私が死んだ日に届くはずだった、彼からの最後のメール――既読にできなかった「好きだ」の三文字が、今も受信トレイで眠っている
『好きだ』
たった三文字。
送信時刻は、午前三時十二分。
私が息を引き取った時刻の、三分前だった。
◇
「藤宮さん、これ……息子さんから預かっていたものなんです」
看護師さんが差し出したのは、使い古されたスマートフォンだった。画面には見覚えのあるアイコン。蓮の、メールアプリ。
「毎日お見舞いに来られるたびに、『もし目を覚ましたら渡してほしい』って」
目を覚ましたら。
——私はもう、二ヶ月も目を覚ましていなかったのに。
震える指でスクロールする。未送信フォルダ。いや、違う。送信済み。全部、私宛。
『今日も読んでくれなくていい』
『ただ送りたいだけだから』
『お前が関わるなって言ったの、ちゃんと覚えてる』
『でも俺、お前の言うこと聞くの昔から下手だったろ』
一通、二通、十通、五十通——。
三百六十五通。
一年分の、返事のないメール。
『最後に一つだけ伝えたいことがある』
『好きだ』
送信時刻、午前三時十二分。
死亡確認時刻、午前三時十五分。
届いていた。ずっと届いていた。
私が見ようとしなかっただけで。
「……っ」
涙が止まらない。機械の音が遠くなる。心電図のピッチが乱れていく。
ああ、もう遅いのに。
既読をつけることすら、できないのに——。
◇
目を開けた。
白い天井。でも病室じゃない。見覚えのある、木目調の照明カバー。開けっ放しのクローゼット。机の上の教科書。
私の、部屋?
跳ね起きて、枕元のスマートフォンを掴む。
画面に表示された日付を見て、息が止まった。
一年前。
「二度と連絡しないで」
——私が蓮にそう告げた、あの日の朝だった。
◇
心臓がうるさい。
ベッドの上で、私は自分の手のひらを見つめていた。
細い。白い。でも点滴の跡がない。抗がん剤で抜け落ちたはずの髪が、ちゃんと肩にかかっている。
「……夢?」
違う。夢にしては鮮明すぎる。病室で聞いた心電図の音も、蓮のメールを読んだときの胸の痛みも、全部覚えている。
スマートフォンをもう一度確認する。
未読メッセージ、3件。
『明日の放課後、話したいことがある』
『屋上で待ってる』
『……ちゃんと来いよ』
蓮からだ。
一年前の私は、このメッセージを無視した。そして翌日、屋上で待つ彼の前に現れて——。
「もう関わらないで」
「迷惑なの」
「最初から、好きじゃなかった」
全部、嘘だった。
余命宣告を受けた夜、私が最初に思ったのは蓮のことだった。この人を、私の病気に巻き込んじゃいけない。私が死ぬところを見せたくない。だから嫌われて終わろう。そう決めた。
——馬鹿だった。
私が何を隠しても、彼は365日メールを送り続けた。返事がなくても、既読がつかなくても、ただ「好きだ」と伝えるために。
「っ……」
涙が頬を伝う。
未来の記憶。過去の後悔。今の私は、どちらも抱えている。
もし本当にやり直せるなら。
同じ過ちは、繰り返さない。
◇
制服に着替えて、鏡の前に立つ。
痩せていない。顔色も悪くない。一年前の、まだ病気が進行する前の私だ。
リビングに降りると、母さんがキッチンに立っていた。
「あら、早いわね。朝ごはん、もうすぐできるから」
何気ない言葉。でも私は知っている。この人が私の入院中、毎晩泣いていたことを。「なんで言ってくれなかったの」と、声を殺して泣いていたことを。
「……母さん」
「ん?」
言わなきゃ。今度こそ、ちゃんと言わなきゃ。
でも喉が詰まる。未来で関わらないでと言った私がいる。傷つけた記憶がある。その罪悪感が、言葉を塞ぐ。
「……なんでもない」
「変な子ね」
母さんは笑って、味噌汁をよそった。
——駄目だ。
また逃げてる。
無意識に、左手で右手首を握りしめていた。
◇
学校に着くと、空気の匂いが懐かしかった。
病室の消毒液じゃない。グラウンドの土と、どこかで焼いてるパンの匂い。生きている人たちの、日常の匂い。
「咲良ー!」
振り向くと、栗色の髪が揺れていた。白石凛花。私の「親友」。
