序章
燃え盛るような夕暮れ空に、星を宿した夜の帳が下り始めた逢魔ヶ時。私は豊かに茂る草葉を踏みしめ、全力疾走していた。妖怪が出たのだ。追われている。
「しつこいんだか、ら!」
右手を後方へ振るって、妖怪を浄化する風を送る。炎のように揺らめく橙色の光を纏ったそれは、妖怪へと鋭く伸びていく。しかし赤肌の妖怪に触れた途端、押し負けて霧散してしまった。
相性が悪い妖怪だとこれだ。赤い肌の怒り鬼と、青い肌の泣き鬼。妖怪は大きく分けてその二種類が存在している。背後に迫る色は憤怒の赤。私はあれが嫌いだ。
浄化しようとしても、筋骨隆々の大腕で殴るように風を払ってしまう。あらゆる怒りを内包した怒り鬼の抵抗は、私を苛立たせる。
私の風が怒り鬼を祓えば、怒り鬼は憤怒の衝動から解放されるのに。抵抗されると差し出した手を叩き落とされるようで、腹が立つ。
(ああほら、また!)
走りながら、私は軽く頭を振った。妖怪は祓われれば消滅してしまう。私が妖怪にやられてたまるかと思うように、妖怪も抵抗するのは当然だ。
それなのに、苛立ちが勝って無茶苦茶な事を考えてしまう。怒り鬼はこうして周囲に怒りを誘発させて、その怒りを糧にして力を増していく。
「!」
背後から迫りくる熱波の気配を察して、風を利用して宙に飛ぶ。眼下を通り過ぎていった熱波は毒々しい紅で、その軌跡は煤の道として残った。
一度追跡を躱さないと埒が明かない。だけどざっと見回す限り、しばらく草原ばかりが続いていて森は遠い。
(こうなったら、足止めだけでも……!)
渾身の力を込めた浄化の風が直撃すれば、いくら相性の悪い怒り鬼といえども無傷ではいられない。とはいえ、それほどの力を使うのは消耗が激しい。出来ればやりたくなかったが、今を逃せば疲れるばかりで不利になる一方だ。
一か八かだ。踏み込む足にぐうっと力を込めて振り返る。前方から襲いかかる怒り鬼に、渾身の風を送り出す……その時だった。
怒り鬼の背後から、天高く飛び上がって宙返りする少年がいた。華やかな宮廷衣装のような服を翻す彼を、同じく飛び跳ねている泣き鬼が追っていた。
泣き鬼なら容易く浄化できる。私は少年に視線を向けた。少年はまだ宙にいながら眼下の怒り鬼を眺め、それから私を見つめた。
視線が重なり合った瞬間、不思議と怒りも焦りもかき消えた。上手くいく。なぜかそんな確信を抱いて、私は地を蹴って泣き鬼に迫った。
両腕を広げ、泣き鬼を抱きしめながら浄化の風……灯しの風を放つ。橙色の煌めきは柔らかく波打って、泣き鬼の全身を包む。その光は瞬く間に一点に収束して、泣き鬼ごと消えていった。
難なく着地して、すぐさま振り返る。泣き鬼は祓えたけどまだ油断できない。怒り鬼はどうなったのかと少年に視線を向けると、白銀に光る剣が目に映った。
怒り鬼はわずかな残滓が風に流れて霧散していて、あっという間に最後の欠片も消えていった。二体の妖怪が、あっさりと浄化されたのだ。直感通りだ。上手くいった。
「鮮やかな手腕だ。こんなに息が揃うのも……初めてだ」
少年は噛み締めるようにそう言うと、ゆっくりと面を上げた。
思わず、息を呑んだ。少年の期待がこもった眼差しは、彼の後ろに広がる空のようにまばゆい輝きを宿している。どこまでも瑞々しくて、綺麗だった。
「己は緒光香だ。旅をしている。臆せず鬼を倒したのを見るに、貴方は己と同じ――」
「風渡しだ」
「そうだよな!」
緒光香の声は弾んでいる。人は妖怪を倒す力を持つ者を指して、風渡しと言う。私の返事に、緒光香はにっこりと嬉しそうに笑った。
「己は人探しの旅をしていて、ご覧の通り怒り鬼を倒すのが得意だ。己達は相性がいい。共に旅をしてくれないか?」
空は焼きつくように赤々とした夕暮れと、夜の濃紺が混ざり始めている。鮮烈な景色の中で、少年の瞳は最も強く美しく、まるで夜に沈んでも輝く太陽のように輝いて見えた。キラキラと眩しくて、彼の手を取ったら、どこへでも行けてしまいそうな気さえした。
胸が熱い。これは戦いの余韻のせいだけじゃない。早まる鼓動に反応してか、灯しの風が溢れ出す。
こんな事は初めてだ。初対面なのにこんなにも誰かに心踊らされるのも、一緒に旅をしたいと思わされるのも。
「私は思草。これからよろしく、緒光香!」
緒光香は喜びを突き上げるように、拳を天に突き出した。風が私達の周囲を走り抜けて、心地良い音を響かせる。まるで私達の出会いを、祝福するかのように。




