12
王室御用達の馬車に揺られて、ダフネたちのいる家に向かう。
窓から外の景色を眺めながら、王との会話を反芻する。
話の最後に言われた言葉がずっと耳に残って離れない。
―――ヴァレリーの婚約者をうまく演じられることが出来るなら、元の世界に戻れるように配慮しよう。
魅力的な申し出だった。どうやって帰れるのかこれから探そうとしていた矢先の言葉に、藁にもすがりたい気持ちでいっぱいになった。
出来ることなら今すぐにでも帰りたい。
でも、ヴァレリーが国王になり正妃のお披露目が終わるまではだめだという。
おまけにヴァレリーがあの教会にいる間は、毎日一度は教会へ足を運んでほしいと、お願いと言う名の命令を言い渡された。
正直、教会の扉の向こうで初めてヴァレリーの別の姿を見た時はティラノザウルスが見下ろしているのかと思った。
博物館で見る恐竜の化石みたいな迫力があって、自分なんて一口で食べられてしまいそうなくらいに大きな口だった。
得体の知れない怪物を見て最初は怖かったけど、でもそれよりも男たちに拉致された時の方がよっぽど怖かった。
ここで食べられて終わる一生なのかも、と瞬時に覚悟を決めたぐらいだ。
まさか、ティラノザウルスがヴァレリーになるとは思いもよらなかったけれど。
姿は大きくて不気味だったけど、ヴァレリーだとわかれば怖くはなかった。
竜が空を飛び、魔法使いが居て、王様は竜に姿が変わる世界。
少しずつ馴染んできたつもりだったけど、いつもの平凡な日常に一刻も早く戻りたい。
毎朝、決まった時間に起きていつもの電車に乗る。ターミナル駅では人の波に歩調を合わせて出口を目指す。
会社に着けば目まぐるしく仕事をこなし、気づいたらお昼を食べ損ねていたことも少なくない。
ケータリングの夕飯をデスクで済ませ、くたくたになった体を引きずるようにして終電間際の電車に乗って家路につく。
振り返ると面白味のない人生だけど、でもそれが自分の今までの人生だったのだ。
でも、元の世界に帰れたら、どのぐらい月日が経っているんだろう。ほんの数日だったらいいけど、何年も行方不明となっていたらマンションも誰か他の人が住んでいるだろうし、仕事だってクビになっているだろう。
元の世界に戻っても前途多難かもしれないということは薄々考えていたけれど。
空を見上げると、夕焼けの中、はるか上空を飛竜が飛んでいた。
ダフネたちの住む家に戻ると、ダフネは何も言わずにそっと睡蓮を抱きしめた。
柔らかくて温かい腕に抱きしめられ、ふいに涙がこぼれる。
傍らに寄り添うアルマンドがそっと頭を撫でてくれた途端、今まで堰き止めていた気持ちに歯止めが利かなくなり、睡蓮は大きな声を張り上げて泣きじゃくった。
*********
教会の建物の一番最初の扉には、いつも重装備の兵士が数人立っている。
彼らが何もしないだろうというのは頭ではわかってはいる。
だけど一人でここへ来るのは怖くて、結局ケイナに付き添ってもらうことになった。
睡蓮たちが大荷物を持って扉の前までやってくると、兵士たちが恭しく礼をして扉を開ける。
昨日とは態度があからさまに違うが、いちいち気にしていても仕方ない。
大荷物によたよたしつつも扉を開けてもらい、睡蓮が長い廊下へ入るとケイナの笑顔と共にゆっくりと扉が閉められた。
途端に訪れる静寂。
魔術師が封印の儀式を行っている関係で、教会の中には一切の音が入ってこないのだという。その代り、教会内で起こる音も外には漏れない。
ということは、ヴァレリーがどんな姿になって暴れようとも、外には全く響かない。
睡蓮は荷物を持ち直し、長い廊下を歩き出す。
今日はバスケットの中には王からの一通の手紙と自分の勉強道具、昼食とヴァレリーの着替えが入っている。
扉は今日開くんだろうか。
開いてほしいような、欲しくないような。
相反する気持ちのまま扉に手をかけると、扉はすんなりと開いた。
静電気は起こらない。
恐る恐る中をのぞくと、硝子の窓の側で黒くて大きな体が横たわっていた。
「―――!」
具合でも悪いんだろうか? まさか体が元に戻らないまま、衰弱しちゃったってことは…?