——本当は、そうじゃないって知ってる。
未来の記憶がある。この子が蓮に近づこうとしていたこと。私が別れた後、嬉しそうにしていたこと。でも私の病気を知って、泣きながら謝ってきたことも。
「おはよ、凛花」
「ねえ聞いてよ、昨日の蓮くんさあ——」
心臓が跳ねる。蓮の名前を聞くだけで、体が強張る。
「部活終わりに声かけたんだけど、すっごい素っ気なくて。やっぱ咲良のことしか見えてないんだねー」
笑顔の裏にある棘。一年前の私は気づかなかった。気づかないふりをしていた。
「……そうかな」
「そうだよー。あ、そういえば今日蓮くんから呼び出されてるんでしょ? 何の話だろうね」
なんで知ってるの、とは聞かない。この子は蓮のことをよく見ているから。
「わかんない」
「えー、絶対告白じゃん。いいなあ、咲良は」
告白じゃない。あれは確認だった。
『最近お前、俺のこと避けてない?』って聞かれたんだ。私が病気のことを隠し始めて、距離を取り始めた頃。
一年前の私は、その質問に「そうだよ」と答えた。そして——。
「藤宮」
低い声が、背後から聞こえた。
振り向く。息が止まる。
蓮がいた。
日向蓮。茶色い髪、広い肩、少し緩んだネクタイ。犬みたいに真っ直ぐで、不器用で、馬鹿みたいに一途な、私の——。
「っ……」
涙が込み上げる。
未来の記憶がフラッシュバックする。「好きだ」の三文字。365通のメール。読めなかった、読まなかった、届いていたのに。
「お前、なんで泣いてんだよ」
蓮が眉をひそめる。困ったような、でも優しい目。一年前と同じ。一年後も、きっと同じだった。
「っ、なんでも……」
「なんでもないって顔じゃねえだろ」
大きな手が伸びてくる。私の頬に触れようとする。
——逃げちゃ駄目。
今度こそ、ちゃんと向き合わなきゃ。
なのに体が動かない。足が竦む。あの日と同じ言葉が喉元までせり上がってくる。
「もう関わらないで」
言っちゃ駄目。言ったら、また同じことの繰り返しになる。
「……っ」
私は、蓮の手を振り払って走り出した。
「おい、藤宮!」
背中に声が追いかけてくる。でも振り向けない。
変わりたいのに、変われない。
未来を知っているのに、同じ過ちを繰り返そうとする。
——最低だ、私。
◇
逃げ込んだのは、屋上だった。
皮肉なことに、一年前に蓮を突き放した場所。フェンス越しに街が見える。風が髪を乱す。
「……はあ」
膝を抱えて座り込む。
何やってるんだろう、私。やり直せるチャンスをもらったのに、結局逃げてる。
『お前が何を隠してても、俺は関係ない』
『ただ隣にいたいだけだ』
未来の蓮が送ってきたメール。365通の中の一つ。返事がないと知りながら、彼はずっと送り続けていた。
——私には、その覚悟がない。
傷つけるのが怖い。傷つくのも怖い。だから逃げる。一人で抱え込む。「大丈夫」「気にしないで」で誤魔化す。
それが、蓮を一番傷つけていたのに。
「やっぱここにいた」
顔を上げると、翔太が立っていた。蓮の親友。人懐っこい丸顔に、そばかす。手にはスポーツドリンクのペットボトル。
「川上……くん」
「翔太でいいよ、藤宮さん。つーかさ、蓮のやつめちゃくちゃ心配してんだけど」
翔太は私の隣にどかっと座った。ペットボトルを差し出してくる。
「いらない」
「まあそう言わずに。泣いた後って喉乾くっしょ」
……否定できない。
仕方なく受け取って、キャップを開ける。
「あのさ、藤宮さん」
翔太の声が、少しだけ真剣になった。
「蓮がお前のこと好きなの、知ってるよな」
「……」
「あいつ、マジで不器用だから。大事なことほど言葉にできねえの。でもさ、行動は嘘つかないから」
行動。365通のメール。返事がなくても送り続けた一年間。
「俺、蓮がお前と別れてから——あ、いや、まだ別れてねえか。んー、なんつーか、お前が避け始めてからさ、あいつずっと変だったんだよ」
「変?」
「笑わなくなった。っていうか、お前のことばっか見てる。お前が他の男と話してるとソワソワするし、お前が早退するとそれだけで一日中うわの空だし」
翔太はため息をついた。
