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私が死んだ日に届くはずだった、彼からの最後のメール――既読にできなかった「好きだ」の三文字が、今も受信トレイで眠っている

作者: uta
掲載日:2026/05/22

『好きだ』


たった三文字。


送信時刻は、午前三時十二分。

私が息を引き取った時刻の、三分前だった。



「藤宮さん、これ……息子さんから預かっていたものなんです」


看護師さんが差し出したのは、使い古されたスマートフォンだった。画面には見覚えのあるアイコン。蓮の、メールアプリ。


「毎日お見舞いに来られるたびに、『もし目を覚ましたら渡してほしい』って」


目を覚ましたら。


——私はもう、二ヶ月も目を覚ましていなかったのに。


震える指でスクロールする。未送信フォルダ。いや、違う。送信済み。全部、私宛。


『今日も読んでくれなくていい』

『ただ送りたいだけだから』

『お前が関わるなって言ったの、ちゃんと覚えてる』

『でも俺、お前の言うこと聞くの昔から下手だったろ』


一通、二通、十通、五十通——。


三百六十五通。


一年分の、返事のないメール。


『最後に一つだけ伝えたいことがある』

『好きだ』


送信時刻、午前三時十二分。

死亡確認時刻、午前三時十五分。


届いていた。ずっと届いていた。

私が見ようとしなかっただけで。


「……っ」


涙が止まらない。機械の音が遠くなる。心電図のピッチが乱れていく。


ああ、もう遅いのに。

既読をつけることすら、できないのに——。



目を開けた。


白い天井。でも病室じゃない。見覚えのある、木目調の照明カバー。開けっ放しのクローゼット。机の上の教科書。


私の、部屋?


跳ね起きて、枕元のスマートフォンを掴む。


画面に表示された日付を見て、息が止まった。


一年前。


「二度と連絡しないで」


——私が蓮にそう告げた、あの日の朝だった。



心臓がうるさい。


ベッドの上で、私は自分の手のひらを見つめていた。


細い。白い。でも点滴の跡がない。抗がん剤で抜け落ちたはずの髪が、ちゃんと肩にかかっている。


「……夢?」


違う。夢にしては鮮明すぎる。病室で聞いた心電図の音も、蓮のメールを読んだときの胸の痛みも、全部覚えている。


スマートフォンをもう一度確認する。


未読メッセージ、3件。


『明日の放課後、話したいことがある』

『屋上で待ってる』

『……ちゃんと来いよ』


蓮からだ。


一年前の私は、このメッセージを無視した。そして翌日、屋上で待つ彼の前に現れて——。


「もう関わらないで」

「迷惑なの」

「最初から、好きじゃなかった」


全部、嘘だった。


余命宣告を受けた夜、私が最初に思ったのは蓮のことだった。この人を、私の病気に巻き込んじゃいけない。私が死ぬところを見せたくない。だから嫌われて終わろう。そう決めた。


