17
お城に着いた後、客間の一室をあてがわれることになった。
20畳ほどの空間に暖炉があり、大きなベッド、ソファ、テーブルやチェストが置いてある。
一つ一つの造りはシンプルだけれど、細かいところにデザインや使いやすさを配慮してあるようだった。
続き部屋への扉を開けると、洗面所となんとバスタブがある。
「お風呂があるんだね、この部屋」
「毎日入浴する外国のゲストのために作られたものよ。レンも毎日入浴する習慣があるの?」
「できれば湯あみじゃなくて毎日入浴したいよ」
「じゃあそのように伝えておくわ。お湯を準備しなくちゃいけないから」
「ありがとう。ところでヴァレリーさんのことだけど、何かあったの?」
「特にないわ。王は竜珠の気配を出来るだけリブターク候の近くに置いておきたいみたい」
素っ気なくそう言い、ケイナが一礼をして部屋を出ていく。扉の向こうでは人が行き交う気配が時々聞こえるぐらいで静かなものだ。
家から持ってきた鞄を部屋の隅に置き、元の世界のものをすべてベッドの上に広げてみる。
ヴァレリーに元の世界のことを知ってもらおうとどれか持っていこうと思ったのだ。
会社のIDカードや免許証。これはブサイクに写ってるから見せたくない。
携帯は電源が切れてるし。
ポーチや文庫本を持っていくのが無難かな、と文庫カバーの裏表紙を開いたときにぎくりとして手が止まった。
手作りの文庫カバーは、母のお手製の刺繍の入ったハンカチをリメイクしたものだった。
いつも目にしていた時はてっきり何かの模様かと思っていた。
四枚葉の紋様のような。
だけど今では。
この国の言葉を、文字を理解した後に見たこの模様は。
『睡蓮』
と、この国の文字で刺繍されていたのだった。
「………お母さん…?」
*********
いくら待ってもケイナが戻ってこない。
仕方ない、一人で行くか、と痺れを切らした睡蓮は部屋を出て厨房へ向かおうとしたけれど、城の中で迷子になってしまった。
赤い絨毯が引かれている豪華な廊下に、壁に飾られている絵画は年代を経ていて荘厳と言っても良さそうだった。
最初のうちは感嘆しながら歩いていたが、誰にも出くわさない。このフロアは外国からのお客を招いたときの客間だとケイナが言っていた。
今は特にイベントがあるわけでもないから、接待する人もいなければあまり来る用事がない場所なんだろう。
とりあえず階段を下りて誰かに道を聞かなきゃと考えていた時だった。
階段の下はリネン室らしかった。複数の侍女たちの声が聞こえてきたので厨房の場所をたずねようと近づいた時だった。
「そういえば今日から、あの部屋に"例の"世話係が住むんでしょう?」
「今朝、私、シーツの交換を命じられたのよ。お世話係って女性なのよね?」
「毎日、教会に通ってるって言うじゃない? あの化け物がいるっていう…」
「化け物?」
「そうよぉ、魔術師が何人も駆り出されて休みなしで封印し続けてるって噂よー」
「えー!? お城にそんな怪物がいるなんて怖すぎるわ」
「しーっ! 誰が聞いてるかわからないから声を小さくっ! お暇を出されてしまうわよ」
その後はヒソヒソ声になり、やがて別の話題に切り替わった。
そのタイミングを見計らって、睡蓮は今初めて来たというそぶりをして声をかけた。
「あの、すみません」
声をかけられた侍女たちは明らかに挙動不審だったが、彼女たちに向かって作り笑顔を張り付け、貴族用の厨房の場所をたずねると、すぐにその場所を教えてくれた。
最後まで笑顔を絶やさず、お礼を述べてその場から立ち去った。
クレールさんが言っていたヴァレリーの良くない噂ってこのことか。
