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ダフネたちの家の前まで戻って来ると、肉を焼いている良い匂いが漂ってきた。
今日の夕飯は何だろうとウキウキしながら玄関の扉を開けると、ダフネが満面の笑みを浮かべて出迎えてくれた。
扉を開けると暖かい空気や美味しい料理の匂いが鼻をくすぐり、優しい人たちが出迎えてくれる。
いつもこの家に帰ってきた瞬間、こういう家庭を作りたいと心の底から思うのだった。
「おかえり、レン! 今日はごちそうだよ!」
「わぁー! 何か良いことあったんですか?」
「アルマンドが職場復帰することになったんだよ。何でも入ったばかりの新人がすぐに辞めちゃってね、戻ってきてくれないかって声がかかったんだ」
それを聞いた途端、思わず笑顔が引きつった。やっぱり王様が裏工作していたんだと確信しつつも、喜んでいるダフネたちの気持ちに水を差すようなことはしたくない。何も知らない振りをして、一緒に職場復帰を祝った。
食後のお茶を飲んでいる時、ダフネがまじめな顔をして話を切り出した。アルマンドも心持ち、気まずそうな顔をしている。さっきまで和やかな雰囲気だったのに何だろうと睡蓮はダフネの次の言葉を待つ。
「今日、黒騎士様のお使いの人が見えてね、今までレンがお世話になったという理由でお礼を申し出られたんだよ。私たちは要らないって強く断ったんだけど、どうしても受け取ってくれないと屋敷に帰れないっていうんで…仕方なく受け取ったんだ」
アルマンドがソファに後ろに隠していた皮袋を取り出し、ぐるぐる巻きになっている紐を解く。中から沢山のお札が見え、睡蓮も唖然とした。
「過ぎたお金はわしらには不要だよ。これはレンが受け取ってくれ」
「そんな! お世話になってるんだから受け取ってください」
自分のお金ではないけれど、一時でも仕事を辞めさせられたという迷惑料として受け取って欲しいと思っていた。
何度かのやり取りで、睡蓮もお小遣いとして幾らか受け取るからとようやく受け取ってもらえることになった。
やがて夜も更け、自室に戻ろうとした時に、ヴァレリーに教わったお休みの挨拶をした時だった。
アルマンドは飲んでいたお茶を吹き出し、ダフネはあらあら、と照れ笑いを浮かべた。
「あれ? お休みの挨拶じゃなかったですか?」
「お休みの挨拶だよ、でもね」
恋人同士が夜、お別れをする時の挨拶なんだよ。
その挨拶を言うのは黒騎士様にだけにしておくんだよ。
それ以外の男の人に言う時は、淋しいから誘ってるっていう意味にとられるからね。
ダフネにそう教えられ、顔を赤くさせながら部屋に戻る。ベッドにつっぷしながら今日の教会でのやり取りを思い出すと、また顔がゆでだこのようになってしまった。
これから毎日どうやって接していけばいいのか距離感がつかめない。
がばっと飛び起き、ペンダントを外して硝子のキャンディポットへ手を伸ばすと、ランプの灯りで硝子のふたに何かがうっすらと彫られているのが読めた。
今まで文字と認識していなかったから気づかなかっただけで、唐草模様のようなデザインの文字だった。
「…何て読むんだろう?」
デザインの仕事をしていた睡蓮は、一見模様のように見える文字がなんて書かれているのか興味を持った。
ノートを取り出して、同じように真似て書いていくと、ふと何かに似ていると思い出す。
何だったか。元の世界でいつも目にしていたものと似ているような。
考えても思い出せなくてもやもやするのも気持ち悪かったので、ランプの灯りを消してベッドの中に潜り込んだ。
明日、雑貨屋さんに寄ってお金を払ってからお城へ行こう。
そう考えながら、いつの間にか眠りについたのだった。
*********
城からの迎えの馬車が来る前に雑貨屋へとやってきた。
通りに面した窓から中を覗くと相変わらず店内は薄暗く、老いた店主は温かいお茶をすすりながら、ゆったりと新聞を読んでいた。
「こんにちは、おじさん」
扉を開けるとカランコロンと可愛らしく鉄の鈴が鳴った。老いた店主は眼鏡をかけなおしながら扉の方へ顔を向ける。
「やぁ、こんにちは、レン。」
「この間のキャンディポットのお代を払いに来ました」
「おや、律儀だねぇ。でも本当にお代はもうもらってるからいいんだよ」
「ううん。あと、聞きたいことがあって。おじさん、この文字なんて書いてあるか読めますか?」
硝子の蓋を店主にそっと手渡すと、店主はランプの灯りに蓋を透かしながらしばらく何度も角度を変えたり、手を伸ばして遠くから見たりして、もごもごと呟いていた。
「これは…イリーナと書いてあるね」
「…イリーナ…?」
比較的、よくある名前なんだろうか。
ヴァレリーがイリーナさん宛にこのキャンディポットを購入していたら、部屋で見た時に気づいたはずだ。
何も言及されなかったということは、別人が購入したもので。
イリーナさんが失踪したということは、もしかしたら別の男性と駆け落ちしたのかもしれないのだ。
こんな下衆な推測なんかあてにならず、全くの別人ということもあり得るわけだけど。
「あのっ! 誰がお代を払ったのか教えてもらえますか?」
睡蓮が食い下がってたずねると、老いた店主は首をかしげながら、名前は何だったか…と記憶を辿っているようだった。やがて、昔の帳簿に名前が残っているはずだと思い出すが、何しろ昔のことなので今度来る時までに調べておくよ、とだけ言われてしまった。