慌てて扉を閉め、急いで彼の側に走り寄る。
「…ヴァル?」
返事がない。瞼はきっちりと閉じられていた。顔の付近に近づき、頬のあたりを思い切りバシバシと叩いてみる。
ごつごつして突起のある鱗を叩いていると、段々と手のひらが痛くなってきた。
「…さっきから何やってるんだ」
頭をゆっくりと起こし、細い瞳孔の銀色の瞳がうっすらと開いて、睡蓮を片目で見やる。
「だって、衰弱しちゃったのかと…」
「目を瞑って考え事をしていただけだ」
「そうなんだ、良かった」
と、そこまで会話をして、ふと気づく。
「…あれ? 話が通じる…?」
「そうみたいだな」
ヴァレリーは大きくため息をついて、尾を勢いよく左右に振った。
その拍子に礼拝堂の長椅子が2、3個遠くへ吹っ飛んだのは気にしないでおく。
「そうだ! 王様からの手紙を預かってるの。着替えと昼食を持ってきたんだけど、どうしようか?」
「俺はこの姿の時は何も食べない。睡蓮が好きなだけ食べたらいい」
今日はローストビーフのようなものとポトフと焼き立てのパンを持ってきた。睡蓮も少し空腹だったけれど、一人で食べるのも気を遣う。
「じゃ、じゃあ…着替えはベッドの横に置いておくね。昼食は姿が戻った時に食べてね」
バスケットの中から着替えを取り出してベッドの枕元に置き、王からの手紙と昼食はベッドの横のサイドテーブルの上に乗せた。
「さて、と」
独り言のように呟いて扉の方へと歩き出そうとした時。
「もう帰るのか?」
「え、うん」
「…そうか」
竜の顔には表情筋がないようで、どんな表情をしているのかわからない。ただ、声が少し残念そうに聞こえたので、睡蓮は勇気を出してくるりと体の向きを変え、ベッドの上に腰かけた。
「せっかく来たからもう少しいようかな?」
ヴァレリーが喉をグルルル…と鳴らした。
それは心底恐ろしい唸り声で、ティラノザウルスにロックオンされた獲物の気分になる。
「ところで目が腫れてるように見えるのは、昨晩何かあったからだろう?」
「えっ、腫れてる!? ちゃんと冷やしてきたのに」
「よほど悲しいことがあったんだな。悲しみが伝わってきた」
「私の感情がわかるの?」
「ああ、少しだけ。竜珠を持っている人間の強い感情が伝わってくるんだ」
「そうなんだ」
睡蓮はそう言った後、しばらく口を閉ざしていた。下を向いて何て言おうか考えをまとめる。
「ヴァル。あの、例の頼み事のことだけど」
「やはり無理だろう、婚約者の振りだなんて」
「ううん、受けることにしたよ」
「…!」
ヴァレリーが息を呑む気配が伝わってくる。
「受けると言っておいてなんなんだけど、私からも条件を出させて欲しいの」
「…条件?」
「婚約者の振りをするのは、ヴァルの竜珠を渡した女性が現れるまで。もしその女性が現れなかった場合は、ヴァルが国王になるまでにして欲しい」
国王という単語を聞いて、ヴァレリーは唸った。
「王が話したのか? 竜珠の話も。俺が王の実子だということも」
「うん、教えてもらったのは昨日。貴族って言うだけで気後れしてたのに、未来の国王陛下のお妃さまの振りをすることになるなんて思いもよらなかった。でも、私はこのお話をビジネスとして捉えているの。契約期間があやふやなままだと私のこれからの人生設計にも影響が出ちゃうでしょ? お互いにwin-winの関係で居たいんだ」
一気に自分の言いたいことだけを伝える。契約期間を全うすれば、その後睡蓮が何をしようとも何の後腐れもないはずだと思っていた。
「ビジネス、か。まあ、いいだろう。こちらにも十分メリットがあることだしな」
「あとね、もうひとつ条件があるの」
「なんだ、まだあるのか、欲張りだな」
顔は無表情のままだが、からかうような口調でヴァレリーが促す。面白がっているヴァレリーとは裏腹に、睡蓮の表情はさっきと打って変わって沈痛な面持ちになる。
