〈シェイラ〉It Passes ,Her Days 4
目の前の光景に、感情は良く覚えてない。
その血液を、アルーヴァの口めがけて零し始めたのだ。
「ぶほ、ぶは……!」
明らかに異常な量で、血液そのものが生きているかのように激しく流れ、注ぎ込まれる。アルーヴァは噎せ、ごぼごぼと吐き出す。
だけど、幾らかは確実に、その喉がごくり、ごくり、と飲み干していった。
「ふふ……」
ある程度、自分の血を飲ませて、彼はぱっとその手を離した。どさり、と落ちるアルーヴァ。
「何を……?」
近くに立ち、わたしは問いかける。
彼はわたしの方は見ずに、口を開いた。
「いわゆる吸血鬼に血を吸われた人間の末路は、知っているかい?」
「……え?」
何を、今更そんなことを聞くのだろう。戸惑うわたしに構わず、続ける。
「そのまま死ぬか。一応の吸血鬼と化すか。出来損ないの吸血鬼――グールと化すか。じゃあさあ――」
そこで言葉を切り、にたり、と笑った。
「吸血鬼の血を飲んだ人間はどうなるかなあ?」
どこか陶然とした面持ちで、その足元のアルーヴァを眺める。
アルーヴァが苦しげにうめきだす。
「が、あああ……!
異変が始まった。
「ぐ? あ、うああ……?」
それは、異常な光景だった。
まるでその皮膚の下で何かが這いずり回っているみたいに、その身体中があちこち膨れ上がり、どくどくと脈打つ。まるで身体そのものが心臓になったみたいに。
アルーヴァは引き裂かれるような悲鳴を絞り出しながら、のたうちまわる。
「僕が憎い? ねえ、憎い? 憎いよね? だったらねえ、力をあげる。僕の血をあげる!」
徐々に姿が変貌していく。枯葉色の髪が、ぼうぼうと伸び、手足も身体も一回り、二回りと、大きくなっていく。
「は、はは……!」
彼は笑い出した。その瞳が喜悦に染まっていた。きっと歪んだ歓喜に。
「あははははは! あーはっははっはっはっは!」
「ぐ・あああああ……があああああああああああーっ!」
アルーヴァの絶叫の質が、明らかに別物となっていく。先ほどまでの、苦痛によるそれではなく、獰猛な肉食獣が張り上げる唸り声のそれへと転じていく。
見開かれた瞳は真っ赤に染まり、口元が耳まで裂け、犬歯が凶悪に伸張していく。
「があああああああああああ!」
咆哮し、アルーヴァは起き上がる。その姿は、もはや完全に人のものではなくなっていた。
「あはははははは! すごい、すごいよ!?」
狂ったように、嬉しそうに、彼は哄笑する。
「……ぐぁあああ!」
アルーヴァは彼目がけて、右腕を振るった。人間であった頃の細腕に比べて、数倍近くはあろうかという豪腕。
その五本の指から生えそろった、凶悪な鉤爪が、襲いかかる。
だけど、彼はよけようともしない。薄く笑ったまま、立ち尽くすだけだった。
「マスター!」
悲鳴にも似た声を張り上げるわたしを、片手で制する彼。
そのまま――袈裟懸けに、ごそり、と肉を抉り取られる。
「ふふ」
彼は少しもひるまない。内臓を持っていかれたのに、平然と立っているのだった。
アルーヴァは構わず、今度は横薙ぎに左を振るった。
今度は、彼の首から上が消失した。頭と、内臓を失い、鮮血を撒き散らしながら、彼――だったものがくずおれる。
「マ……スタ……」
呆然と、つぶやくわたし。
アルーヴァが食いしばった歯の隙間から荒い息を漏らす。
「ふうっ、はあ、はあ……」
その獰猛な表情は、改心の笑みにも映った。
――そこへ。
「あはは、やるねえ?」
澄んだ声が聞こえる。紛れもない――彼の声。湧き上がりかけたアルーヴァへの敵意は、消え去った。
弾かれたように、アルーヴァとわたしは倒れ伏す彼の胴体から、頭上へと視線を移動した。
そこに、彼はいた。
いや、あったというべきか。
わたしとアルーヴァは言葉を失った。
彼の生首だけが、浮かんでいる。口元と、首の切断面からしどと血を流しながら、浮遊していたんだ。
「そらああ!」
まるで鷹みたいに、急降下する彼。そのままアルーヴァの顔面に激突する。
「が、あ……」
ふらつき、後方に倒れるアルーヴァ。
彼の頭部は、本来の高さの位置で停止する。
それから、胴体がむくり、と起き上がり、首と接合する。えぐられた内臓も、見る間に再生していく。
「ふふ……」
何事もなかったかのように、元の場所に立ち、彼は笑みを浮かべた。その足元には、顔面が陥没し、左の眼球が飛び出したアルーヴァが仰向けに倒れている。
「はあ、はあ……」
起き上がろうとして――どう、とくずれる。
「……ぐ? う、がああああ……!」
そして、再びのた打ち回りはじめるアルーヴァ。
「ふうん」
その様子に、彼はつまらなそうな表情になる。
「どうやら、まだみたいだね。まあ、仕方ないね」
言いながら、浮かび上がる彼。わたしも続く。
「僕が憎いよね?」
決してアルーヴァでは届かない高さで静止して、文字通り見下ろしながら、言う彼。
「だったら強くなるんだね。君がどこまで強くなれるかわからない。だからどこまで強くなれるか見ていてあげるよ。何せ、この僕の血を飲んで生き延びた人間だからね。期待しているよ? ふふ……あは、あは……あはははははははっはっはっはっはっは……!」
のけぞり、心の底から楽しそうに彼は笑った。
「ふふ、楽しい。ほんと、楽しいなあ。こんな気分ひさしぶりだよ。あははははははははははははは……」
本当に、心の底から彼は楽しそうだった。
そんな彼を見るのは久しぶりで、だからこそ悔しかったんだ。その時は。
それから、彼はアルーヴァを見始めた。
わたしではなく、アルーヴァを見始めた。




