【第7話】消えない炎と、最後の笑顔
オースを出て一日目の夜は、予定通り野営となった。
アルたちの故郷までは、寄り道なしでも1週間以上はかかるらしく、野営か泊まれそうな町があれば泊まることにしていた。
焚き火を囲み、簡単な食事を取りながら一日の疲れを落としていく。
道中で現れた魔物は数えるほどだったが、どれも問題にはならなかった。
連携を取る間もなく、ケントが前に出た瞬間に戦いは終わる。
アルやロックが剣を構える暇すらなく、チーズやミリムが魔法を準備する必要もなかった。
「……強くなったな、本当に」
アルがぽつりと呟く。
称賛の言葉ではあったが、その声色には以前とは違う戸惑いも混じっていた。
ケント自身もそれを感じ取っていたが、何も返さなかった。
焚き火のそばでは、ミリムを中心に自然と視線が集まっていた。
誰が一番近くに座るか、誰が声をかけるか。
そんな小さな競り合いが、言葉にされることなく続いている。
ミリムは誰の言葉にも笑顔で応じ、誰か一人を特別扱いすることはない。
その均衡が保たれている限り、男同士が衝突することはなかった。
だが、それがかえって、以前の四人の関係とは違う場所に来てしまったことを際立たせていた。
食事を終え、寝る準備に入ろうとした時だった。
「ねえ、今夜さ……ミリムと同じテントで寝てもいい?」
チーズのその一言に、空気が一瞬だけ固まる。
冗談めかした口調だったが、視線は真剣だった。
「それはさすがに駄目だろ」
アルが即座に止め、ロックも無言で頷く。
ミリムは困ったように笑い、「寝るのは1人がいいな」と軽く受け流した。
結局、テントはいつも通りに分けられ、焚き火も静かに消されていく。
夜の森は静かで、風に揺れる木々の音だけが響いていた。
ケントは寝袋に横になり、暗闇の中で目を閉じる。
強さは確かに手に入れた。
だがその代わりに、仲間との距離や、心の在り方が少しずつ歪んでいくのを感じていた。
二日目、三日目と、帰路は驚くほど順調だった。
道中で魔物に遭遇することはあったが、いずれも問題にはならない。
気づけば自然と、ケントが前に出て戦いを終わらせる形が定着していた。
途中で立ち寄った町では、思わぬところで小さな火種が生まれた。
誰がミリムと一緒に町を散策するか、という些細なことだ。
声を荒げるほどではないが、互いに譲らない空気が漂う。
だがミリムが軽く手を叩き、
「ねえ、みんなで回ろうよ」
そう言うと、不思議と全員が納得した。
その笑顔には、異を唱えにくい力があった。
帰路に入ってからは、あの夜のような露骨な見せつけはなくなっていた。
それでも、ミリムと誰かが二人きりで姿を消す時間があるのは事実だった。
何をしているのか、ケントはあえて確かめることはしなかった。
四日目。
この日も予定通りの地点まで進み、日が落ちる前に野営の準備を終える。
焚き火が安定し、簡単な食事を済ませた後のことだった。
「ケント、ちょっと二人で話したいんだけど」
ミリムがそう言って、静かに声をかけてくる。
「え、2人で?」
「みんなで話せばいいじゃないか」
アルとロックが、ほぼ同時に反応した。
チーズも無言ながら、露骨に不満そうな表情を浮かべている。
「お願い、少しだけだから」
ミリムは困ったように、けれど柔らかく笑ってそう言った。
その一言で、反対の言葉は続かなかった。
「……短くだぞ」
アルが渋々そう告げると、ミリムは小さく頷く。
ケントは立ち上がり、ミリムと並んで焚き火の明かりから少し離れる。
背後には、何も言わずにこちらを見つめる三人の視線が残っていた。
夜の森は静かで、焚き火の爆ぜる音だけが遠くに聞こえる。
ミリムは歩みを止め、振り返ってケントを見た。
「……ねえ、ケント」
その声は、いつもより少しだけ真剣だった。
「みんなの様子、気づいてる?」
「ミリムを奪い合ってる、あれか」