——馬鹿だった。


私が何を隠しても、彼は365日メールを送り続けた。返事がなくても、既読がつかなくても、ただ「好きだ」と伝えるために。


「っ……」


涙が頬を伝う。


未来の記憶。過去の後悔。今の私は、どちらも抱えている。


もし本当にやり直せるなら。


同じ過ちは、繰り返さない。



制服に着替えて、鏡の前に立つ。


痩せていない。顔色も悪くない。一年前の、まだ病気が進行する前の私だ。


リビングに降りると、母さんがキッチンに立っていた。


「あら、早いわね。朝ごはん、もうすぐできるから」


何気ない言葉。でも私は知っている。この人が私の入院中、毎晩泣いていたことを。「なんで言ってくれなかったの」と、声を殺して泣いていたことを。


「……母さん」


「ん?」


言わなきゃ。今度こそ、ちゃんと言わなきゃ。


でも喉が詰まる。未来で関わらないでと言った私がいる。傷つけた記憶がある。その罪悪感が、言葉を塞ぐ。


「……なんでもない」


「変な子ね」


母さんは笑って、味噌汁をよそった。


——駄目だ。


また逃げてる。


無意識に、左手で右手首を握りしめていた。



学校に着くと、空気の匂いが懐かしかった。


病室の消毒液じゃない。グラウンドの土と、どこかで焼いてるパンの匂い。生きている人たちの、日常の匂い。


「咲良ー!」


振り向くと、栗色の髪が揺れていた。白石凛花。私の「親友」。


——本当は、そうじゃないって知ってる。


未来の記憶がある。この子が蓮に近づこうとしていたこと。私が別れた後、嬉しそうにしていたこと。でも私の病気を知って、泣きながら謝ってきたことも。


「おはよ、凛花」


「ねえ聞いてよ、昨日の蓮くんさあ——」


心臓が跳ねる。蓮の名前を聞くだけで、体が強張る。


「部活終わりに声かけたんだけど、すっごい素っ気なくて。やっぱ咲良のことしか見えてないんだねー」


笑顔の裏にある棘。一年前の私は気づかなかった。気づかないふりをしていた。


「……そうかな」


「そうだよー。あ、そういえば今日蓮くんから呼び出されてるんでしょ? 何の話だろうね」


なんで知ってるの、とは聞かない。この子は蓮のことをよく見ているから。


「わかんない」


「えー、絶対告白じゃん。いいなあ、咲良は」


告白じゃない。あれは確認だった。


『最近お前、俺のこと避けてない?』って聞かれたんだ。私が病気のことを隠し始めて、距離を取り始めた頃。


一年前の私は、その質問に「そうだよ」と答えた。そして——。


「藤宮」


低い声が、背後から聞こえた。


振り向く。息が止まる。


蓮がいた。


日向蓮。茶色い髪、広い肩、少し緩んだネクタイ。犬みたいに真っ直ぐで、不器用で、馬鹿みたいに一途な、私の——。


「っ……」


涙が込み上げる。


未来の記憶がフラッシュバックする。「好きだ」の三文字。365通のメール。読めなかった、読まなかった、届いていたのに。


「お前、なんで泣いてんだよ」


蓮が眉をひそめる。困ったような、でも優しい目。一年前と同じ。一年後も、きっと同じだった。


「っ、なんでも……」


「なんでもないって顔じゃねえだろ」


大きな手が伸びてくる。私の頬に触れようとする。


——逃げちゃ駄目。


今度こそ、ちゃんと向き合わなきゃ。


なのに体が動かない。足が竦む。あの日と同じ言葉が喉元までせり上がってくる。


「もう関わらないで」


言っちゃ駄目。言ったら、また同じことの繰り返しになる。


「……っ」


私は、蓮の手を振り払って走り出した。


「おい、藤宮!」


背中に声が追いかけてくる。でも振り向けない。


変わりたいのに、変われない。


未来を知っているのに、同じ過ちを繰り返そうとする。


——最低だ、私。



逃げ込んだのは、屋上だった。


皮肉なことに、一年前に蓮を突き放した場所。フェンス越しに街が見える。風が髪を乱す。


「……はあ」


膝を抱えて座り込む。


何やってるんだろう、私。やり直せるチャンスをもらったのに、結局逃げてる。


『お前が何を隠してても、俺は関係ない』

『ただ隣にいたいだけだ』


未来の蓮が送ってきたメール。365通の中の一つ。返事がないと知りながら、彼はずっと送り続けていた。


——私には、その覚悟がない。


傷つけるのが怖い。傷つくのも怖い。だから逃げる。一人で抱え込む。「大丈夫」「気にしないで」で誤魔化す。


それが、蓮を一番傷つけていたのに。


「やっぱここにいた」


顔を上げると、翔太が立っていた。蓮の親友。人懐っこい丸顔に、そばかす。手にはスポーツドリンクのペットボトル。


「川上……くん」