おそらく自分の姿が見えなくなったらまた噂話に花が咲くんだろうな、とげんなりしながら。
今日はいつもより少し寒いから、厨房で温かいスープと紅茶を加えてもらった。
軽食ばかりじゃ体力が落ちそうな気もするけど、本当に大丈夫なんだろうか。
騎士ってお仕事は、体力勝負なんじゃないのかと今更ながらに思う。
本人は大丈夫だと言っていたけれど。
今日は少し荷物が多いから一旦バスケットを下してもう一度持ち直そうとした時だった。
「なぁ、そろそろあの女が来る頃だろう? 今日は遅くないか?」
教会の入口で警備を任されている重装備の兵士たちの声だった。
「そういやそうだな」
「日が暮れるまで、いつも中で何してんだろうな」
「篭絡されてんじゃないのか?」
「はっ! 化け物の慰み者か!」
「最初は生きて出てこれないと思ってたから、まさか無事に出てくるとは驚いたけどな」
あの時、出てきた自分を見て驚いていたのはそういう意味だったのか、と合点がいった。
侍女たちといい、兵士たちといい、結構噂好きな人間が多いな、とますますうんざりする。
「…俺たちがここに配属されたのも、絶対に奴をここから出さないという強い意思があると見込まれてのことだからな」
「そりゃそうさ、俺たちの祖国を滅ぼした化け物がここに封印されてるんだからな。万が一途中で封印が解けたら刺し違えてもいいとすら思ってるぐらいさ」
「おいおい、あまり物騒なこと言うなよ。タレイア様の指示があるまで、俺たちは戦勝国に従順な敗戦国の兵士を演じてなきゃいけないんだからよ」
「なあに、こんな場所に来る奴なんていやしないさ、大丈夫」
初対面の時の印象が悪い理由がようやくわかった。
男性恐怖症だから、重装備の兵士たちが怖いというわけじゃなかった。
ヴァレリーのことを心の底から憎み、化け物と見下している男たちの意思がダイレクトに響いてきていただけだったのだ。
だけど、タレイア様の指示って何のことだろう。
「あー! 重いっ!」
考えていても答えが出ない。わざと大きな声を出して、バスケットを持ち直して兵士たちの前に出ていく。
兵士たちは慌てて姿勢を正して、恭しく礼をして扉を開けた。
「ありがとうございます」
さきほどの侍女たちに向けたものと同じ笑みを顔に張り付け、扉が完全に閉じるまでにこにこと笑顔を作る。
バタン、と扉が閉じる音が響く。全くの静寂が訪れると睡蓮はそこで初めて大きなため息をついた。
ヴァレリーは今後こんなお城で一人、長い時間を過ごさなくちゃいけなくなるのだと思うと胸が痛くなった。
教会の小さな扉を開けて中へ入ると、礼拝堂の中には誰もいなかった。
「こんにちは…?」
誰もいないなんてことはないはず。
奥の小部屋はリネンのストックやバスルームがある。もしかしたらそっちにいるのかもしれない。
「こんにちは、お昼持ってきましたよー?」
一応、声かけをしてベッドサイドのテーブルに昼食を並べはじめる。
手を動かしつつも、刺繍の文字のことや、さっき聞いたばかりの悪意に満ちた噂話が頭の中から離れない。
いらいらもやもやしていると、突然、背後からばさり、とシーツが頭から被せられ、視界が真っ白になる。
「え?」
シーツを取ろうとする手を掴まれ、背後からそっと抱きしめられる。
「どうした? 落ち込んでるように感じるけど」
「うゎ、えと、はいぃ…」
シーツ越しに微かに、湯あみ用の香油の香りがする。すがすがしい森林の香りのような清潔感のある香りだった。
「しばらく目を瞑ってて」
「なん…」
「今、湯あみしたばかりで何も着てないから」
「…!」
「見たければ俺は別に構わないけど?」
「………っ」
