15
「嘘ついててごめんなさい。私、この世界の人間じゃないの」
それから睡蓮は、自分が日本という国の東京で生まれ育ったことを話しだした。
小さい頃は母と後見人である老婆と一緒に暮らしていたが、相次いで二人を亡くした後は一人で生きていくには幼すぎたため、児童福祉施設で18になるまでお世話になったということ。
こちらの世界にやってきたのは、住んでいるマンションの前の階段から滑り落ちたのがきっかけだったということ。
ダフネやアルマンドは素性の知れない睡蓮を無償で世話してくれているということ。
アルマンドが仕事をクビになり、路頭に迷いそうになったため、ヴァレリーからの頼みごとを承諾することにしたということ。
ヴァレリーが国王になり、正妃のお披露目が終わったら元の世界に戻してくれると約束してくれたということ。
一気に話し終わった後、ヴァレリーは何も話さない。いきなりこんなことを言ってすぐに信じてもらえるとは思っていなかった。もし自分がこんな話をされてもすぐには信じられないだろうと思う。
「証拠もないのにこんなこと信じろって言ったって無理だよね」
罵倒されるかもしれないと思い、自嘲的に笑いながら無意識のうちに身を守るようにして両腕をかきいだいた。怖くてヴァレリーの顔を真っすぐに見られない。
「お祭りの夜、一人になって少し頭を整理したかった。あんまりにも色々流されすぎてて、自分で選択している感触がなくて嫌だったの。でも私の浅はかな行動で今、ヴァルはここにとどまらなくちゃいけなくなった訳でしょう。そのことについては謝ります」
俯いたままそう伝えると、不意に頬に手をそえられて体がびくりと反応する。
「謝らなくていい。俺がここにいるのは自己責任だ。それに、君が無事で良かったと本当に思ってるから」
そう言うヴァレリーの声は優しく、労わる気持ちであふれているようだった。睡蓮は頬が熱くなるのを感じながらも恥ずかしくてヴァレリーの顔を見られない。
ヴァレリーは体を起こし睡蓮の横に腰かけると、そっと自分の胸の方へ引き寄せ、抱きしめた。
腕の中で睡蓮が少し身じろぎするけれど、少し力を入れれば腕の中から抜け出せるぐらいにしか力を入れていない。
背が高い彼女のはずなのに、自分の懐の中に入った彼女はなんて華奢なんだろうと驚く。
体が少し震えているけれど、本気で嫌がっているなら振りほどけるはずだ。
「もう一つ質問がある。君の母上の名前は?」
「お母さんの名前は真珠。生きていたら46歳になってたよ」
赤金髪に緑の瞳を持っていた母は、病に倒れるまでは明るくて元気があって人魚姫の主人公のような外見だった。
「…そうか。王は君の母親がイリーナだと決めつけている節があって、13年前に亡くなったと言っていた。でもイリーナが失踪したのは10年前なんだ。それに王は君に何か妙な気配があると言っていた。もしかしたら君の本当の年齢はまだ10歳の子供で、魔術で外見を大人にしているのかと思ったんだが」
そっと睡蓮の頭の上に顎を乗せると、耐えきれなくなったのか真っ赤な顔をして体から離れる。
「そんなことあるわけない。私はれっきとした大人です。嘘なんかついてない」
「その割には男慣れしてないみたいだったから、子供なのかと思うのもおかしくないだろう?」
「…私は不用意に触られるのが苦手なだけ。ヴァルは女に不自由してなさそうだもんね」
「28の正常な男だからな。それなりに」
「それ、いらない情報よ」
「あはは、可愛いな、睡蓮は」
ヴァレリーが軽く笑いながら素直な感想を言う。普段人形のように無表情に近いヴァレリーが笑みを浮かべていることに驚き、それがとても睡蓮の心を震わせた。
「信じるよ」
ヴァレリーは優しく、はっきりと言い切った。
「話の内容はよくわからないところもあったけどね。ただ、王の言うことは少し引っかかる。元の世界に戻る方法があるなら、俺もここから出られるようになったら探してみよう。何もあいつの交換条件に乗ることはないんだ」
王のことをあいつと呼ぶ。クレールも狸ジジイと不敬罪にも問われそうな言い方をしていた。睡蓮はこの親子には何か溝があるんだと感じたが、あえて何も言わなかった。