「翔太でいいよ、藤宮さん。つーかさ、蓮のやつめちゃくちゃ心配してんだけど」


翔太は私の隣にどかっと座った。ペットボトルを差し出してくる。


「いらない」


「まあそう言わずに。泣いた後って喉乾くっしょ」


……否定できない。


仕方なく受け取って、キャップを開ける。


「あのさ、藤宮さん」


翔太の声が、少しだけ真剣になった。


「蓮がお前のこと好きなの、知ってるよな」


「……」


「あいつ、マジで不器用だから。大事なことほど言葉にできねえの。でもさ、行動は嘘つかないから」


行動。365通のメール。返事がなくても送り続けた一年間。


「俺、蓮がお前と別れてから——あ、いや、まだ別れてねえか。んー、なんつーか、お前が避け始めてからさ、あいつずっと変だったんだよ」


「変?」


「笑わなくなった。っていうか、お前のことばっか見てる。お前が他の男と話してるとソワソワするし、お前が早退するとそれだけで一日中うわの空だし」


翔太はため息をついた。


「あのさ、何があったか知らねえけど。蓮のこと、ちゃんと話聞いてやってくんない? あいつ、お前のこと諦める気ねえから」


——知ってる。


一年経っても諦めなかったことを、私は知っている。


「……私」


言葉が詰まる。


「私、蓮を傷つけると思う」


「は?」


「私といると、蓮は不幸になる。だから——」


「それ、お前が決めることじゃなくね?」


翔太が遮った。その目が、珍しく鋭い。


「蓮が幸せかどうかは蓮が決めることだろ。お前が勝手に『こいつのために離れよう』とか決めんの、違くね?」


「……っ」


「俺さ、蓮の親友としてはっきり言うけど。あいつはお前と一緒にいたいんだよ。たとえお前が病気でも、余命宣告されてても、なんでも」


息が止まった。


「なんで——」


「あ、やべ。言っちゃった」


翔太は頭を掻いた。


「いや、俺知らねえよ? 勘っつーか、なんとなく。藤宮さん、最近すげえ痩せたし、病院っぽい匂いすんなって思ってさ」


私の体は確かに一年前に戻っている。でも未来から持ち帰った「空気」みたいなものが、残っているのかもしれない。


「……もし、そうだったら」


「うん」


「蓮は、どうすると思う?」


翔太は即答した。


「お前の隣にいるに決まってんだろ」



屋上のドアが開いた。


「——っ、やっぱここか」


蓮だった。息を切らしている。走ってきたのか、頬が赤い。


「おー、蓮。早かったな」


「お前が呼んだんだろうが」


「いやー、藤宮さんが話あるって言うからさ」


「は? 俺には話があるから来いって——」


翔太がこっそりスマホを見せた。蓮と私、両方を呼び出すために嘘をついたらしい。


「じゃ、俺帰るわ。頑張れよー」


「おい翔太!」


「川上くん——」


翔太は親指を立てて、屋上から消えた。


残されたのは、私と蓮だけ。


フェンス越しに夕陽が落ちていく。オレンジ色の光が、蓮の横顔を染めていた。


「……」


「……」


沈黙が痛い。


一年前は、ここで私が口を開いた。「もう関わらないで」と。


今度は違う言葉を言わなきゃいけない。でも何を言えばいいのかわからない。


「なあ、藤宮」


蓮が先に口を開いた。


「朝、なんで泣いてた」


「……」


「最近ずっと変だろ。俺のこと避けるし、目合わせねえし。なんかあったなら言えよ」


言えない。未来から来たなんて、言えるわけない。


「お前さ、俺のこともう好きじゃねえの?」


心臓が跳ねた。


「違っ——」


「じゃあなんで逃げんだよ」


蓮の声が震えていた。怒っているのか、悲しんでいるのか、わからない。


「俺、お前が何考えてんのかわかんねえよ。いきなり距離取られてさ、何回話しかけても『大丈夫』しか言わねえし」


「だって——」


「『だって』じゃねえよ。俺にも知る権利あるだろ。お前の彼氏なんだから」


彼氏。そうだ。まだ別れていない。一年前の今日、私が突き放すまでは、私たちはまだ恋人同士だった。


「……蓮」


「なんだよ」


「私——」


言わなきゃ。今度こそ。


逃げたら、また同じことを繰り返す。365通のメールを読めないまま死ぬ。蓮を一人にする。


左手で右手首を握りしめる。震えが止まらない。でも、今度こそ。


「——病気なの」


声が震えた。


「余命、宣告されてる。たぶん、一年もたない」


蓮の顔から、表情が消えた。


「だから、私と一緒にいても辛いだけだから。蓮のことを巻き込みたくないから。だからずっと——」


「……っ、」


蓮が動いた。大きな歩幅で距離を詰めて、私を抱きしめる。


「れ、蓮——」


「黙れ」


低い声。耳元で吐息が震えている。


