〈リーザ〉Madion Bleeds For The Blessing 2
気が付くと、その人がわたしを見下ろしていた。
半裸のわたしをまじまじと見据える。彼が何を思うかはわからなかったけれど、ろくでもないことに違いない。
ヒトだって、あれだけ残酷になる世界なんだもの。だったらヒトではない彼が、どれだけ残酷になったとしてもおかしくはないじゃないか。
わたしは何もかもあきらめて、目を閉じた。もう二度と開かないに違いない。
それで、いい。
その方がいい。
痛みも。
苦しみも。
悔しさも……何もかも、消えてしまえばいい。
そのまぶたの闇に、幼馴染みの少年の姿を思い浮かべ、心の中でそっとあやまった。
……ごめん。
ごめんね。
約束、守れそうにないよ。
「もはや、助からないな……」
打って変わって、静かな声だった。
淡々と、わたしの状態を突きつける言葉だった。
わざわざ言うことないじゃない! 軽い苛立ちを覚えそうになって――
「死にたくはないか?」
その言葉に、消え失せた。
……死にたくはないか?
眠りかけていた感情が、揺り動かされる。乱暴に掘り起こされる。諦めが、負けてしまう。
死にたくない?
――死にたくない。
当たり前だ!
こんなところで、こんなふうに、こうして死んでいきたくなんてない。
だって、わたしには約束がある。
絶対に果たさなくてはならない、想いがあるもの。
だけど。だからって、もうどうしようもないじゃない!
傷はとても深くて、血はこんなにも流れすぎて、死ぬしかないじゃないか。
――人間だったら。
ふと、何かがざわめいた。
耳鳴りがする。
「選択肢をやろう」
声が、笑った。
耳鳴りが、激しくなる。うるさいくらいに。
「死にたくないのであれば、人であることをやめろ」
人の身であれば、死ぬしかない。人間の身体では、這い寄ってくる死には抗えない。
「その血を俺に捧げ、人外のものとなれ。そうすれば、そのまま意識が消えることはない」
だったら、ヒトでなくなったら――?
「俺は強制はしない。選ぶのは――おまえだ」
声は、続ける。
「選ぶならば、早くしろ。完全に死んでしまえば、いくら血を啜ろうとも蘇生はかなわない。俺に、死体の血を啜る趣味はないんだ」
まるで、わたしを嬲るように、流れていく言葉のはずなのに――
「だが、覚悟はしておけ。その身はヒトではなくなる。人外の存在へと成り果てる。それだけで、おまえは逃れようのない十字架を背負うことになる」
それは嫌味でもなく、ただただまっすぐに事実を述べていた。
「――さあ、どうする?」
再度の問いかけは、なぜかひどく優しげに耳に響いた。
わたしは、どこかおかしくなってしまったのだろうか。
どうしてか、目頭が熱くなる。自分でもわからない。
わたしの身体に、何かが投げつけられた。
乱暴に、ばさりと。それは、わたしの身体を覆う赤い外套だった。
どこからか取り出したそれを、彼が放ってきたのだ。
耳鳴りが――消えた。
重いまぶたを開く。
視界には、赤い影が広がる。
影は、それ以上言葉を重ねない。そのまま動かない。
ただじっとわたしを見下ろし、見下すわけでなく、静かにわたしの答えを待っていた。
ごく自然に、言葉がもれる。
「…………ない」
震える唇が、ただこみ上げてくる思いを形にしていた。
「死にたく……ない」
そう。
……死にたくない。
死にたくない。死にたくない。
――シニタクナイ!
人でなくなる?