「でも婚約者の振りをしてもらいたかったんじゃないの?」
「それは俺の都合さ。竜珠を手元に置いて監視しなくてはという気持ちがあったから、あんな無茶な頼みごとをした」
「竜珠…」
睡蓮はペンダントの金具に手を伸ばして外すとヴァレリーの手のひらに乗せた。
「これがあるとヴァルの弱点になるんでしょう?」
未来の誕生日カードと、ビロードのケースに入っていた黒真珠のペンダント。それを受け取った時のどうしようもない喪失感を思い出しながらも、睡蓮は意思を強く持って言った。
「婚約者の振りをするのはやめない。でもヴァルが持っていた方がいいような気がするから返すよ。そして、本当の持ち主であるイリーナさんを見つけたら渡してあげて」
そう言った直後、ヴァレリーの銀の瞳から涙が急にぽろぽろと零れ落ち始めた。
「え?」
どちらが発した言葉か、二人とも発したのか。
ヴァレリーも涙の理由がわからないようで混乱していた。
「何で涙が?」
シャツでぐいっと涙をぬぐいつつも、頬を涙がとめどもなく流れる。
―――やだやだ、睡蓮たら。ヴァレリーに返すだなんて言わないで。
頭の中にいつかの子供のような声が響いた。
「…誰?」
睡蓮が周りをきょろきょろと見渡すが、この建物の中には二人以外、誰もいないはずだった。
―――睡蓮、竜珠はあなたが持っていて。ヴァレリーなんかに持っててもらいたくない。あいつだって返すって言われて泣いてるじゃないの。
「じゃあ私が持ってると言えばいいの?」
「睡蓮? 誰と話をしてるんだ?」
涙を拭きながらヴァレリーが問う。彼にはこの声が聞こえていないようだった。
「ヴァル。やっぱり私が竜珠を持つことにする」
睡蓮がそう言うと、ぴたりとヴァレリーの涙が止まった。彼自身も戸惑っていて、どうしてなのかがわからないようだった。
泣いて鼻を赤くさせたヴァレリーが困ったような顔をする。
精悍な顔立ちをした男性の無防備な泣き顔って、ひどく母性をくすぐるものだな…と睡蓮は内心そう感じていた。
イリーナが見つかるまで。正妃のお披露目が終わるまで。
無表情な時が多いけど、実際はいろんな感情を持っている。ものすごく怖い時もあるけど実は優しくて、物を教えるのがとても上手で。
落ち込んでる時には軽口を叩いて、気持ちをあげてくれたり。
さっき抱きしめられたときも嫌じゃなかった。背が高い私をすっぽり包めるぐらいの広くて厚い胸、しなやかな筋肉のついた長い腕にどぎまぎした。
こんなに魅力的な人、今までに会ったことがなかった。
役目が終わった時に、自分は果たして笑顔でお別れが出来るだろうか。
ヴァレリーがイリーナと二人で仲睦まじくしている姿を平常心で見られるんだろうか。
「ヴァルが返してほしいと思うまで、私が預かることにしたから」
「? 意味が分からない。説明してくれ」
「私にもわかんない。でもそうすることにしたの」
それでいいんだよね? と心の中で独り言を呟いてみる。さきほどの子供のような声は聞こえてこなかったけれど、風鈴のような小さな鈴がなるような音が聞こえたような気がした。
*********
気を取り直して昼食を取り、文字の勉強を再開しようと絵本を広げる。
だいぶ勉強したからかすんなりと文字が読めることに気づき、睡蓮は辞書を広げた。
意味がわかるわからないは横に置いといて、どのページの文字も普通に読めることに気づいた。
「ヴァル。もう私、文字の勉強をしなくてもいいみたい…!」
「じゃあこれからは図書館でこの国の歴史書を借りて読んでみるといい」
耳元で囁かれる低い声がくすぐったい。
ベッドの端に座りながら、いつの間にかヴァレリーに背後から抱きしめられている姿勢になっていて、睡蓮は心臓が飛び出しそうになるほど恥ずかしい思いをしていた。
「あの、ヴァレリーさん。ちょっと近づきすぎじゃないです?」
「婚約者の振りをしてくれるんだろう? これくらいのスキンシップは慣れてくれ」
「それは第三者がいる前での話で、今ここで振りをしなくても」
「じゃあ言い方を変えよう。さっき気づいたんだが、睡蓮に触れていると竜の気が落ち着くんだ」