「あのさ、何があったか知らねえけど。蓮のこと、ちゃんと話聞いてやってくんない? あいつ、お前のこと諦める気ねえから」
——知ってる。
一年経っても諦めなかったことを、私は知っている。
「……私」
言葉が詰まる。
「私、蓮を傷つけると思う」
「は?」
「私といると、蓮は不幸になる。だから——」
「それ、お前が決めることじゃなくね?」
翔太が遮った。その目が、珍しく鋭い。
「蓮が幸せかどうかは蓮が決めることだろ。お前が勝手に『こいつのために離れよう』とか決めんの、違くね?」
「……っ」
「俺さ、蓮の親友としてはっきり言うけど。あいつはお前と一緒にいたいんだよ。たとえお前が病気でも、余命宣告されてても、なんでも」
息が止まった。
「なんで——」
「あ、やべ。言っちゃった」
翔太は頭を掻いた。
「いや、俺知らねえよ? 勘っつーか、なんとなく。藤宮さん、最近すげえ痩せたし、病院っぽい匂いすんなって思ってさ」
私の体は確かに一年前に戻っている。でも未来から持ち帰った「空気」みたいなものが、残っているのかもしれない。
「……もし、そうだったら」
「うん」
「蓮は、どうすると思う?」
翔太は即答した。
「お前の隣にいるに決まってんだろ」
◇
屋上のドアが開いた。
「——っ、やっぱここか」
蓮だった。息を切らしている。走ってきたのか、頬が赤い。
「おー、蓮。早かったな」
「お前が呼んだんだろうが」
「いやー、藤宮さんが話あるって言うからさ」
「は? 俺には話があるから来いって——」
翔太がこっそりスマホを見せた。蓮と私、両方を呼び出すために嘘をついたらしい。
「じゃ、俺帰るわ。頑張れよー」
「おい翔太!」
「川上くん——」
翔太は親指を立てて、屋上から消えた。
残されたのは、私と蓮だけ。
フェンス越しに夕陽が落ちていく。オレンジ色の光が、蓮の横顔を染めていた。
「……」
「……」
沈黙が痛い。
一年前は、ここで私が口を開いた。「もう関わらないで」と。
今度は違う言葉を言わなきゃいけない。でも何を言えばいいのかわからない。
「なあ、藤宮」
蓮が先に口を開いた。
「朝、なんで泣いてた」
「……」
「最近ずっと変だろ。俺のこと避けるし、目合わせねえし。なんかあったなら言えよ」
言えない。未来から来たなんて、言えるわけない。
「お前さ、俺のこともう好きじゃねえの?」
心臓が跳ねた。
「違っ——」
「じゃあなんで逃げんだよ」
蓮の声が震えていた。怒っているのか、悲しんでいるのか、わからない。
「俺、お前が何考えてんのかわかんねえよ。いきなり距離取られてさ、何回話しかけても『大丈夫』しか言わねえし」
「だって——」
「『だって』じゃねえよ。俺にも知る権利あるだろ。お前の彼氏なんだから」
彼氏。そうだ。まだ別れていない。一年前の今日、私が突き放すまでは、私たちはまだ恋人同士だった。
「……蓮」
「なんだよ」
「私——」
言わなきゃ。今度こそ。
逃げたら、また同じことを繰り返す。365通のメールを読めないまま死ぬ。蓮を一人にする。
左手で右手首を握りしめる。震えが止まらない。でも、今度こそ。
「——病気なの」
声が震えた。
「余命、宣告されてる。たぶん、一年もたない」
蓮の顔から、表情が消えた。
「だから、私と一緒にいても辛いだけだから。蓮のことを巻き込みたくないから。だからずっと——」
「……っ、」
蓮が動いた。大きな歩幅で距離を詰めて、私を抱きしめる。
「れ、蓮——」
「黙れ」
低い声。耳元で吐息が震えている。
「……なんで言わなかった」
「だって——」
「俺はお前の彼氏だろ。一番近くにいるやつだろ」
肩が震えていた。蓮の肩が。
「俺にも、一緒に怖がる権利くらいあるだろ」
——ああ。
未来のメールで読んだ言葉だ。でも、声で聞くと全然違う。
震えている。泣いている。私のために、泣いてくれている。
「ごめん……」
「謝んな」
「でも——」
「謝んなって言ってんだろ」
蓮が顔を上げた。目が真っ赤だった。初めて見る、彼の涙。耳まで赤くなっている。
「お前が病気でも、余命宣告されてても、俺は関係ねえ。ただ隣にいたいだけだ」