からかいを含んだ声音でそう言いながら、布の擦れる音が聞こえてくる。声がかかるまで、シーツを内側から掴んで目を瞑るけれどなかなか声がかからない。
「…着替え、終わった?」
「睡蓮」
ヴァレリーの静かな声が背後からかかる。
「何?」
「シーツを取る前に、心の準備をしておいてくれないか。今の俺の顔は見て気持ちの良いものじゃないから」
ヴァレリーからそんなことを告白され、どんな顔をしているんだろうとゆっくりシーツを取る。
視線を自分の足元へ下したまま、ゆっくりとヴァレリーの方へ体を向けた。
ヴァレリーの裸足の足は、異様に伸びた鋭い爪が生えていて、一瞬、どきりとする。
そして、ゆっくりと視線を上に上げていった。
だらりとぶら下がった両腕の指先は、猫のようにとがった鋭い爪が生えていた。手の甲にも黒い鱗がところどころに現れている。
胸元のあたりまで顔をあげると、タオルを頭から被っているにもかかわらず、水滴がぽたぽたと髪からしたたり落ちていた。
さらに顔を上に向けると、ヴァレリーの顔は普段の精悍で整った顔立ちとは全く異なっていた。
瞳孔がワニのように縦長になっていて、両方の目尻には黒いエラのような模様が浮かび、口元は耳元まで裂け、鋭い牙が上下から生えている。
睡蓮が顔のパーツをひとつひとつ見ていく間、銀色の瞳が時折気まずそうに目をそらしながらも、睡蓮の言葉を待っているかのように再び睡蓮へと戻ってくる。
「…かがんで」
「え?」
「いいからかがんで。髪、拭かなきゃ」
少し強めに言うと、ヴァレリーが目を瞑り、おずおずと背をかがめた。目の前に顔が近づいてくる。睡蓮は両手でタオルの上からヴァレリーの髪をごしごしとふきはじめた。
タオルで髪を拭いているうちに、胸の底から何かがこみ上げてくる感じがした。
人じゃない姿に変わってしまったり、こんな誰も来ないところへずっと閉じ込められていたり、八つ当たりをするわけでもなく、こちらが落ち込んでいる時には慰めてくれたりするのに。
さっきの侍女や兵士たちの心ない中傷する噂を耳にしたからかもしれない。
私が人攫いに拉致された時、この顔で城内を歩き回って助けを求めたんだろうか。周りの人たちにどんな顔、態度をされたのか想像するのが辛いほどだった。
クレールさんが私に一言いいたくなる気持ち、今ならすごいよく分かる。
この人は、こんなにも優しいのに。なのに。
いつの間にか、視界が涙でぼんやりと見えなくなっていた。
嗚咽をこらえようと、髪を拭く手が止まり体が強張る。ヴァレリーが終わったのかと思って顔を上げた瞬間、目があった。
涙でぐちゃぐちゃの顔を見て、ヴァレリーは驚いた顔をしていた。睡蓮はタオルを掴んで自分の顔を隠すが、今度は嗚咽が止まらなくなった。
「うぅ…っく…うぇ…ひぃ…いっ」
「―――ごめん。こんな顔、怖くて見たくなかっただろう」
睡蓮は首を横に振るだけで、嗚咽を漏らすぐらいしかできなかった。
自分がここに少しでも長くいるだけで、彼の心が穏やかになるならいくらでも協力して居ようと思っていた。
でもそれは驕った考えだった。
自分の方こそ毎日ここへ来て、ダフネたちでは埋められない寂しい気持ちをヴァレリーと過ごすことで紛らわせて、彼に救われていたんだ。
ふいに、ヴァレリーの胸の方に抱き寄せられる。手のひらでゆっくりと背中をさすられると、余計に涙があふれてきて止まらなくなった。
ヴァレリーのいつもと違う顔なんて、ちっとも怖くなんかない。
言葉でそう言うのは簡単だ。でもそれよりも態度で示したかった。
おずおずとヴァレリーの背中に手を伸ばして抱き付くと、一瞬、彼の体が身じろぎをしたけれど、すぐに両腕に力が入ってしっかりと抱きしめなおされたのだった。




