プロローグ
夜もだいぶ遅くなり、人の流れもまばらになった地元駅の改札を通り抜ける。
吐く息が白い。時折吹いてくる冷たい風が首の中に入ってこないように、スヌードを引き上げて顔をうずめた。空を見上げるときれいな満月だった。
そういえば今日は自分の23歳の誕生日だったことを思い出す。
萩野睡蓮は、ため息を小さくついた。
スヌードの下にかじかんだ指先を潜り込ませて黒真珠のペンダントを軽く握る。
昔からの癖だった。
寂しい時や感情が揺れ動くとき、この黒真珠を握るとほっとする。母の形見でもあるペンダントは、光の加減で緑がかった黒にも見える。
マンションまでの長い階段をゆっくりと上っていく。もうすぐマンションの玄関に着きそうというところでコートのポケットの中にあるスマホが震えた。誰からだろうと、慌てて取り出して相手の名前を確認すると、元カレの高倉誠からだった。
その名前を見た瞬間、ぎくりとして立ち止まってしまう。
大学時代、向こうから猛烈にアタックされまくり、周りにも冷やかされ続け、とうとう何度目かの告白で、情にほだされたような形で付き合いだしたまでは良かった。付き合ってしばらくすると急に態度が横柄になり、暴力を振るわれるようになった。
睡蓮は大学卒業後、デザイン関係の仕事に就いた。仕事が激務だったため、なかなか会えないことを理由に堂々と浮気もされた。
何かイベントのある時は自分を優先してくれていたが、睡蓮の外見がモデルのように背が高く、薄茶色の長い髪や琥珀色の瞳が単に彼の好みというだけで、彼の一番というわけではなく、単に連れて歩くだけのアクセサリー扱いだったということは後で知った。
初めての彼氏だったから理不尽な暴力を振るわれても我慢し続けていたが、次第に体に不調が出てきてしまい、しばらく付きまとわれていたけれど夏頃には疎遠になった。睡蓮は自然消滅で付き合いは終わったと思っていたが、今では単なる会社の同僚男性と職場で二人きりになっただけで怖いと思うようになってしまった。
何度かカウンセリングにも通ったけれど、男性恐怖症は思うように改善する兆しも見えなかったので通うのを止めた。
いつの頃からか、風の噂で彼が復縁を望んでいるという話が聞こえてきた。クリスマスにお正月、バレンタイン。おそらくそういったイベント当日に連れて歩くアクセサリーを欲しているだけなんだろうと呆れていたところだった。
スマホが震えている間、アドレス帳から消すのを忘れていた元カレの名前が虚しく光っていたけれど、過去にあったいろんなことを思い出していたらいつの間にか電話は切れていた。ほっとしながらスマホをポケットにしまい、再び階段を上ろうとしたその時だった。
「睡蓮…? 久しぶり」
マンションの玄関先にある植え込みの影から、すっと人影が現れた。たった今、睡蓮に電話をしてきた相手が顔を出した瞬間、睡蓮はその場で目を見開くしかできなかった。
「今日、誕生日だっただろ? 一緒に祝おうと思ってさ、ほら」
強張った笑顔を浮かべる彼の手には、行列のできるパティシエのお店の紙袋があった。そうだ、この男は流行に敏感な人だったと、どうでもいいことを思い出す。
「…疲れてるから、また今度にして」
もっとしっかりした声で拒絶しようと思っていたのに、実際に出てきたのは、震えて蚊の鳴くような声だった。その声を聴いて、高倉誠は口元を歪ませた。
「なんだよ、強がってんじゃねぇよ。このオレがいったい何時間ここで待ってたと思ってんだよ。いいから部屋に入れろよ」
高倉誠の態度が急変し、睡蓮の二の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。恐怖のあまり振り払おうと腕を思い切り振った瞬間、体のバランスを崩して階段から足を滑らせてしまう。
その後のことはよく分からない。目の前がチカチカと光って周りの景色が見えなかった。階段の角で頭を強く打ったようで、体が動かない。
高倉誠の睡蓮を呼ぶ声が遠くなっていく。夜なのに不自然なまぶしさを感じて瞼を開くと、幾筋もの淡いオレンジ色の光が背後へと消えていくのが見えた。前方を見やると、遠くにあったまばゆい光の中心がどんどん近づいてくる。光は近づくにつれて段々と大きくなっていき、ついには睡蓮を飲み込むほどの大きさまでになった。
睡蓮が手を伸ばして光に触れると、じんわりと暖かさが伝わってきた。そして光のまぶしさに耐えきれなくなり、目をつむった瞬間。
―――…に会いたいんだ、もう一度。
耳元で囁くような心地よい低い声が、聞こえたような気がした。