未来のメールと、同じ言葉。
違うのは、今度はちゃんと聞けていること。
「……私、ずるいよ」
「知ってる」
「わがままだよ」
「それも知ってる」
「本当は、一人で死にたくなかった」
声が裏返った。
「ずっと隣にいてほしかった。でも言えなかった。言ったら蓮を縛っちゃうと思って——」
「縛れよ」
蓮が言った。真っ直ぐに、迷いなく。
「俺はお前に縛られたい。一生かかっても解けないくらい、縛ってくれ」
泣いた。声を上げて泣いた。
蓮の胸に顔を埋めて、子供みたいに泣きじゃくった。
「……っ、う、ぁ……」
「泣け。全部吐け」
大きな手が、背中をさすってくれる。温かい。生きている体温。
「俺はどこにも行かねえから」
——ああ、そうだ。
この人は、どこにも行かない。
365日メールを送り続けるような人だから。返事がなくても、既読がつかなくても、ただ「好きだ」と伝え続ける人だから。
私は、この人に愛されていい。
幸せになっていい。
今度こそ、ちゃんと受け取っていい。
◇
翌日、私は蓮と一緒に病院へ行った。
西園寺先生——白髪交じりの、穏やかな目をした担当医——は、私の顔を見て少し驚いた表情を見せた。
「藤宮さん、今度は早く来てくれましたね」
「……はい」
「彼氏さんですか」
「……はい」
蓮が私の手を握る。大きな手。震えているのは、私の方だ。
「早期に検査を受け直してよかった。治療の選択肢が、だいぶ広がりますよ」
先生の言葉に、蓮が息を呑む。
「助かる、んですか」
「絶対とは言えません。でも、可能性は十分にあります」
先生は私を真っ直ぐ見た。
「藤宮さん。生きたいと思うことは、わがままじゃありませんよ。誰かに頼ることも、弱さじゃない」
——生きたい。
一年前の私は、それすら言えなかった。
今は違う。隣に蓮がいる。手を握ってくれている。
「……先生」
「はい」
「私、生きたいです」
声が震えた。でも、ちゃんと言えた。
「治療、頑張ります」
先生が微笑んだ。蓮が私の手を、もっと強く握った。
◇
それから一年。
治療は辛かった。抗がん剤の副作用で髪が抜けた。吐き気が止まらない日もあった。
でも蓮はずっと隣にいた。
毎日お見舞いに来て、くだらない話をして、私が泣くと黙って背中をさすってくれた。
凛花は——あの日、病院で私たちを見かけたらしい。しばらく姿を見せなかったけど、ある日突然お見舞いに来た。
「……私、最低だった」
泣きながらそう言った。
「咲良のこと、ずっと妬んでた。蓮くんと別れればいいって思ってた。でも——」
私は何も言わなかった。ただ、「ありがとう」とだけ言った。
完全に許せたわけじゃない。でも、彼女が自分の醜さに気づいて、それでも謝りに来たことは、少しだけ嬉しかった。
母さんは、私が入院した日に泣いた。
「なんで……なんで言ってくれなかったの」
「ごめん。心配かけたくなくて」
「馬鹿。母さんにも、言ってほしかった」
荒れた手で、私の頬を撫でた。
「あんたが幸せなら、それでいいの。でも、一人で抱え込まないで」
——ああ、そうだ。
私はずっと、一人で抱え込んでいた。
迷惑をかけたくない。心配させたくない。そう言い訳して、本当は自分が傷つくのが怖かっただけ。
誰かに頼ることが、こんなに温かいなんて知らなかった。
◇
——一年後。
◇
目を開けると、白い天井があった。
見覚えがある。病室の天井。でも前とは違う。機械の音が穏やかだ。体に繋がれた管の数も、ずっと少ない。
「……っ」
体を起こそうとして、右手に温もりを感じた。
見下ろす。
大きな手が、私の手を握っている。
椅子に座ったまま、突っ伏して眠る茶色い頭。少し伸びた髪。ネクタイは相変わらず緩い。
「蓮……」
「——っ、咲良!?」
弾かれたように顔を上げる。目の下にクマ。伸びた無精髭。ひどい顔。でも、世界で一番好きな顔。
「お前、今起きたのか? 待て、先生呼んでくる——」
「待って」
「でも——」
「いいから。もう少しだけ」
蓮の手を握り返す。温かい。生きている。私も、生きている。
「……手術、成功したって」
蓮が言った。声が震えている。