「…極力、私に触らないで欲しいの」
睡蓮がそう言った後、しばらくの間、二人とも無言になる。
「前に暴力を振るわれてたことがあって、それ以来、男性が怖いの。ふいに触られるとその時の記憶が蘇って…」
「最後まで言わなくていい」
ヴァレリーは怒った風でもなく睡蓮の言葉を遮った。
「その件については善処しよう」
「善処って!」
「じゃあ聞くが、婚約者に全く触れない男がこの世にいるかい?」
「私たちの場合は…振りでしょ?」
「世間の目は想像以上に厳しいぞ。どこで綻びが出るかわからないじゃないか」
「そりゃそうだけど…」
「それに、触れるなと言ってたが、さっき俺の顔を遠慮せずに思い切り叩いてたのは誰だったかな」
「あ、あれは…!」
「冗談だ、気にするな。では誓おう。今後決して睡蓮に危害を加えないと。睡蓮、俺の喉のところに逆に生えている鱗があるだろう? それに触れてくれないか?」
ヴァレリーが顔を上に向けると、小さくて黒い鱗が一つだけ流れに逆らって生えているのが見えた。
逡巡し、おずおずとその小さな鱗に触れる。
鱗に触れた瞬間、ヴァレリーが大きく身震いしたので思わず手を引っ込めて後ずさりした。
「ご、ごめんなさい。大丈夫? 痛かった?」
「…平気だ。竜の逆鱗の誓いは破られることは決してない」
睡蓮にはその誓いの意味がはっきりとはわからなかったけれど、何か宗教的な意味合いのものなのかと解釈しておいた。
「それよりもそろそろ昼食にありついた方が良くないか? さっきから誰かさんのお腹が鳴る音が響いてきて仕方ないんだが」
空腹を感じて、少しお腹が鳴っていたのは自覚していたけれど、まさか聞こえていたとは。
睡蓮は顔を真っ赤にして言い返す。
「ひどいっ。そういうことは聞こえてても知らんぷりするのが礼儀ってものでしょう?」
銀色の瞳が細くなって、表情はないけれど笑っているように見える。
「食べ終わったら文字の勉強するから見てもらえる?」
「承知しました、お嬢様」
おどけた風に返事をするヴァレリーに、睡蓮は心が温かくなるような気持になった。
*********
夕暮れが迫ってきた。
教会の中が薄暗くなっていき、肌寒く感じる。
くしゅん、と睡蓮がくしゃみをすると、ヴァレリーが空を見上げて言う。
「そろそろ帰った方が良い。ここには暖房がないんだ。風邪を引いてしまう」
今日は半日でだいぶ文字が読めるようになってきた。ヴァレリーの教え方が思いのほか上手だったというのもある。
「今日はありがとう。だいぶ文字が読めるようになった気がする」
「どういたしまして」
「ヴァルの教え方が上手だからだよ」
「おいおい、褒めたって何も出ないよ」
軽口をたたきながら、睡蓮が荷物をまとめて扉の近くへと立つ。
「睡蓮。…今度はいつここへ来る?」
ヴァレリーが名残惜しそうな声で見下ろしてくる。ティラノザウルスが少し首をかしげている姿はちょっとだけ可愛いと思ってしまう。
「明日またお昼ご飯を持ってくるね。何かリクエストはある?」
「…なんでもいい。気を付けてお帰り。今夜、睡蓮に安らぎの眠りが訪れますように」
ヴァレリーはそう言って睡蓮の前へ頭を垂れた。この世界での“おやすみなさい”という言葉らしい。
「…素敵な言い回しね。ヴァルにも今夜、安らぎの眠りが訪れますように」
ヴァレリーの鼻先に軽く手を添えて返事をして扉を閉める。
扉を閉めると、たちまち扉は壁と一体化して、壁に描かれた絵のようになった。
この静かな空間にたった一人、“人型が安定するまで”籠っていなくちゃいけないなんて。
睡蓮は彼の境遇に同情しながらも、条件を突き付けて自分へのメリットを優先させようとしていることに、ほんの少し罪悪感を覚えていた。