「……なんで言わなかった」


「だって——」


「俺はお前の彼氏だろ。一番近くにいるやつだろ」


肩が震えていた。蓮の肩が。


「俺にも、一緒に怖がる権利くらいあるだろ」


——ああ。


未来のメールで読んだ言葉だ。でも、声で聞くと全然違う。


震えている。泣いている。私のために、泣いてくれている。


「ごめん……」


「謝んな」


「でも——」


「謝んなって言ってんだろ」


蓮が顔を上げた。目が真っ赤だった。初めて見る、彼の涙。耳まで赤くなっている。


「お前が病気でも、余命宣告されてても、俺は関係ねえ。ただ隣にいたいだけだ」


未来のメールと、同じ言葉。


違うのは、今度はちゃんと聞けていること。


「……私、ずるいよ」


「知ってる」


「わがままだよ」


「それも知ってる」


「本当は、一人で死にたくなかった」


声が裏返った。


「ずっと隣にいてほしかった。でも言えなかった。言ったら蓮を縛っちゃうと思って——」


「縛れよ」


蓮が言った。真っ直ぐに、迷いなく。


「俺はお前に縛られたい。一生かかっても解けないくらい、縛ってくれ」


泣いた。声を上げて泣いた。


蓮の胸に顔を埋めて、子供みたいに泣きじゃくった。


「……っ、う、ぁ……」


「泣け。全部吐け」


大きな手が、背中をさすってくれる。温かい。生きている体温。


「俺はどこにも行かねえから」


——ああ、そうだ。


この人は、どこにも行かない。


365日メールを送り続けるような人だから。返事がなくても、既読がつかなくても、ただ「好きだ」と伝え続ける人だから。


私は、この人に愛されていい。


幸せになっていい。


今度こそ、ちゃんと受け取っていい。



翌日、私は蓮と一緒に病院へ行った。


西園寺先生——白髪交じりの、穏やかな目をした担当医——は、私の顔を見て少し驚いた表情を見せた。


「藤宮さん、今度は早く来てくれましたね」


「……はい」


「彼氏さんですか」


「……はい」


蓮が私の手を握る。大きな手。震えているのは、私の方だ。


「早期に検査を受け直してよかった。治療の選択肢が、だいぶ広がりますよ」


先生の言葉に、蓮が息を呑む。


「助かる、んですか」


「絶対とは言えません。でも、可能性は十分にあります」


先生は私を真っ直ぐ見た。


「藤宮さん。生きたいと思うことは、わがままじゃありませんよ。誰かに頼ることも、弱さじゃない」


——生きたい。


一年前の私は、それすら言えなかった。


今は違う。隣に蓮がいる。手を握ってくれている。


「……先生」


「はい」


「私、生きたいです」


声が震えた。でも、ちゃんと言えた。


「治療、頑張ります」


先生が微笑んだ。蓮が私の手を、もっと強く握った。



それから一年。


治療は辛かった。抗がん剤の副作用で髪が抜けた。吐き気が止まらない日もあった。


でも蓮はずっと隣にいた。


毎日お見舞いに来て、くだらない話をして、私が泣くと黙って背中をさすってくれた。


凛花は——あの日、病院で私たちを見かけたらしい。しばらく姿を見せなかったけど、ある日突然お見舞いに来た。


「……私、最低だった」


泣きながらそう言った。


「咲良のこと、ずっと妬んでた。蓮くんと別れればいいって思ってた。でも——」


私は何も言わなかった。ただ、「ありがとう」とだけ言った。


完全に許せたわけじゃない。でも、彼女が自分の醜さに気づいて、それでも謝りに来たことは、少しだけ嬉しかった。


母さんは、私が入院した日に泣いた。


「なんで……なんで言ってくれなかったの」


「ごめん。心配かけたくなくて」


「馬鹿。母さんにも、言ってほしかった」


荒れた手で、私の頬を撫でた。


「あんたが幸せなら、それでいいの。でも、一人で抱え込まないで」


——ああ、そうだ。


私はずっと、一人で抱え込んでいた。


迷惑をかけたくない。心配させたくない。そう言い訳して、本当は自分が傷つくのが怖かっただけ。


誰かに頼ることが、こんなに温かいなんて知らなかった。



——一年後。



目を開けると、白い天井があった。


見覚えがある。病室の天井。でも前とは違う。機械の音が穏やかだ。体に繋がれた管の数も、ずっと少ない。


「……っ」


体を起こそうとして、右手に温もりを感じた。


見下ろす。


大きな手が、私の手を握っている。


椅子に座ったまま、突っ伏して眠る茶色い頭。少し伸びた髪。ネクタイは相変わらず緩い。


「蓮……」


「——っ、咲良!?」


弾かれたように顔を上げる。目の下にクマ。伸びた無精髭。ひどい顔。でも、世界で一番好きな顔。


