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部屋に戻り、アビゲイルは扉を閉めるとおもむろに口を開いた。
「オリバーをどう思う?」
「どうって?」
「や、その、男性としてさ…」
歯切れの悪い言い方をして俯いているアビゲイルの横顔を見ていると、彼女の頬が少し赤くなっているのに気づいた。
「……もしかして……オリバーさんのこと?」
睡蓮がそうたずねると、唇を尖らせながらアビゲイルがまくしたてるように話し出した。
「年が離れてるし、いつも子ども扱いされて相手にしてもらえてないんだ!」
「じゃあ夜会で大人だってこと、教えてあげればいいのかもよ?」
睡蓮がそう言うと、アビゲイルは一瞬はっとした後、すぐにふわりとした笑みを浮かべた。素顔のままで相当きれいな顔立ちなのだから、化粧を施してドレスに身を包んだらどれほどの美人に化けるのか、睡蓮も楽しみだった。
「夜会が楽しみになるなんて不思議だな。これ以上レンを独占していたらヴァレリーが怒るだろう。今日は会えて良かった! ではまたな」
「うん、またね」
アビゲイルが部屋を出ていくと、途端にしんと静かになる。
ヴァレリーが怒るなんてことは決してないんだけどね…と心の中で呟き、支度のためにのろのろとバスルームへ向かう。
ふと洗面所に目をやると、置手紙と化粧水が置いてあった。
―――瞼の腫れに効く化粧水です。ケイナ
彼女の気遣いに心が少しほぐれたような気がした。
化粧水の蓋を開けると、ラベンダーとカモミールが合わさったような優しい香りがした。
*********
自分の荷物を持ち、厨房へ行くとケイナが既に待ち構えていた。
「化粧水、どうもありがとう」
「どういたしまして。もうだいぶ目立たなくなったわよ。今日は私も教会の長廊下まで一緒に行くわ」
教会へ行きたくない気持ちがケイナにも伝わっていたんだろうか。どんな思惑があるにしろ、一人であの兵士たちに会いたくなかったので好都合だった。
帰りは扉を内側からノックをして開けてもらう。いつも恭しくお辞儀をされるのだが、内心では何を考えているのか今となっては十分わかりすぎるのが苦しかった。
早く。早くヴァレリーが教会から出られればいいのに。
兵士たちに扉を開けてもらい、ケイナと二人で中に入ると教会の扉が閉じられた。外の音が遮断され、ケイナが深くため息をついた。
「リブターク候と何かあったの?」
「別に何もないよ」
「…そうかしら? イリーナの有力な情報がまだ見つかってない段階で仲たがいされても困るわ」
仲たがいするほど仲が良いわけでもない、と口から出そうになるのをなんとか堪える。
「ダフネさんたちへの援助をしてもらったから、逃げたり仕事放棄をするなんてことはしないよ」
「レン。私はあなたが本当の竜珠の持ち主なら、私は王を捨て、あなたとリブターク候につくわ」
ケイナがきっぱりとそう言い切った。王を捨てるということはどういう意味なんだろう。
とにかくも彼女には相当の覚悟があるのだという気迫だけは感じられた。
「その…ことなんだけど…さ」
睡蓮は母の形見であるこのペンダントが、今では本当に自分のために準備されたものなのか、確信が持てないでいた。
ハンカチの刺繍のこともある。
「確かにお母さんの形見の品なんだけど、いつどうやってお母さんがこの竜珠を手に入れたのかがわからないの」
「イリーナと知り合いという線は考えられないの?」
ケイナはあくまでもこの世界でのことだと考えている。睡蓮が別の世界からいきなりこの世界へ飛ばされてきたことは彼女は知らない。
ここで伝えておいた方がいいんだろうか。
「お母さんとイリーナさんの接点がどうやっても見つからない。だって、お母さんも私もこの世界の人間じゃないんだもの」
「……え?」
今度こそ、ケイナが驚いて目を見開く番だった。
「詳しいことはまた今度話すよ。ここまでついて来てくれてありがとう」
そう言って、礼拝堂への小さな扉に手をかけてゆっくりと開いた。
「あ、レン…」
ケイナが何か声をかけるが、魔術で覆われている扉は睡蓮がくぐるとすぐに閉じられてしまった。
*********
「……こんにちは」
扉が閉じられたあと、ゆっくりと礼拝堂の方へ体の向きを変えると、ヴァレリーがベッドに腰かけて外を眺めていたが、睡蓮が入ってくるのに気づくとすっと立ち上がり近づいてきた。
ヴァレリーの顔はいつもの顔に戻っていた。指先の鋭くとがった爪も皮膚に浮かび上がっていた黒い鱗の名残は見えない。
「来てくれてありがとう」
感情のこもらない抑揚のない声でそう言うと、バスケットを受け取りテーブルの上に置いた。
睡蓮は目を合わさずとも、ヴァレリーの方へ顔を少し向けてかすかに頷きながら、テーブルの上に置かれたバスケットの中から昼食を取り出してテーブルに並べ始めた。
視線を合わせなくとも、じっとこちらを見ている雰囲気は察することが出来る。
全く笑みを浮かべていないヴァレリーの顔や雰囲気は、いつもと違う顔立ちの時よりも苦手だった。
こちらから歩み寄る隙も与えないし、向こうからも謝ってくるそぶりも見えない。
気まずいからすぐにでも帰りたいと思うほどだった。
それほどまでに、昨日の側室発言はどうにも受け入れがたかった。
睡蓮には元々父親がいなかったし、母親も10歳の頃に亡くなった。
