The Fragment Of The Red World Ⅲ――断章其の三
男の子がいました。
女の子がいました。
ふたりは、幼馴染みでした。
女の子は泣き虫で、ほんのちょっとしたことでよく泣いていました。だから、男の子は自分よりも年下のその女の子を、手のかかる妹みたいに思っていたのかもしれません。
だけど、ふたりは本当に仲が良かったのです。
無理して背伸びしてついてくる女の子を、男の子はちょっとだけ邪魔に思ったとしても、たとえば転んで涙ぐめば、誰よりも一番に駆け寄って抱き起こしました。
ふたりは本当の兄妹みたいに仲がよかったのです。小さいふたりは、ふたりがもっと小さい時からずっと一緒だったのです。
でも、本当の兄妹ではありません。
いつまでもずっと、一緒にいられるわけではありません。
女の子は、男の子とずっと一緒にいたいと思いました。そして考えました。だったら、家族になればいいのだと。
そう思って、ある時女の子は男にこう言いました。
『ねえ、わたしが大きくなったらアルのお嫁さんにしてくれる?』
男の子はちょっと困って、同じくらいに照れたような顔をして、
『う~ん、そうだな。おまえがもう少し泣き虫じゃなくなったらな』
そう、答えました。
『わかった。じゃあ、約束だよ? ぜったい、ぜったいに約束だからね!』
『ああ、わかった。約束な』
そうして、ふたりはまだお互いに小さな指を絡ませました。
それは、約束でした。
もしかしたら、いつかは消えてしまうかもしれない儚い約束。
それでも、確かに約束でした――。
幼い愛を交わす男の子と女の子。
唇と唇が触れ合うだけの、優しい口付け。
微笑ましいはずのその光景に、どうしてかわたしは胸が苦しかった。
例えば。
そう、その先の悲劇を知る物語を読んでいるかのように。
胸が痛くて――
苦しくて、
◇
――口の中に流し込まれる何か。
それは、とても甘く。
とても心地よく、喉を通り過ぎていく。
身体中を流れて、潤いを満たしていく。
「……大丈夫?」
わたし――リーザは、目を覚ました。
心配そうにわたしを覗き込んでいる女の子の姿があった。
「……シェイラ?」
朦朧とした頭でわたしがつぶやくと、彼女はきょとんとした表情をした。
年頃ならば、シェイラよりも幼いと思う。
十歳に届くか届かないかくらい。その長い髪は、綺麗な金髪で、その瞳は澄んだ青色だった。――つまり、シェイラとは違う女の子。
左右に縛った小さなリボンが可愛らしい。
見慣れないはずの女の子だったのに、どうしてかどこかで見た気がした。ついさっき、見かけたかのように。
――だけど、一体どこで。
「えと……大丈夫、かな?」
困ったように、もう一度訊いてきた。きっと、わたしがぼんやりとしたままだったから。
「……うん。何とか……」
彼女の向こう側に見える空は、やっぱりまだ赤いままだった。
それでも、なぜだろう? 何かが違う。彼女の存在がそう思わせるのかとも思ったけど、わたしの頭がようやく理解する。
彼女の周りで、何かがきらきらと輝いている。
細かい、沢山の何かが見上げる空から舞い落ちていた。
わたしは起き上がろうとして――
支えにした両手が、何かを掻いた。
「……え?」
それは、白いものだった。
銀色に近い、淡い白。赤かったはずの大地をおおう白いもの。
見上げる。
空から降ってくる白いもの。
わたしは、その正体を知った。
「……雪?」
だけど、半信半疑。
確かに雪だった。
音もなく。
静かに。
舞うように。
わたしと女の子の周りにだけ――この紅い世界の中で、そこだけ雪が降っていたのだ。
それだけじゃない。
わたしの周りに、佇む幾つもの何か。
石造りの、それはお墓だった。
たくさんの墓標が、そこに立っていた。頭にだけわずかに雪が降り積もり、それぞれに名前が刻まれて、全部が綺麗に磨かれていて、全てに花が添えてある。
