〈リーザ〉Madion Bleeds For The Blessing 1
ふとした拍子に、あの人達を思い出す。
たとえば、日の光を透かして風に翻るカーテンに、彼女の銀髪を描く。
たとえば、燃えるような夕焼けの紅に彼の赤い背中を映す。
夜空に瞬く星屑を見上げれば、となりに彼女の幻を思う。
……もう幾度、季節を数えただろうか。
どれだけの夜を過ごし、どれほどの朝日を迎えてきたのだろうか。
だけど、わたしの身体はあの日のまま。十六才の娘のままで、あの時で止まっている。
この身体は、老いることもなく、病に侵されることもない。
すなわち。
――ヒトでは、なくなる。
そう、彼は言っていた。
それでもいいのかと、わたしに訊いてきた。
恐怖は、長くはなかった。
迷う時間は、きっとその半分。
わたしの身体はヒトでなくなる。わたし達が化け物と恐れ、忌み嫌う身体と成り果てる
もしかしたら、ヒトのまま死んでいったほうがよかったのかもしれない。
そのほうが、正しかったのかもしれない。
――それでも。
わたしは、生きたかった。
どうしても、死にたくはなかった。
生き延びたい理由が、あったから。
かなえたい約束が、あったから。
だから、きっと。
何度選択を迫られても、わたしの答えは変わらない。
変わらないはずだと――そう、信じている。
〈リーザ〉其の愛に、祝福を
足がもつれて、わたしは倒れこんだ。
すぐに立ち上がろうとしたけれど、限界以上まで駆け続けていた両足は、悲鳴を上げるだけでしかなかった。
肺は空気を貪るあまりに、ろくに呼吸すらできない。心臓は幾倍にも膨れ上がって、今にも破裂しそうだった。
鬱蒼とした森の中。
見慣れたはずの森が、今では化け物の巣窟に見えた。
わたしは腕で這う。逃げられるわけがない。頭の中の、冷静などこかでそう理解はしていたけど、ただただ必死だった。
わたしを追ってきているあの人達が、何をしようとしているか、わかっていたから。
あの人達――男達は、きっと傭兵だった。
傭兵と、盗賊。
ほとんど意味は変わらない。戦いがあれば、どこにでも行き、お金のために人を殺す。戦争がなければ、村や町を襲って略奪を行い、抵抗する人々を殺し、女の人に乱暴をしていく。
まさしく悪魔そのもの。
――そういった男達だった。
彼らは突然わたし達の村にやってきて、火を放った。
見る見る火の手に包まれていくわたしの村。木で作られた家は、まるで焚き木だった。
それが、わたし達の日常の終わり。
そして、男達の日常の始まり。
運悪く、村の男の人達は数日前に戦争に駆り出されていた。
――その中に、彼もいた。
もしかしたら、男達はそれを知っていてこの村に来たのかもしれない。残されたのはほとんど女子供と老人達。格好の狩り場だったのだろう。
「は、はあ……はあ……」
腕を伸ばそうとした時、足首をつかまれた。
「あう……!」
乱暴に握られた場所に痛みが走る。
わたしは思わず声を上げていた。男が嬉しそうな声を漏らす。じたばたしてもむなしく、わたしは仰向けにされて、のしかかられる。
にやにや笑う男の顔が目の前にある。ああ……吐き気がする。衣服が引き裂かれていく。素肌が、冷たい空気にさらされる。鳥肌がたったのは、きっとその寒さのせいだけではなかった。
(……イクス!)
彼の名前を叫んだつもりだったけど、言葉にならない悲鳴が漏れただけ……。
……やだ。
嫌だ!
こんな男に……! こんな男に好きにされてたまるもんか……!
無我夢中で、わたしは毛むくじゃらの腕に歯を立てる。
ぎゃっと上がる悲鳴。わたしは渾身の力を込めて――蹴り上げた。
……うまくいったの?