少し冗談めかしてケントは返す。
自分もミリムのことを好きでいる。
それでも、他の三人の前でその感情を表に出すことは避けていた。
「そう……正直、私自身でも抑えきれなくなってきてるんだよね」
ミリムの声には、いつもの軽さがなかった。
本当に困っているときの響きだった。
「これまでは、二人きりの時くらいだったのに。 みんながいる前で、ここまで好意を出してくることはなかったの」
確かに、変化は明らかだった。
以前は、節度というものがまだ保たれていた。
「私はケント以外には、そんなに強い加護はかけてないんだけどね……」
ミリムは首を傾げる。
想定していない力が、別の形で広がり始めている。
そんな不安が、その仕草から伝わってきた。
「今のところは、ミリムが一言言えばみんな落ち着く。 だから、まだ大丈夫だと思う」
ケントはそう答える。
「うん……でも、こんなこと最近はもうなかったから」
最近、という言葉が少し引っかかったが、ケントは深くは追及しなかった。
「俺も、あいつら三人が暴走しないように手助けするよ」
そう言うと、ミリムは少し安心したように微笑んだ。
「ありがとう」
いつもの、明るい笑顔だった。
「そろそろ戻らないと、なんか言われそうだから。 先に行くね」
そう言って、ミリムは焚き火の明かりの方へ歩いていく。
揺れる背中を見送りながら、ケントは一人考えていた。
ミリムが自分にかけた強い加護。
それが、意図せず周囲の三人にも影響を及ぼしているのではないか。
もしそうだとしたら――
この状況は、さらに歪んでいく可能性がある。
とにかく、まずは無事にアルたちの故郷へ帰ること。
ケントはそう自分に言い聞かせ、焚き火を囲む四人の元へと戻っていった。
五日目、六日目も、帰路は順調なペースで進んでいった。
魔物との遭遇もあったが、もはや足止めになるような相手ではない。
ケントが前に出れば、それだけで戦いは終わる。
相変わらず、ミリムを巡る時間の奪い合いは激しかった。
誰が隣を歩くか、誰が話しかけるか。
些細なことに見えて、その裏には確かな熱がこもっている。
それでも、大きな衝突が起きなかったのは、ケントが意識的に三人のケアをしていたからだった。
誰か一人が置いていかれないように。
誰か一人だけが特別だと思い込みすぎないように。
この頃から、アルやチーズがケントに相談を持ちかけてくるようになった。
もっとも、それは相談というより、確認に近いものだった。
――自分はミリムの男としてふさわしいのか。
――彼女は、誰を選ぶと思うのか。
そんな問いに、ケントは相手が求めている答えを返し続けた。
アルに聞かれれば、アルこそがふさわしいと。
チーズに聞かれれば、チーズの優しさが一番だと。
それが真実かどうかは、重要ではなかった。
今はただ、均衡を保つことが必要だった。
ロックから相談されることはなかった。
だが、その分、彼の視線は日に日に鋭さを増していった。
言葉はなくとも、内に溜め込んでいる感情が伝わってくる。
そのため、ケントはロックの前では意識的にミリムから距離を取るようにしていた。
近づかない。
視線を合わせない。
それが、今できる精一杯の配慮だった。
この調子でいけば、明後日の夜にはアルたちの故郷に着く。
6日目の夜。
焚き火を囲んだあと、アルが静かに口を開いた。
「あと、二日だな」
みんな町に帰ることよりも大事なことがある。
ケントは確かにそう感じていた。
事件が起きたのは、七日目の昼だった。
昼食も兼ねて、道中にある小さな町へ立ち寄った時のことだ。
最初は、確かに五人で歩いていた。
だが、人の多い通りを抜け、露店を冷やかしているうちに、いつの間にかミリムとチーズの姿が見えなくなっていた。
それに気づいたのはアルだった。
「……ミリムとチーズ、いないな」
そう言って周囲を見回し、すぐに探しに行こうとする。