女の子が、ひとりでやっているのだろうか。
その光景にしばらく呆けていて、わたしは思い出す。
そうだ。
「……さっき、飲んだものは?」
嫌な予感に、身体の奥が凍りつく。恐怖にも似た感覚が、沸きあがってくる。
もしかして――それは。
わたしが、飲みたいと切望していたものだったのだろうか。
わたしの意志に関係なく、わたしの心に逆らって、吸血鬼の身体が欲していた赤い水、だったのだろうか。
口にした言葉は、半分くらいは自問だったけれども、彼女はきちんと質問として受け止めてくれたみたいだった。
わたしのすぐとなりに膝を折って座る。
可愛らしい桃色のワンピースから伸びた素足を投げ出す。それから手前の雪を両手ですくい取った。そこにふうっと息を吹きかける。
すると、どうだ。
雪はたちまち透き通った水へと変わったのだ。
彼女はそれをこくこくと飲む。
飲み干してから、わたしの方を見た。
わたしも膝を折って、座り直す。
自由になった両手で、彼女と同じように雪を掬い取って息を吹きかける。すると、同じように水がわたしの手の中に満たされた。
わたしはちらり、と女の子を見た。こくり、と頷いてみせる。
わたしは少し迷ってから。その水を一口だけ飲んでみた。
それは、とても甘く。
とても心地よく。
さっきまで渇き切っていたわたしを潤してくれた味だった。
わたしは夢中で飲み干して、もう一杯飲み干してから、彼女に向き直った。
「あなたが……助けてくれたの?」
「うん」
女の子は素直に頷いた。
「そうか……ごめんなさい。お礼が遅れて。その……わたしはリーザ。あなたは?」
「わたしはミアだよ」
「……ミア」
その名前を繰り返す。とても可愛らしい、彼女にはぴったりの名前だなと思った。
「ねえ……ミア、でいいかな?」
「うん。え~と」
「わたしもリーザ、でいいよ」
「そう? わかった」
何がそんなに嬉しいのか。
にこにこと笑う女の子――ミア。時折しか笑顔(それも、微笑)を見せなかったシェイラとは本当に対照的だなと思った。シェイラが幼い中に、年不相応の美しさを持っていたとすれば、ミアはきっと年齢相応に可愛い。
「……ねえ」
――ここは、どこなの? と質問しようとして、わたしは言葉に詰まった。
だって。
「……な、何!?」
突然に、ミアが身体を乗り出して、ぐいっとその顔をわたしに近づけてきたのだ。
彼女の方が大分小柄だから、下から見上げられるような格好になった。
わたしの顔をまじまじと見つめてくる。無警戒で、無防備な子猫を思わせるその仕草。何とも愛らしい。
「ちょ、ちょっと何?」
息がかかりそうな、距離。声が上ずってしまう。もしかしたら、ちょっとは顔も赤くなっているかもしれない。
「――アルの匂いがする」
「へ?」
予想もしなかった突然の言葉に、わたしは素っ頓狂な声を漏らした。
「リーザ、アルに似ている感じがするよ?」
不思議そうに、小首を傾げるミア。だけど、急にそんなことを言われても戸惑うだけだ。
アル。
一体、誰のことだろう? わたしに似ていると言われても、わたしに兄弟はいないし、もう死んでしまったお父さんとお母さんもそんな名前ではなかったはずだ。
――アル。
アル。
アル……?
ふと、思い出した。赤い闇をまとっていたその姿を思い出す。
――確か。
『アルーヴァ』と。シェイラは、そう彼のことを呼んでいた。
「……それって、アルーヴァさんのこと?」
何だか違和感がある。
だって、こんな小さな女の子が嬉しそうに口にする名前だとは思えなかったから。
「そう」
ミアは大きく頷いて、弾んだ声で彼の名前を口にした。
「アル……アルだよ!」
満面の笑顔で。
心の底から嬉しそうに。
その姿は――
大好きな男の子の名前を呼ぶ女の子に違いなかった。