「西園寺先生が言ってた。早期に治療を始めたから、完治の見込みがあるって」
一年前に病気を打ち明けたこと。すぐに検査を受け直したこと。治療の選択肢が広がったこと。
全部、未来を変えた結果だ。
「……よかった」
「よかったじゃねえよ馬鹿」
蓮が泣いていた。一年前の屋上と同じ顔で、ぼろぼろ涙を流している。耳まで真っ赤だ。
「俺がどんだけ心配したと——手術中ずっと待合室にいて——お前が目覚まさなかったらどうしようって——」
「ごめん」
「謝んな」
「ありがとう」
「……っ、」
蓮が私の手を額に押し当てた。熱い雫が、手の甲に落ちる。
「お前が生きててよかった」
「……うん」
「本当に、よかった」
私も泣いていた。
一年前、同じ病室で未来の記憶を抱えて目覚めた朝。あの時は絶望しかなかった。365通のメール。「好きだ」の三文字。届いていたのに、読めなかった後悔。
今は違う。隣に蓮がいる。手を握ってくれている。
生きていて、よかった。
◇
「そういえばさ」
蓮が鼻をすすりながら、ポケットをまさぐった。
「これ」
スマートフォンを差し出される。画面には、メールアプリ。
「お前が手術室に入る前に送ったんだけど。読んだ?」
心臓が跳ねた。
「……読んでない」
「マジか。じゃあ今読め」
「今?」
「今」
震える指で、メールを開く。
『退院したら、伝えたいことがある』
『今度は直接言う』
『ちゃんと聞けよ』
——ああ。
知っている構造だ。未来の、365通目のメールと同じ。でも最後の一文が違う。「好きだ」じゃない。
「伝えたいことって」
「退院してから言う」
「ずるい」
「お前に言われたくねえよ」
蓮が笑った。泣きながら、笑った。目尻が下がって、犬みたいに人懐っこい顔。
私も笑う。一年ぶりに、心の底から。
既読をつける。未来ではできなかったこと。
届いたその日に、ちゃんと読む。ちゃんと返事をする。
今度は、それができる。
「ねえ、蓮」
「ん」
「私からも、伝えたいことがあるの」
「……なんだよ」
「退院したらね」
「お前もずりいな」
「お互い様」
窓の外には、春の陽射し。桜が散り始めている。
一年前の私は、この季節を見届けられないと思っていた。
今は違う。
来年も、再来年も、ずっと見届けられる。蓮と一緒に。
◇
——退院の日。
病院の玄関を出ると、春の風が頬を撫でた。
桜はもう散りかけている。花びらがアスファルトに張り付いて、ピンク色の絨毯みたいだった。
「咲良」
振り向くと、蓮が立っていた。
制服じゃない。私服姿は久しぶりに見る。シンプルな白いシャツに、ジーンズ。やっぱり第一ボタンは開けている。
「……なに」
「メールの続き。言っていい?」
心臓がうるさい。
「……うん」
蓮が一歩、近づく。
「俺、お前のこと好きだ」
知ってる。365通のメールで、最後に書かれていた言葉。
「一年前も好きだった。お前に突き放されても、メール無視されても、ずっと好きだった」
「……っ」
「でも今は、ちゃんと言える。直接、お前の顔見て」
蓮の目が、真っ直ぐ私を見ている。
「これからも隣にいていいか」
涙が溢れた。
一年前、私が拒絶した言葉。本当はずっと聞きたかった言葉。
「……っ、私も」
声が震える。でも、ちゃんと言う。
「私も、蓮のこと好き。ずっと好きだった。一人で死にたくなかった。蓮の隣にいたかった」
「……っ、馬鹿。泣くなよ」
「蓮も泣いてるじゃん」
「うるせえ」
蓮が笑った。泣きながら、笑った。
大きな手が伸びてきて、私を抱きしめる。
温かい。生きている体温。私も生きている。
「これからも、メール送っていい?」
「……毎日?」
「毎日。でも今度は、ちゃんと読めよ」
「読む。返事もする」
「……そっか」
蓮の声が、少しだけ嬉しそうに震えた。
◇
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
『好きだ』
——たった三文字。
でも今度は、届いたその日に読める。
既読をつけて、返事を打つ。
『私も』
送信ボタンを押す指は、もう震えていなかった。




