることは出来ないさ」
アビゲイルをフォローしようとしたら藪蛇だった。
ヴァレリーをなんでも意のままに操れるのは、歩く核兵器のスイッチを自分が持っているということだ。
国を一つ、その身だけで滅ぼせてしまうほどの破壊力を持つ竜に変化して。
改めて背筋が凍る思いだった。
「すまない。祝宴の前なのに重たい話をしてしまった。それでなくても緊張してると言うのに。配慮に欠けた発言を許してほしい」
「ううん。気にしてないから大丈夫」
私はお金をもらって仕事をしてるだけなんだから、とはアビゲイルには言えるはずもなかった。
ふと外を見やると城内へと続く門をくぐっているところだった。
やけに馬車の進みが遅いなと思い窓から前の方を見やると、祝宴会場である建物の入り口で馬車が止まり、中から貴族令嬢たちがゆっくりと降りていくのが見えた。
その後もずらりと豪奢な馬車が並び、自分たちが馬車から降りられるのはあとどれぐらいだろうかとため息をついた。
何より、ドレスが重たすぎるのだ。馬車へ乗り込む時も一苦労だったが、降りるのですら時間がかかりそうだった。
その時、ふわりと森林の香りがしたような気がした。
ヴァレリーが身にまとっていた、湯あみに入れるオイルのすがすがしい香りだった。
その時、コンコンと馬車の扉をノックされ、なぜかヴァレリーが来たんだと分かった。
「どうぞ」
アビゲイルが窓から外を覗き、誰かを確認した後、口を開いた。
かちゃりと扉を開けたヴァレリーは、式典のみ着用するという燕尾服スタイルの騎士団服を着ていた。
いつも教会で見ていた時は前髪を下していたけれど、今日は額を出すように後ろに撫でつけている。
男子が制服を着ると二割増しにかっこよく見えるー! と中学生になったばかりの頃、クラスの女子たちが密かに騒いでいたけれど、ヴァレリーの制服姿はかっこよすぎて何も言えなくなってしまった。
「遅いから迎えに来た」
貴族の挨拶は抜きだ、と言わんばかりに手を差し出してくる。睡蓮はアビゲイルに視線を合わせたが、アビゲイルはにっこりと笑って降りるのを促してくれた。
「リリーを頼む。リブターク候」
公爵令嬢の口調でアビゲイルがそう告げると、ヴァレリーは最敬礼をして睡蓮を馬車からおろし、地面に膝をついて手を差し出した。
「今日という日にお目にかかれて誠に僥倖の限りでございます、リリー様」
これはなんていうミュージカル? と一瞬自分が観客になったかのように反応が遅くなってしまった。
慌てて手を差し出すと、ヴァレリーが指先に口づけてきた。
馬車から降りたら周りの目もあるということで形式ばった挨拶をした後、ヴァレリーは睡蓮の手を取ってゆっくりと歩き出した。
「今日は一段と綺麗だ…睡蓮」
見上げると、優しげに銀色の瞳を細められてヴァレリーが睡蓮を見つめていた。
教会にいた時は色白だった肌の色が、2か月ほど北の辺境地区へ行っていたせいか、日焼けをしてますます精悍な顔立ちになっている。
「ヴァルこそ、日焼けして逞しくなった感じだよ。でも何で北へ行ったのに日焼けしてるの?」
「これは雪焼けだ。雪深いところで仕事をすると、地面の雪が反射して肌が焼けてしまうんだ」
ゲレンデ焼けと同じか…と睡蓮は納得する。
「ダンスのステップは習ったかい?」
「基本的なものはね。難しいのはまだ習い始めたばかりだから無理」
「では後でぜひエスコートさせてほしい」
初めて会った時、教会にいる時と何か雰囲気が違う。どこが違うと言えば、何て言えばいいのかわからないけれど、焦っているような感じがした。
「会わない2か月の間に、何かあった?」
「睡蓮に会えなくて辛かった。出来ることならこのまま屋敷に連れ帰って二人きりで部屋に閉じこもりたい」
歯の浮くような台詞を聞き、腕に鳥肌が立った。二の腕までの長い手袋をしていたため、ヴァレリーには見られずに済んだのが幸いだったけれど。