男の体重が、わたしからなくなる。
わたしはうつぶせに転がり、逃げようとする。
その時――
背中からお腹にかけて、熱いものが走り抜けた。
……一瞬、呼吸が止まった。
痛みは、遅れてやってきた。
狙ったのだろうか。
それとも腕か足を狙って、狙いが逸れたんだろうか。どちらにしても、男の剣がわたしの身体を刺し貫いたことには違いはない。
「あ……」
喉に、ねっとりとしたものがこみ上げてくる。
「ごほ……ごぼ……」
こみ上げてきたそれ――血を吐く。
「あ、やべ」
その声は、何て気楽なのだろう。
その声は、何で気楽なのだろう。
「馬鹿、何やってやがんだよ?」
仲間を咎める、別の声。だけど、それは子供のいたずらをたしなめるみたいだ。
きっと、彼らにとってはその程度のことなんだ。
人を傷つけても。
「仕方ねえじゃねえかよ」
村を焼き払っても。
「死んじまったら、使い物にならなくなるだろうが」
これから、わたしに行う行為すらも。
「へへ、その前に楽しませてもらおうぜ?」
嫌な笑いとともに、再び男がわたしにのしかかってくる。
それが当たり前で。
これが当然で。
抵抗しようにも、傷口がひきつれるように痛んで、それすらもできない。流れる血とともに、力も抜け落ちていくみたいだった。
心が、折れてしまう。
(……イク、ス……)
せめて心の中で、愛しい相手の名前を叫ぶ。
(助けて……イクス……)
視界がぼやけてきている。
悔しさと悲しさと絶望に、わたしは泣いているのだと知った。このまま見も知らぬ男に乱暴をされながら、わたしは死んでいくの……?
「あ……ああ……!」
自分では声を張り上げて、泣き叫んだつもりだったけど……もう、満足に声すら出なかった。
世界は悪意に満ちて、どこまでも絶望に溢れていた。
その時だった。
「――楽しそうだな?」
それは、あまりにも場違いな声だった。
それは、まるで冗談みたいに陽気な声だった。
だから、その口調が頭にきて――頭にきたはずなのに……どうしてか、背筋がそそけだつ。
それは、まるで氷の声だったから。きっと、男達の笑い声すらも凍て付くほどに冷たい声だったから。
イクス……? ありもしない現実が脳裏をよぎる。この期に及んで、わたしは夢を見ている。
「何だよてめえ!?」
「はん! 馬鹿な野郎だぜ? のこのこ出てきやがって!」
男達がその誰かに罵声を浴びせかける。わたしはのろのろと、視線をその誰かに向けた。
赤い闇……。
その人を目にした瞬間、頭に浮かんだのはそんな言葉だった。
イクスとは似ても似つかないその姿。がっしりとした長身。赤い……毒々しい程に赤い外套をまとって、長い髪をざんばらと伸ばしたその姿は、不気味であり過ぎた。
その人は周りの男達などまるで無視して、わたしの方に歩み寄ってくる。
「け! 馬鹿野郎が」
わたしにのしかかっていた男が、その人に切りかかる。
「――!」
その人はよけようともしない。立ち止まり、無防備に立ち尽くすだけだった。
わたしは悲鳴を上げた。
少なくとも、上げようとした。
ざくり、と嫌な音がする。男の突き出した長剣は、無防備なその人のお腹を貫いていた。
確かに……貫いていた。
だって、ぼやける視界の中で、その光景はあまりにもはっきりと照らし出される。滴る血が……ただ、赤い。めまいがするくらいに、赤いのに。
それなのに……
「え……?」
誰かが、そんな呆然とした声を漏らしたのを、ひどく遠くに聞いた。
もしかしたら、それはわたしの口から漏れたのかもしれなかった。
「ふん」
その人は、つまらなそうに笑った。
お腹を深々と貫かれて……それでいて、全く感じていないように、笑ったんだ!
「そこに一片の意志すら宿らぬ鉄屑など、俺には痛くも痒くもないな」
そして、自分を貫いた剣を握る男の腕を握る。そのまま無造作にあらぬ方向へと曲げた。
折った、と理解するには時間がかかる。
そう感じるには、あまりにもあっさりとしすぎていたから。
そう。折られた本人さえも、しばらく呆然としてから、思い出したように悲鳴を上げるくらいに……無造作でありすぎたから。
「ば、化け物……!?」
誰かが震える声で口にした。
わたしにもわかった。
だって……普通の人間がお腹を引き裂かれて、あんなにも血を流していて、平然と笑っていられるはずがないもの。その傷が、見る見る癒えていくことなどありえないもの!
だから。
――化け物。
その人は、ヒトではない存在。
「ああ、その通りだ」
そう言われて、その人はまた笑った。
ののしられて、恐れられて、それでも――その人は笑う? どうして、笑えるの?
「ならば、問う。おまえ達は人間か? 欲望のままに殺し、本能のままに犯し、意味もなく破壊する! 犬畜生ですら、それなりの慈悲はあろう!? それとも、おまえ達の神とやらは、そこまで慈悲深いか!? 薄汚れた聖職者も金を積めば、赦したもうか!?」
笑い声とともに、赤い闇が舞い踊る。
「まあ、俺には慈悲などない」
悲鳴が次々と上がり、消えていく。
逃げたのか、殺されたのか……意識がぼやけていくわたしには、もうわからなかった。