仕方ないので、今日の新聞を数種類、量り売りのキャンディを少しとクッキーやチョコレートを買い、ヴァレリーへのお土産にすることにした。
家に戻ると、既に迎えの馬車が来ていた。いつもは御者しかいないのに、今日はケイナも来ていた。
「毎日顔を合わせてるけど、こうやって話すのは久しぶりな感じね、レン」
「どうしたの、今日は」
また何か企んでいるのかと構えてしまったためか、心なしか声が少し固くなってしまった。その声のトーンに、少しばかりケイナの顔に陰りが見えたのは気のせいだったかもしれない。
「このお家にあるレンの私物を今すぐ全部まとめてくれる? 今日から城に滞在してもらうことになったの」
「え!? 今日から!?」
驚いて思わず大きな声が出てしまった。お茶を出そうとしていたダフネもそれを聞いて動揺し、スプーンを落としてしまう。
「教会の件で話があるの」
ケイナはそれだけ言うと、睡蓮の返事を待った。教会という単語で、ヴァレリーのことだと暗にほのめかしている。
「わかった。すぐ準備する」
「詳しくは道中話すわ。ダフネさん、急ではありますがご了承ください」
ケイナには少し待っていてもらい、ダフネと二階にあがって荷物をまとめることにした。
「レン。お城に行かなくちゃいけないだなんて…何だか大事に巻き込まれてるんじゃないかい? あたしゃ心配だよ…」
革の旅行カバンを開き、洋服や小物をどんどんと入れていきながらも、二人は小声で話していた。
「大丈夫です、ダフネさん。ケイナは私の侍女になる予定の女性なんです。それに今はヴァレリーさんもお城に滞在しているので結婚式の予定とか色々準備があるんだと思います」
「そうかい…? それならいいんだけど。あ、そうだ。ちょっと待っておくれね。お前さんを見つけた時に着ていた服や荷物を預かっていたんだ」
ダフネが部屋を出ていき、夫婦の寝室へと消える。
荷物、と聞いてどきんと心臓が跳ねた。
そうだ。気づいた時には元の世界の服や荷物が手元になかったからすっかり忘れていた。
ダフネが持ってきた洋服と自分の通勤バッグを受け取ると、中に何が入っていたか確認する。
お財布に電車の定期、電池の切れた携帯、化粧ポーチ。会社のIDカードや手帳が入っていた。
読みかけの文庫本まである。
まだそんなに昔のことじゃないのに、思わず鼻がつんと痛くなる。
「すっかり忘れていてごめんよ。レンの荷物はこれで全部だから」
ダフネの声が少し震えているのに気づき、彼女の顔を見やる。ダフネは鼻を赤くさせ、涙ぐんでいた。
「すっかり家の娘みたいに思っていたのに、またいなくなっちゃうなんてね。アルマンドが仕事から帰ってきたらがっかりするね」
「私の方こそ、短い間でしたがどうもありがとうございました…」
「いつでも顔を見せに帰って来たっていいんだからね、ここはレンの家なんだから」
ダフネの優しい言葉に涙ぐみながら二人でしっかりと抱き合った後、旅行鞄一つに収まる自分の私物を持って馬車に乗り込んだ。
角を曲がるまでずっと手を振ってくれていたダフネに睡蓮も手をずっと振って応えた。
やがてダフネの姿が見えなくなり、馬車の中はケイナと二人きりになった。
窓から顔を出していたため、髪がぐしゃぐしゃになってしまったのを手櫛で梳かしながら何となく声をかけられずにいた。
「レン。あなたはこれからツェベレシカ人の名前に改名し、時期を見てリブターク候の婚約者になる」
「替え玉だからね。そのくらいは良いよ、別に」
「イリーナ探しもこれから大々的に始まる。あなたを婚約者として発表する前にイリーナが見つかれば、あなたはお役御免になる」
「そしたらますますラッキーじゃない。私はお金をもらって何もせずにさよならできるんだもの」
「そんなこと、あの王が許すと思う?」
え? とケイナの方を改めて見やる。彼女は真剣な顔つきで睡蓮を見つめていた。
「あなた、消されるわ。確実に」
ごくりと唾を飲み込む。ケイナの言った言葉が脳に届いて意味を正確に理解するまで数秒かかったかもしれない。
「え?」
「国家機密を知られて、そのままはいさよなら、なわけないじゃない。消されるか、良くて一生お城の地下牢で軟禁よ」
ケイナの物騒な物言いに、睡蓮は指先が冷たく冷えていくのを感じていた。
元の世界に帰してもらえる、と早合点してしまっていたけど確約したものじゃない。
最悪のケースも考えなきゃいけなかった。
なのに、期待を持たせるようなことを言われ、藁にもすがる思いで飛びついてしまった自分の浅はかさを恥じた。
「そうならないよう、私も打つ手を考えてる。イリーナが見つからなければそれに越したことはないんだけど」
ケイナの言葉に睡蓮は怪訝な顔を向けた。なぜ、王の下で働くケイナがここまで親身に考えてくれるのか甚だ疑問だった。
「どうして、そんなに親切なの? 王様の家来なんでしょ?」
「立場的にはね」
含みを持たせた言い方をする。ケイナは微かに笑みを浮かべた。本当の心の内を見せない笑み。
「誰の耳にも入らないように話すには、封印された教会内部の長い廊下とこの馬車の中しかないと思って」
「いきなりそんなこと言われても」
「ええ、信じられないのも無理はないわ。信用してくれとも言えない」
ケイナはそう言った後、窓の外へ顔を向けて城に着くまで何も話さなかった。




