〈シェイラ〉It Passes ,Her Days 7
自分の胸。
そこから細い腕が生えていた。
「え……?」
それは、疑問というよりもただ、状況が理解できずに漏れた息だった。
「駄目だよ? シェイラ」
少年の声がする。
それこそちょっとした悪戯をとがめるかのような口調。厳しい叱責というよりは、むしろ優しく諭してやるといった風に。
「あ、ああ……」
真っ白だった頭に、除々に理解の色が浮かんでくる。
「どう……して……?」
それは、しょせん状況の理解でしかなかった。
その動機――そう。マスターと慕い、敬愛し、盲信する彼がどうして背後からわたしの胸を貫いたのか……その理由は理解できなかった。
――ううん。
理解なんてしたくなかった。
「……どう……し、て……?」
弱々しくつぶやくわたしに――
「どうして、だって?」
さも当然と、彼は答えた。
「だって、君は僕のおもちゃを壊そうとしたんだよ?」
ずっ、と腕が引き抜かれる。わたしはよろめきそうになりつつも、後ろに振り返った。
いつもと変わらぬ……本当にいつもと変わらぬ穏やかな笑みを湛えた彼がそこにいた。
「マスターは……もう、わたしを……愛しては、いないの……ですか?」
「君はまだ愛しているのかい? 僕を」
彼が、問い返す。
「当然、です。あたりまえ……です……! マスターは、わたしの全て……です。あの時、から……ずっと、ずっと……!」
切れ切れの言葉で、懸命に想いを形にする。
まるで、そうすればわたしの望んでいたものが取り戻せるかのように。わたしは必死に。
でも……
「君は、確かずっと昔に僕の奴隷から解放されたんだよね? 僕の血を飲むことによって。じゃあ、それからはずっと君自身の意志で僕を愛していたというんだね?」
「もち、ろんです……!」
瞳を潤ませながら、わたしは言った。
「すごいなあ。僕にはともかく、元人間だった君の感覚からすればとても長い時間。ずっと変わらなかったって言うんだね。すごいなあ」
嘲笑ではなかった。冷笑でもなかった。ただただ純粋に驚いて、愉しんで微笑んでいた。
「マスター……?」
ようやく、わたしも気付き始めていた。
自分と彼のと間にある、何か決定的な隔たりに。
いや、本当はずっと以前より感じていたはずだ。ただ、認めたくなかったんだ。信じたくなかったんだ。
彼は、人間ではない。
そんなこと、わたしにとってはどうでもよかったんだ。
……だけど、彼は。
自分が愛したと思い込んでいたその少年は……
その心さえも……
――人間では、なかったんだ。
「マスターは、わたしを……愛してはくれなかった……のですか?」
「そんなことはないよ?」
弁解するでもなく、答える彼。
そう、彼には弁解する理由すらなかったんだ。たとえ恋人となった相手にあっさり興味がなくなったとは言え、そこに良心の呵責も、その恋人につきまとわれるわずらしささえも、ない。
きっと元よりそういった感情など、彼は持ち合わせていなかったのだ。
「君との日々は楽しかった。君のことは、確かに気に入っていた。でもね、もう飽きたんだよ」
その事実。それだけ。ただ……それだけだった。
「ごめんね。もう、君には興味がないんだ。今の僕が興味を持つのは、アルーヴァなんだ」
自分が彼にとって『過去』とされた証明を突きつけられる。ゆるぎない事実として。
「あ……」
わたしの口から、言葉にすらならない息が漏れる。
絶望に泣く、きっと魂の悲鳴だった。
ようやくわかった。
ようやく思い知った。
今更になって、ようやく――
今頃になって、やっと――
それから、どれだけの時が流れたのだろうか。
すでにあたりは夜闇に染まっている。
歩み寄ったアルーヴァが、わたしを見下ろす。
「……………」
致命的な傷を負いつつも、わたしはまだ生きていた。わたしのヒトをやめた身体はまだ、浅ましく生にすがっていた。
彼が全てだったんだ。絶望のどん底で、出会ったのが彼だったんだ。だから彼を愛した。彼に自分の何もかもを捧げた。
でも……結果がこのざまだった。
「マスター……」
わたしの唇から、弱々しい言葉が漏れ出でた。
「また……吸ってくださ……い。わたしの、血を……。あの、時の……ように…………」
誰に、言っているのだろう。わたしにもわからない。
今は、もうこの場にいない彼にか。
それとも――
アルーヴァに彼の幻を重ねていたのだろうか。
「………………」
「わたしを……奴隷に……また、抱きしめて……マスターの……で……わたし、を……」
途切れ途切れに、言葉を紡ぐ。
無表情のまま、アルーヴァはわたしの近くにかがみこんだ。
そして、わたしを抱き上げる。
「マスター……」
焦点の合わない瞳に、その姿を映す。
わたしは、うっすらと微笑んだ。
アルーヴァは口を開くと、鋭い犬歯を覗かせる。
そして、自らの犬歯をわたしの細い首筋に――近づけてきた。




