〈リーザ〉Murderer And Vampire 2
どうして……
「どうして……抵抗、しなかったの?」
ベッドに横たわる彼に、わたしは訊いた。
その首には白い包帯。
わたしは、手にした瓶をテーブルの上に置いた。それはシェイラの残してくれていった聖水だった。
もし、仮に最悪、誰かの血を吸ってしまった場合に。すぐに処置をすれば、相手が吸血鬼にならなくてもすむための解毒剤と……それと、もうひとつの理由のために。
つまりは――自害するために。
彼の首筋に牙を突き立ててしまった。ほとんど無意識に。手遅れになる前に、牙を引き抜いてこうして処置を出来たのは不幸中の幸いだった。
今の彼の様子を見る限り、大丈夫だと思う。もしあと数秒でも、わたしの唾液が彼の体内に流れ込んでいたかと思うと……ぞっとする。
「どうして……?」
「ロゼッタから……全部、聞いたよ」
わたしは彼女に伝言を頼んであった。イクスが帰ってきた時に、伝えて欲しいこと。
わたしがもはやヒトでなくなり、村の外に広がる森の中でひとり暮らしていること。そこで、ずっとイクスの帰りを待ち続けていること。
――恐怖があった。
とてもとても怖かった。
もしかしたら、彼は戦死をして帰ってこないかもしれない。
帰ってきたとしても、わたしの境遇を知って、逢いに来てくれないかもしれない。
そして――
もしかしたら、わたしは彼の血を吸ってしまうかもしれない。
その予感は、現実のものとなってしまった。
だけど……そのことは、考えもしなかった。
全部知っていたはずだ。それでいて、わたしに牙を突き立てられて……何をされるか知っていたのだろうに、抵抗をしなかった。
わたしを信じていてくれたの? 村でも一度も誰かを襲うことはなかったから。まさか自分の血を吸うことなんて絶対にないって。
それも、違う。違う気がする。
彼は。
イクスは……
もしかして。
「血を吸われようと……思ったんだ」
ぽつり、とその答えを口にした。わたしの予感が、形になった。
「リーザが……吸血鬼になったと聞いて……そうまでして俺を待っていてくれて……吸われても、いいって思った……」
「どうして……!」
たまらずに、わたしは叫んでいた。目頭が熱くなる。胸が痛くなる。嬉しいから? 彼が、わたしに血を捧げてもいいと思ってくれたことが……嬉しい?
きっと、嬉しいはずだ。
わたしが吸血鬼ならば。
彼とふたりで、吸血鬼として生きる。
それは、何とも魅力的な誘いだった。
――わたしは、魂を賭してその誘惑を否定する。
でも、違う。
わたしは違う! たとえ身体は吸血鬼となろうとも、心は変わらないと誓ったんだ。変わってやるものか、とあらがった。あらがい続けた。
決して、楽な道のりじゃなかった。
何度、紅い悪夢に魘されたことか。幾度、血を吸いたくなる衝動に駆られて、自分の腕をちぎれるくらいに噛み付いたことか。
シェイラと別れて、ひとりで暮らすようになって……時折ロゼッタが訪ねてきてはくれたけれども……静かな夜の孤独は、あんなにも耐え難かった!
終わりのない夜。
無限に続く夜。
その夜を終わらせたくて、どれほどあの瓶の中身を飲み干したかったかわからない!
それでも、そうやって……ここまで来たんだ。
だから、彼の言葉は、わたしに対してあまりにも残酷すぎる。
だって、頑なに守ろうとしてきたわたし自身を否定することになるのだから。
「わたしは……吸わない! 絶対、吸うもんか! わたしは……わた……!」
突然、抱きしめられた。
荒々しい抱擁に、言葉が途切れる。
「イクス……」
膝を折っていたわたしは、イクスを見上げる格好になる。
「俺……」
その声は、震えていた。こんなにたくましくなって、ひ弱だった少年はすでに面影の中にしかいなくて……
「俺さ……」
それでも、彼の声は弱々しく、震えていた。
もう、泣かないと思っていた。
泣くのは、わたしだと思っていた。
ヒトでなくなって、それが辛くて、苦しくて、哀しくて……泣くのは、わたしだけだと思っていた。
――だけど。
「俺は、さ…………」
彼のあふれる涙が伝い、わたしの顔に落ちてくる。
「――ヒトを、殺したんだ」
多分、血を吐くような告白。
それが……理由。
わたしに血を吸われてもいいと思って。
今、もう泣かないはずだった彼が泣いている――理由、だったんだ。
彼は、人を殺した。
当然のことだ。
戦争に行ったんだから。
戦争は、人を殺す場所。そうすことを強要される場所。
生きるために、敵を殺さなければならない。味方を守るために、相手を殺さなければならない。勝つために。帰るために。殺さなければならない。
どうして、考えなかったんだろう。
彼が、どんな想いだったのか。
――きっとわたしは自分のことで精一杯だった。
何ともないはずはないのに。
何も感じないわけがないのに。
あの……気弱で、臆病で、頼りなげで――でも、わたしが大好きになった優しい少年だったら、それが苦しくないはずなんてないのに。彼が、ずっとそのままだったら、きっととてもとても辛かったはずなのに!
――だから。
「罰、かもしれないって思ったんだ」
イクスの懺悔は、続く。
わたしが吸血鬼になって。
そのわたしに血を吸われて。
自分もまた吸血鬼になって。
――だから?
それが、罰。
そうやって、償う。
そうして、赦される。
「……違う」
否定の言葉は、誰かが囁いた。
「え?」
「それは……違うよ」
誰かの囁きは、きっとわたしの想いと同じだった。
わたしは立ち上がり、イクスの頭をそっと両手で挟み込む。
途方に暮れた表情が、そこにある。少年の日から、少しも変わっていない面影を、そこに見つける。
それが嬉しくて、切なかった。
イクスは頼りない弟分で、わたしはちょっと年上ぶったお姉ちゃんだった。
「ねえ……イクス」
心に浮かぶ言葉。それは、間違っているかもしれない。
だけど、わたしは信じたい。
「もしあなたが吸血鬼になるのだとしたら……わたしも、人を殺さなければならなくなるよ?」
静かな声で、諭すように。
「――! 何を?」
イクスの目が、見開かれる。
何を言っているんだ、と。
だけど……そういうことだと思う。
きっと、そうなんだと思う。
「……だって、そういうことでしょう?」
わたしは彼の顔に顔を寄せて、そっと口付けをした。
わたしは、きっとイクスの苦しさはわからないままだと思う。
実際に、イクスと同じにならなければ……彼の痛みはわからない。
でも、それはイクスにも同じこと。
イクスには、きっとわたしの辛さはわからない。実際に、吸血鬼にならなければ……わたしの痛みはわからない。
だけど――イクスにはそんな痛みはわかってほしくない。
……絶対に。
絶対、わかってほしくなんてない。
あと2話で完結です。