「お前、今起きたのか? 待て、先生呼んでくる——」


「待って」


「でも——」


「いいから。もう少しだけ」


蓮の手を握り返す。温かい。生きている。私も、生きている。


「……手術、成功したって」


蓮が言った。声が震えている。


「西園寺先生が言ってた。早期に治療を始めたから、完治の見込みがあるって」


一年前に病気を打ち明けたこと。すぐに検査を受け直したこと。治療の選択肢が広がったこと。


全部、未来を変えた結果だ。


「……よかった」


「よかったじゃねえよ馬鹿」


蓮が泣いていた。一年前の屋上と同じ顔で、ぼろぼろ涙を流している。耳まで真っ赤だ。


「俺がどんだけ心配したと——手術中ずっと待合室にいて——お前が目覚まさなかったらどうしようって——」


「ごめん」


「謝んな」


「ありがとう」


「……っ、」


蓮が私の手を額に押し当てた。熱い雫が、手の甲に落ちる。


「お前が生きててよかった」


「……うん」


「本当に、よかった」


私も泣いていた。


一年前、同じ病室で未来の記憶を抱えて目覚めた朝。あの時は絶望しかなかった。365通のメール。「好きだ」の三文字。届いていたのに、読めなかった後悔。


今は違う。隣に蓮がいる。手を握ってくれている。


生きていて、よかった。



「そういえばさ」


蓮が鼻をすすりながら、ポケットをまさぐった。


「これ」


スマートフォンを差し出される。画面には、メールアプリ。


「お前が手術室に入る前に送ったんだけど。読んだ?」


心臓が跳ねた。


「……読んでない」


「マジか。じゃあ今読め」


「今?」


「今」


震える指で、メールを開く。


『退院したら、伝えたいことがある』

『今度は直接言う』

『ちゃんと聞けよ』


——ああ。


知っている構造だ。未来の、365通目のメールと同じ。でも最後の一文が違う。「好きだ」じゃない。


「伝えたいことって」


「退院してから言う」


「ずるい」


「お前に言われたくねえよ」


蓮が笑った。泣きながら、笑った。目尻が下がって、犬みたいに人懐っこい顔。


私も笑う。一年ぶりに、心の底から。


既読をつける。未来ではできなかったこと。


届いたその日に、ちゃんと読む。ちゃんと返事をする。


今度は、それができる。


「ねえ、蓮」


「ん」


「私からも、伝えたいことがあるの」


「……なんだよ」


「退院したらね」


「お前もずりいな」


「お互い様」


窓の外には、春の陽射し。桜が散り始めている。


一年前の私は、この季節を見届けられないと思っていた。


今は違う。


来年も、再来年も、ずっと見届けられる。蓮と一緒に。



——退院の日。


病院の玄関を出ると、春の風が頬を撫でた。


桜はもう散りかけている。花びらがアスファルトに張り付いて、ピンク色の絨毯みたいだった。


「咲良」


振り向くと、蓮が立っていた。


制服じゃない。私服姿は久しぶりに見る。シンプルな白いシャツに、ジーンズ。やっぱり第一ボタンは開けている。


「……なに」


「メールの続き。言っていい?」


心臓がうるさい。


「……うん」


蓮が一歩、近づく。


「俺、お前のこと好きだ」


知ってる。365通のメールで、最後に書かれていた言葉。


「一年前も好きだった。お前に突き放されても、メール無視されても、ずっと好きだった」


「……っ」


「でも今は、ちゃんと言える。直接、お前の顔見て」


蓮の目が、真っ直ぐ私を見ている。


「これからも隣にいていいか」


涙が溢れた。


一年前、私が拒絶した言葉。本当はずっと聞きたかった言葉。


「……っ、私も」


声が震える。でも、ちゃんと言う。


「私も、蓮のこと好き。ずっと好きだった。一人で死にたくなかった。蓮の隣にいたかった」


「……っ、馬鹿。泣くなよ」


「蓮も泣いてるじゃん」


「うるせえ」


蓮が笑った。泣きながら、笑った。


大きな手が伸びてきて、私を抱きしめる。


温かい。生きている体温。私も生きている。


「これからも、メール送っていい?」


「……毎日?」


「毎日。でも今度は、ちゃんと読めよ」


「読む。返事もする」


「……そっか」


蓮の声が、少しだけ嬉しそうに震えた。



ポケットの中で、スマートフォンが震えた。


『好きだ』


——たった三文字。


でも今度は、届いたその日に読める。


既読をつけて、返事を打つ。


『私も』


送信ボタンを押す指は、もう震えていなかった。

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