ケントとロックも無言でそれに続いた。
二人を見つけたのは、人通りのほとんどない路地の奥だった。
壁際に追い詰めるような形で、チーズがミリムに顔を寄せている。
次の瞬間、チーズがミリムの唇を奪った。
それは甘いものというより、衝動的で、強引なものに見えた。
一瞬の沈黙のあと、アルとロックが即座に動いた。
二人はチーズを引き剥がし、間に割って入る。
「何してるんだよ」
アルの声は低く、怒りを抑えきれていなかった。
チーズは視線を逸らしたまま、ぶっきらぼうに答える。
「……いいでしょ。別に。僕たちの自由だろ」
ロックは一歩前に出て、ミリムをまっすぐ見つめた。
その声は静かだが、圧があった。
「ミリム。お前は、チーズのことが好きなのか」
ミリムは一瞬、言葉に詰まった。
状況を見れば、チーズが一方的に連れ出したのは明らかだった。
「……私はね、みんなのことが好きだよ」
なんとか笑顔を作ってそう答えるが、場の空気はまったく和らがない。
「まあまあ、一旦落ち着こう。昼飯にしよう」
ケントが間に入るが、アルは首を横に振った。
「これは、僕たちの問題だ。ケントは口出さないでくれ」
その言葉に、ミリムが慌てて声を上げる。
「じゃ、じゃあさ……今日はこの町で泊まろうよ」
そして、少し早口で続ける。
「今からアルと出かけて、そのあとロックと。それで最後にチーズと、っていうのはどうかな」
アルは一瞬、戸惑った表情を見せた。
だが、ミリムと二人きりで過ごせるという提案に、最終的には逆らえなかった。
ロックも、チーズも、同様だった。
アルとミリムはそのまま町の奥へ消え、
残った三人は、今日泊まる宿を探すことになった。
道中、チーズは必死に弁明していた。
「ミリムが誘ってきたんだ。僕からじゃないって……」
その言葉が、ロックの神経をさらに逆撫でするのが分かっていて、ケントはただ、早く話題が終わることを願っていた。
なんとか宿を見つけ、部屋を取る。
大した会話もないまま、それぞれが別々の部屋へと向かった。
ケントは自分の部屋に入り、ベッドに横たわる。
以前キャンプの夜にミリムと交わした会話を思い出す。
――三人は、お互いのことを知っているのか。
あの問いに、ミリムははっきりとは答えなかった。
もしかしたら、三人とも本当に知らなかったのかもしれない。
自分だけがミリムと特別な関係を築いていて、自分だけが彼女と身体を重ね、愛を育んでいると――
昼間の出来事を思い返すほど、そんな可能性が現実味を帯びてくる。
だが同時に、もう制御が効いていないとも感じていた。
感情も、関係も、均衡も。
それに、なぜ自分だけがここまで我慢しているのか。
自分だって、ミリムと過ごしたい。
そう思ってしまう気持ちを、これ以上否定するのも難しかった。
これまでは、場を収めることに必死だった。
三人の衝突を避け、ミリムを守り、均衡を保つために張り詰めていた緊張が、宿の静けさの中で、すっと抜け落ちていく。
ベッドに横たわると、自然とミリムとの夜の記憶がよみがえった。
オースの町を出てから、一度も彼女とそうした時間は持っていない。
それでも、確かに残っている温度と感覚。
甘い記憶に引きずられるように、そして張り詰めていた心が緩んだせいか、ケントは抵抗することもなく、そのまま眠りへと落ちていった。
目を覚ますと、空からオレンジ色が逃げていくところだった。
どうやら夜まで眠ってしまったらしい。
慌てて身支度をして宿の食堂に下りると、すでに四人は食事を始めていた。
ミリムとそれぞれ二人の時間を過ごした三人は、どこか頬が緩み、昼間に漂っていた険悪な空気は嘘のように消えている。
それでも、誰一人としてケントを呼びに来なかったという事実が、三人の関心がどこに向いているのかを雄弁に物語っていた。
「もう、遅いよケントー」
いつも通りの明るい声で、ミリムが手を振る。