「竜の気が落ち着く?」
「人の姿を安定して保てるってことさ。睡蓮の持つ気配は子守唄を聞いているように優しい。ずっとこうしていたい」
そう言って軽く頬ずりをしてくる。
この人、無意識で天然なのか、それともたらしの策士なのか。
どちらでも構わないけど、雰囲気に流されたらだめだと厳しく自分に言い聞かせる。
そうだ。大型犬に懐かれていると思えば。
「そ、そうだ。貴族のマナーってどんなことを覚えればいいの?」
「そうだな。普段の振舞としてはお茶会の礼儀作法に挨拶の仕方くらいじゃないか? 夜会に出るならダンスも踊れるようにしておかないといけないし」
「ダンス…。私、夜会に出なくちゃいけないみたいなの。クレールさんの妹さんが夜会デビューする時に一緒に…」
「あのアビーもそんな年頃になったのか」
ヴァレリーが思い出し笑いをしながら、別の女性の名前を口にする。
それだけで少し胸が痛くなるなんて、私はかなりヴァレリーに惹かれているという証拠なんだろうか。
「じゃあ、その時の睡蓮のエスコートは俺がしよう。その時に婚約発表をしたっていい」
「ええっ。初めてだから地味に壁に張り付いていたいよ。雰囲気だけ味わいたい」
「だめだよ、次期国王の正妃が壁の花だなんて許されない」
「えー!」
「大丈夫、わからないことはすぐにフォローするから。そうだ、今からダンスの練習をしよう」
ぱっと背中から離れた時、ちょっと寂しいと思ったのもつかの間、両腕を引っ張られてベッドから立ち上がる。
「ダンスの経験は?」
「…学校で習うフォークダンスレベルよ…」
背が高いというだけで女性側じゃなく、男性側で踊らされた苦い過去を思い出す。
「フォークダンス? なんだそれは」
「…説明したくない。あれは経験なんてもんじゃないから」
ヴァレリーが鼻歌を歌いながら、軽やかにダンスを教えてくれる。
いつも男性側しか踊ったことがなかったから、男性にリードされて踊るダンスがとても楽しくてずっと踊っていたい気持ちになる。
「ダンスって楽しいのね!」
「それは良かった」
ヴァレリーが喉が渇いたというので、少し休憩を取ることにした。
歌を歌いながら、ステップを指導していたのだから、相当喉が渇いていただろう。
「そういえば、私がお昼を持ってくる以外、ご飯はどうしてるの?」
「食べてないよ。戦場に行くときは一日一度しか食べられない時もある。普段からそういう訓練を受けているから気にしなくて大丈夫」
「ええっ!? 気にするよ! ここにはキッチンとかないの? それとも一度厨房に戻って夕飯を持ってこようか?」
「そんなことをしていたら、家に帰るのが遅くなってしまうよ」
「そ、そうだね…」
「それにこの調子なら、あと1週間もすれば封印を解いてもらえるだろうから心配ないよ」
以前は3か月くらい閉じこもっていたから。
軽い口調でヴァレリーが言う。
この建物は、ヴァレリーを封じ込めるために10年前からこういう使い方をするとケイナが教えてくれた。
10年前には一体何があったんだろう。
一つの国を滅ぼし、ツェベレシカ王国に勝利をもたらした英雄と称えられている反面、ここに閉じ込められなくてはいけないほどの何か。
それはイリーナさんの失踪と関係があるんだろうか。
日が傾き、そろそろ帰る時間が迫ってきた。
後ろ髪を引かれるような名残惜しい雰囲気になりつつも、ヴァレリーはバスケットを持って扉の前まで見送りに来てくれた。
「気を付けてお帰り。今夜、睡蓮に安らぎの眠りが訪れますように」
「ヴァルにも今夜、安らぎの眠りが訪れますように」
睡蓮がそう言うと、ヴァレリーが少し屈んで睡蓮の頬に軽く口づけをした。
「…!」
扉が閉まる寸前、ヴァレリーの優しい笑顔が垣間見れた。
パタンと扉が閉まり、睡蓮は心臓がドキドキするのを実感しながら頬に手を添える。
キスされることは何も初めてじゃない。
でも、自分が小さな女の子のようになって、長身の男性が屈んでキスをするシチュエーションは初めてだった。
「心臓に悪い…」
こんな調子で、ちゃんと役目を務めあげられるんだろうかと少し心配になってきたのだった。




