Sords Of Hers 2
マスターといる時には、考えたこともなかった。
彼らの苦しむ声は、耳には届かずに。
彼らの死にゆく姿は、目には映らずに。
マスターという夢に酔っていたわたしには、何もかもが遠いことだったから。わたしのすぐ近くを素通りしていくものだったから。
だけど。
その夢は、もう終わってしまった。
だから、今更ながらに思い知る。
思い知らされる。
少しだけ落ち着いたわたしは、向かい合うアルーヴァを見た。
深い森の中。今は夜の闇に覆われている。
アルーヴァは瞳を閉じていた。寝入っているのか、それとも無視をしているのか。
「…………アルーヴァ」
わたしはかすかな声で、その名前をつぶやいた。
彼は、変わらずにそのままだった。
マスターに捨てられたわたしは、今はアルーヴァとともにいる。
だけど、アルーヴァが彼に代わるマスターになったわけじゃない。
確かに、一瞬だけはアルーヴァがわたしのマスターになったけれども――
目覚めたわたしは、少しずつ状況を理解してきた。
先ほどまではあれだけ憎んでいた相手なのに、今はその憎悪はきれいになくなっている。
そして、懐かしい感覚がわたしの中に満ちていた。それは、ずっと昔――マスターのスレイブとして生まれ変わった時に抱いた感覚と同じもの。
目の前の存在が……ううん、自分がその存在の一部だと覚える不思議な感覚。
ああ、そうか――
この人が。わたしの新しい……
「マスター」
――なんだ。
これからは、この人に寄りかかればいいんだ。
理解すると、わきあがってきた。狂おしいほどまでの、激しい感情。切ないほどに胸を刺して、心を揺さぶる感情。
そう思うわたしに、アルーヴァは眉をしかめた。
「マスター?」
「……はい」
わたしは頷いて、アルーヴァの足もとにすがるように近づいた。膝を折って、頭を下げる。新しいマスターに心を奉げるんだ。
何もかもを放り出して、忠誠を誓うんだ。失ってしまったものを必死につなぎとめるように。無我夢中で埋め込むように。
「ふん……そうか。だったら――」
しばらくして、アルーヴァが口を開いた。初めての、わたしへの命令を口にするんだと予感して、身体がうち震えた。
「――その首を、自分で引き千切って見せろ」
「え?」
はじかれたように面を上げる。アルーヴァはにやにやと笑みながら、わたしを見下ろしていた。
「どうした? 俺の命令は絶対なんだろ?」
「首を、ひきちぎれ……って?」
「そうだ。早くやれよ」
聞き間違いじゃなかったみたいだ。そんなことをわたしにさせて、どうしようというんだろう。 だけど、マスターの言葉は絶対だから。
「わかりました」
迷うことなく、わたしは両腕を自分の首に持っていった。
首をつかんで、その手に力を込めようとして――
「あくっ?」
突然に、その手に激痛が走った。
アルーヴァがかがみこんで、わたしの首に伸びた手を握りしめていたんだ。
「え? ……え?」
混乱するわたしに構わずに、アルーヴァは乱暴に手を引き離す。わたしは体勢をくずして、地面を転がった。
「……どうして?」
不可解を瞳に込めて、アルーヴァを見上げる。アルーヴァは立ち上がり、あきらかに怒りを孕んだ視線でわたしを見下ろしていた。
わたしは……何か、彼の気に障ってしまったんだろうか?
「……ごめんなさい、ごめんなさい」
わからないけれども、そうだとしたら謝らなくてはいけない。わたしは頭を地面にこすりつけて必死に謝った。
「――五月蝿い!」
叩きつけられる怒声に、わたしは身体を震わせた。
怯えを込めた瞳で、すがるようにアルーヴァを見上げる。
「これが……これが、スレイブか。話には聞いていたが、何て不愉快な存在だ!」
その言葉は、わたしに投げかけられている。でも、その怒りの矛先はわたしを通して他の何かに突きつけているみたいだった。
「何でも自分の思い通りになる。何でもその言葉を聞く奴隷というやつか。はっはっは……! くだらない! まったくもってくだらなすぎる!」
「…………」
「そんなすがるような目で見上げてくるな……! 虫唾が走る! 先ほどまでの憎悪に狂っていた瞳の方がまだマシだ!」
「で、でも……」
わたしは、震える声で言葉にする。マスターへの反論は、赦されないけれども。
「マスターが、わたしを……」
「マスターなどと俺を呼ぶな!」
「……!」
ひときわ激しい怒声がたたきつけられる。
わたしは半泣きになってしまった。
だけど、アルーヴァの言葉は容赦ない。
「勘違いをするな。俺は、おまえをスレイブにするのが目的だったわけじゃない。おまえを救うために、吸血を行うしか方法がなかった。その過程で、おまえがスレイブとなっただけだ!」
「わたしを……救う?」
「同情してやったんだよ」
アルーヴァは吐き捨てるように嘲笑した。
「あのままくたばるのは、あまりにも哀れだと思ってな」
「…………」
わたしは、何と言っていいかわからなかった。ただ呆然とするだけだった。
「……まあいい」
少しは感情が落ち着いたらしく、その口調が和らいだ。
「さあ、とっとと俺の血を啜れ。そうすれば、このくだらない主従から解放されるんだったよな?」
「…………あ」
その言葉に、わたしは拒絶を覚える。
それは、嫌だった。
せっかく、新しいマスターのスレイブになれたのに。放り出されるのは、嫌だった。
だけど――
「さあ、さっさとしろ」
自分の手首を噛み千切って、血を滴らせるアルーヴァ。かがみこみ、わたしの口元に持ってくる。
――わたしは、スレイブだったから。
マスターであったアルーヴァの言葉には、逆らえなかった。




