10
城内の教会に逃げ込んだ後の記憶は途切れ途切れだった。
体の中から溢れるぐらいに雷が絶え間なく生まれていき、彼女の恐怖心にひきずられて咆哮するも、魔法陣の封印に阻まれて思い切り体を地面に叩きつけられる。
何度も何度も狂ったように天に向かって吠えた記憶しかない。
正気にかえった時、王が扉のそばに立っていた。そして、自分に厳しい選択を突きつけてきた。
王は竜珠を持つ人間を一生手元に置くか、その覚悟がなければ亡き者にするか、どちらか選べと言った。
竜珠の持ち主の感情に引きずられ、我を忘れて竜に姿を変え、ここまで巨大化するほど影響されるならば、敵対する他国に竜珠を悪用された時のことを想像すると王の決断は難しい要求ではないはずだった。
確かに彼女の存在をこの世から消してしまえれば竜珠の影響を受けなくて済む。
だが、あの居心地の良い気配を捨てるのは惜しい。
真夜中、扉の向こう側に睡蓮がいる気配を感じ取った。そばにはクレールがいた。今、歩いてここに来れたということは大した怪我もなく無事に助け出されたことなんだろうと推測できる。
無事だったことに安堵するが、今はまだ扉を開けてもらいたくなかった。こんな姿を見られたくはなかったし、彼女の恐怖に歪む顔も見たくなかった。
朝。
睡蓮が一人でやってきた。竜珠の気配は感じられない。扉の前でしばらく立ち止まっているようだったが恐る恐るといった様子で中へ入ってきた。
一晩のうちに決断はしていたつもりだった。扉を開けて入ってきた睡蓮を、せめて一瞬で苦しませないようにしようと思った。
真上から牙を剥き出しにして見下ろすと、案の定、自分を見て彼女の顔がこわばっていくのがわかった。朝食が入っているであろうバスケットがどさりと床に落ちる音がした。
こんな化け物を見て顔が強張るのは当然のことだ。ヴァレリーは睡蓮の表情を見て自虐的な気持ちになったが ひと飲みにしようと思う気持ちより、無事で良かったという安堵の気持ちの方が勝っていた。
ゆっくりと顔を近づけて、睡蓮の腕に頬ずりをした瞬間、気が緩んだのか急に意識が遠くなった。
時々、さらさらと髪や額を撫でていく感触が気持ちいい。うっすらと瞼を開くと、くすくすと小さく声を出して笑っている睡蓮の顔があった。
そんな彼女の柔らかな表情をずっと見ていたくて、だいぶ前に目が覚めたのに声をかけることができなかった。
見ているだけでは満足できなくなり、おずおずと手を伸ばして彼女の細い手首を掴んだ。拒絶されるかと思ったけれど振り払うわけでもなく、彼女もこちらを見下ろしていた。
彼女の手首に擦り傷があった。昨日の怪我だろうか。
睡蓮の手首を両手で包み込むように引き寄せ、口づけをする。
彼女は顔が真っ赤になっていたが、少なくとも拒絶する様子がなかったことに喜びを覚えた。
少しはうぬぼれてもいいんだろうか。
自分のもう一つの姿を見てもなお、今ここにいてくれる彼女に。
竜と崇められていた大昔の時代と違い、あんな化け物の姿に変わる自分のことを怖がっているはずなのに、そばにいてくれるのは何故なのか。
「俺のことが怖くないのか? あんな姿を見たのに」
言葉が通じないとわかっていても聞いてみたかった。本当は口に出して聞くのが怖くて、声がかすれてしまったが、彼女には気づかれていないようだった。
彼女は首をかしげていた。
「いつもそうやって笑っている方が似合う」
本心だった。言っても通じないだろうと思っているからか、普段なら言葉に出すのすら恥ずかしい台詞が口をついて出る。
『何? なんて言ってるの?』
困ったような口調だが、彼女の身にまとう柔らかくゆったりとした気配が心地よかった。
彼女に牙をかけなくて良かった。心の底からそう思う。
王は言外に亡き者にした方が楽だと言っていたようだったが、自分には手元に置いておく以外の選択肢はなくなっていた。
「勝手なのはわかってる、けど。振りでいいから、俺のそばにいて」
だが、手元に置いておくだけでどうする。
万が一、彼女が自分に愛情を持ってくれたとしても、自分には応えられない。
手放したくはないけれど、愛する対象としては見られないのだ。
なぜなら自分の心はずっと昔にイリーナに捧げているのだから。
『ヴァレリーさん、言ってることが全然わからないよ? 簡単な単語で』
「ヴァル」
『え?』
「ヴァルって呼んでくれ」
他人行儀な呼び名は彼女の口からは聞きたくなかった。だから愛称で呼んでほしいと頼んでみたら、彼女は理解できたようで自分のことをヴァルと呼んでくれた。
それだけで嬉しくて、顔が緩んでしまいそうだった。
その上、彼女の本当の名前らしい発音を教えてくれた。
「…睡蓮」
同じように発音してみると、彼女ははにかんで可愛らしい笑顔を浮かべた。
たまらなくなって上半身を起こし、彼女の頬へゆっくりと手を伸ばしかけた時、お腹の鳴る音が響いた。
え、と思う間もなく、自分の腹の音も鳴った。思わず二人で顔を見合わせて笑った。
今はこんな調子でいい。
婚約者の振りをしてもらうだけで、傍にいてくれるだけで。
竜の血を引き継ぐ人間は、一生涯に一人の女性しか愛せない。そういう生き物だ。
睡蓮のことは愛せないけれど、手放さない。誰にも渡さない。
―――ヴァレリーが笑顔の裏にそんな昏い感情を心の底でくすぶらせているだなんて、その時の睡蓮には知る由もなかったのだった。