それでもいい。
――それでもいいから。
この意識がなくならないのならば、
この想いが消えないのであれば、
それでも――構わないから。
だから……
「……吸ってください」
かすれるような声で……だけど、はっきりと意志を乗せて、わたしは答えを口にした。
「わたしの血を……吸ってください」
赤い影の――ヒトではない、吸血鬼のその人に。
◇
……何時からだったか。
それは、何時からだったか。
もうはっきりとは思い出せない。
記憶はあいまいで、断片的で、頼りなくて……それでも、変わったことは自覚している。
イクス。
それが、彼の名前。
小さい頃からの友達だった男の子。ずっとそばにいた男の子。
もっとも、わたしの村は小さくて、子供達は大抵幼い頃から知り合いだったけれど。その中でも、彼が一番仲のよい男の子だった。
何時までたっても、他のみんなができる木登りもできず、夢中になる騎士ごっこもからきしだった男の子だった。
かわいい弟みたいに思っていた。
実際、彼は身体も小さく、手足も棒みたいに細かった。頼りなかったし、乱暴な男の子にこづかれると、すぐにぴいぴい泣いていた。冬には、よく風邪をこじらせ、何日も寝込むことだって珍しくはなかった。
一人っ子だったわたしはせいぜいお姉さんぶって、数ヶ月しか下でないのに、あれこれと世話を焼いていたものだ。
――それが。
気が付けば、彼の背はわたしを超えていて、もう泣かなくなっていた。
泣くのは、わたしの方だった。
あの日。
徴兵の命令が来て、戦争に駆りだされるその前日。
わたしが泣いて、彼がわたしを抱きしめていた。
おかしくて、笑いたくて、悔しくて、結局……わたしは泣いていた。
――帰ってくるから。
絶対に生きて、戻ってくるから。
そう言って、わたしと彼はキスをした。それは、まだ互いに幼かった頃に、夏祭りの夜にそっと抜け出して……ふざけ半分に交わしたキスとは違った口付け……。
帰ってくる。それが、彼の約束で。
待っている。それが、わたしの約束で。
だから――
うっすらと、目を覚ます。
わたしは、誰かの膝の上に頭を預けていたらしい。
……イクス?
先ほどの夢の続きのせいかもしれない。わたしの意識はぼやけていた。
「目が覚めたか?」
降ってきた声は、長く聞きなれた幼馴染みの彼のものではなかった。低く、どこかざらついた……だけど、どことなく心が安らぐ声。
男達に乱暴されかけた直後だと言うのに、どうしてか、嫌悪感は湧いてこなかった。
物心がつくかつかないかの頃に他界した父親。なぜか、おぼろげにしか覚えていない父のことを思い出していた。
「あ……」
急速に意識が鮮明になる。わたしは、とたんに気恥ずかしくなり、彼の膝の上から飛び起きていた。
そして。
「え……?」
周囲の光景に、思わず戸惑いの声を漏らしてしまう。そこは見慣れた村の風景でもなく、蹂躙された村の風景でもなく、どこかの森の中だった。
意識を失ってからの記憶の断絶は、まだ夢を見ているかのような錯覚をわたしに覚えさせた。
「おまえの村から離れた森の中だ……」
わたしの困惑を察したのか、彼が説明をしてくれる。
「あのままあの場所にいたら、色々と面倒になるだろうと思ってな」
「…………」
ほとんど無意識に、わたしは自分の首筋に手を当てていた。
曖昧な記憶の断片が、ぞっとわたしをそそけ立たせる。
予想していた傷跡らしきものはなかった。だけど、安心はできない。思えば、わたしの中のどこかが、すでに自分の身体に起こった事態を理解していたに違いないんだ。
「傷跡など残らない」
彼は言った。
「俺は、低級な吸血鬼や屍食鬼風情ではないからな」
「…………あの」
わたしは戸惑い、口ごもってから、言葉を探す
おぼろげな確信とともに予想はできている事態を、自分自身で口にするのに抵抗があった。認めてしまえば、その途端揺ぎ無い現実として突きつけれらるだろうから。
だけど、しばし迷い、やがて観念する。
「わたしは……吸血鬼になったの?」
覚悟は足りない。
まだ、足りない。だから……わたしの声は、震えていたに違いない。
「ああ」
彼は、あっさりと……あまりにもあっさりと断定した。
「おまえは、もう人間ではない」
「……!」
ある意味では、死刑宣告。
その言葉が刃となってわたしに突き刺さる。刃は無慈悲な氷で、わたしの体温を急激に奪っていく。わたしは自分自身を抱きしめ、がたがたと震え出した。
――覚悟があるのか?
問いかけられた言葉が蘇る。
その身を、人間以外のものへと変えてでも……生きたいのか?
生きたかった。
死にたくは、なかった。
その思いに、嘘は無い。今でも……きっと、そのはずだ。
彼が、強制をしたわけではない。
選んだのは自分だ。
でも。
……それでも。
「あ……うう……」
涙が溢れてくる。
悲しいのか。
怖いのか。
苦しいのか。
多分……全部だ。
「あ……あああ……」
どうしようもなくて、苦しいほどにやるせなくて、わたしは泣いた。
情けないけど。
みっともないと思うけど。
わたしは、声を上げて泣いた。