児童養護施設に入ってからは、両親が揃っていて当たり前の環境の友人たちが羨ましかった。
社会人になって好きな人が出来て結婚したら、つつましくも平凡で愛情あふれる家庭を築こうと心に誓っていたくらいだったのだ。
ヴァレリーが彼なりに睡蓮の王宮内での微妙な立ち位置のフォローをしてくれようと提案してくれたのは頭では理解できる。
でも心が拒否してしまったのだからどうしようもなかった。
「なぜそんなにいらいらしてるんだ?」
は? と眉間にしわを寄せつつヴァレリーを見やると、少し困ったような顔をしてこちらを見ていた。
「してないよ」
「いや、してる。気配がざわついて仕方ない。早く元に戻ってくれないとこちらとしても困るんだが」
その物言いにさすがにカチンと来てヴァレリーに向きあい、顔を上げる。
「あのねぇ!」
「側室の件なら、真面目に考えてみてほしい」
ヴァレリーが思いのほか真剣な顔をして言うものだから、怒りの矛先をどこへ向けて良いのかわからなくなってしまった。呆気にとられた顔のままでいると、彼は少し言葉を選びつつ先を続けた。
「君は元の世界に戻る前提で物事を考えている。だがもし帰れなかった場合は? この世界で生きていくには、次期国王の元婚約者という肩書がついてしまうと普通の生活には戻れない。仕事だって何でもするというわけにはいかない。そんなことをしたら雇い主が罰せられる。自分の意思で好きな仕事にもつけない」
「…じゃあ外国に行く。私のこと誰も知らないでしょう?」
「外国に行くには身分証明が必要だ。誰が君の身分を証明する? クレールの家名を出せばその家名が枷になる。貴族だと分かれば誘拐の危険もあるし、何より古くからの公爵家は醜聞を嫌う」
畳みかけるように告げる内容に、二の句が告げられなくなった。
少しは脅しの部分もあるかもしれないが、ほぼヴァレリーの言う通りなのかもしれない。
考えなければいけないことに目を背けていただけで、真正面から突き付けられるとどうしていいのかわからなくなる。
元の世界に戻れないという選択肢は睡蓮の中にはなかったのだから。
「…世継ぎのために側室を持つ王室はどこにでもある。だから」
「わかった。もういい」
ヴァレリーの言葉を遮りつつ、睡蓮はゆっくりと深呼吸をした。そうでもしないと過呼吸になりそうだった。
「元の世界に戻れなかった場合は、その案を考慮する。次期国王の側室っていう肩書は私にとって、この世界で有利に働くんだよね?」
「ああ。現王にも手出しをさせない」
睡蓮がヴァレリーの顔をじっと見つめていると、ヴァレリーは良い返事を期待している顔で少し首をかしげて見下ろしてくる。
自分のためだと力説してくるヴァレリーの本心がどこにあるのか見えないけれど、睡蓮はその話に乗らざるを得ないような気がしていた。
言葉で返事をするのは何となく言いくるめられているような気がして癪だったので、首を小さく縦に振った。
「…もし…そうなったら、生涯大切にすると約束する」
声が近くなり、ふわりと森林の香りが鼻をくすぐったかと思うと、睡蓮はヴァレリーの胸の中にいた。
「でも、私はすぐにおばあちゃんになっちゃうと思うけど?」
「外見なんて関係ない。君だって俺の別の姿を見ても態度を変えなかっただろう? そうだ、子供を作ったらいい。睡蓮の子供たちがずっとそばにいてくれたら、きっと俺は長い時を過ごすのも苦じゃない」
さらりと寂しいことを言われたが、子供と聞いて睡蓮はびっくりした。
「こ…子供!?」
「そうだ。睡蓮と俺の子だ」
事務的な感じのプロポーズに家族計画まで語られて、全然ロマンチックでもなんともないはずなのに、睡蓮は耳まで真っ赤になるぐらい顔が熱くなった。
「わ、私、お飾りの側室でいいです…」
「それは無理かもしれないな」
額と額を合わせて強引に睡蓮の顔を上に向かせ、吐息のかかる距離で睡蓮を見つめるヴァレリーの目が、少し瞳孔が細くなっているように見えた。
「ヴァ、ヴァル…目が…」
「目が何?」
背中を片手で抱かれ、後頭部をもう片方の手で支えられ、睡蓮は身動きが取れないでいた。
ゆっくりとした動作で瞼に優しくキスをされる。
目を瞑ったまま、じっといていると唇に何度か軽くついばむような触れるだけのキスをされた。
「…拒まないのか?」
からかうような低くかすれた声で囁かれると、睡蓮はぱちりと目を開け、思い切りヴァレリーの胸を押し返した。
これ以上、雰囲気に流されちゃだめだ! と緩くほどかれた腕から離れて頭を左右に振る。
「機嫌が直ったみたいで良かった。睡蓮の竜珠の気配は子守唄みたいで気持ちがいいんだ」
たった今、人にキスをしていた素振りなんて全く微塵も見せずにバスケットの中からサンドイッチを取り出し、水筒からお茶をカップに注ぎだす。
この変わり身の早さは何なの…? と半ば唖然としながら睡蓮はヴァレリーを見た。
ヴァレリーは睡蓮の視線に気づくと、微かに笑みを浮かべた。
「どうした? 早く食べよう」
この人、やっぱり天然のタラシなのかもしれない…と睡蓮は脱力しながら改めてそう思った。
いつの間にか、さっきまでのイライラしたわだかまりみたいなものはだいぶ心の中で小さくなったけれど、消えたわけじゃない。
ヴァレリーの本心は見えない。
元の世界に戻れなかったら、窮屈な城での生活が始まるのかもしれない。
でも、ヴァレリーと一緒に過ごせるのなら、少しは楽しいのかもしれないと少し期待する部分も否めなかった。