軽く頭を下げて謝り、空いている席に腰を下ろした。
アルもチーズもロックも、満足そうな顔で他愛のない話を続けている。
ミリムもそれに合わせて笑っていたが、その笑顔の奥をケントは測りかねていた。
やがて、三人が順番にトイレや用事で席を外す。
その一瞬を逃さず、ミリムが身を乗り出し、小さな声で囁いた。
「ケント、今日の夜ね。外で待ち合わせしよ」
思わず視線を向ける。
「時間は、みんなが寝てから。0時」
予想外の言葉に言葉を失ったその瞬間、アルが席に戻ってきた。
それ以上の会話は自然と途切れる。
再び五人が揃い、夜ご飯を囲む。
明日からは予定通り進もう、とアルが言い、全員が頷いた。
そうして特に波風の立たないまま、食事は終わり、それぞれの部屋へと解散していく。
昼に眠ってしまったせいか、夜になってもまったく眠気は来なかった。
風呂を済ませ、約束の時間まで部屋で静かに過ごす。
その間も、廊下の向こうから断片的に声が聞こえてくる。
アルの声、チーズの声、そしてロック。
それぞれがミリムを誘っているのだと、すぐに分かった。
ミリムは、そのたびに柔らかく断っているようだった。
やがて時計が0時を指す。
ケントは足音を立てないように部屋を出て、宿の外へ出た。
夜の空気は冷たく、辺りには誰の姿もない。
視界の左端、少し奥の方で小さな光が揺れているのに気づく。
近づくと、明かりを手にしたミリムが立っていた。
「みんなに見つかると面倒だから」
そう言って、宿から離れる方向へ歩き出す。
ケントはその後ろを、黙ってついていった。
しばらく歩いた先に、小さな池があった。
その前に置かれたベンチに、ミリムが腰を下ろす。
この時間帯では、さすがに人の気配はない。
「隣、座って」
促され、ケントもベンチに座る。
久しぶりの、二人きりの時間だった。
ミリムを見ると、彼女は池に映る月をじっと見つめている。
いつもの明るい表情とは違う、どこか物憂げな横顔だった。
「……三人とは、大丈夫だったのか?」
そう尋ねると、ミリムは視線を動かさずに答えた。
「みんなとしてあげたよ。それで、落ち着いたみたい」
その言い方には、いつものような含みはなかった。
「ねえ、ケント」
今度は空に浮かぶ月を見上げながら、ミリムが続ける。
「好きって、なんだと思う?」
「俺は、ミリムが好きだ」
考えるより先に、言葉が出た。
問いと答えが噛み合っていないことに気づき、ミリムは小さく笑う。
「うん。私がそうしちゃったからね」
確かに、今の自分の感情は、彼女の加護によって形作られたものだ。
それでも、この胸にある想いが偽物だとは、今の俺には思えなくなっていた。
ミリムは、答えを求めている様子もなく、独り言のように話し続ける。
「好きってさ、誰かを独り占めすることなのかな。相手の気持ちは関係なく、自分の想いを押し付けるものなのかな」
池の水面が、静かに揺れる。
「たとえ、相手に好きになってもらえなくても、
誰かを好きになるって、素敵なことだよね」
その表情は、少しだけ悲しそうだった。
そんなミリムを見たのは、ケントにとって初めてだった。
気づけば、体が動いていた。
ケントはミリムを抱きしめていた。
「これもさ……私がケントのことを好きにさせたから、だよね」
抱きしめたまま、ミリムが小さな声で言う。
顔は見えないが、その声はひどく寂しげだった。
「それ、本当のケントの気持ちじゃない。私が作った気持ちだもん」
短い沈黙が流れる。
「……ごめんね、急に。私、もう帰るね」
そう言うと、ミリムはそっとケントから離れ、早足で宿の方へ向かっていった。
一人残されたケントは、自分の服に目を落とす。
両肩が、わずかに濡れていた。
――ミリムは、泣いていた。
その涙の理由を、ケントは分からない。
暗闇の中、彼もまた宿へ戻り、静かに眠りについた。
次の日の朝、ケントが食堂に降りると、すでに全員が朝食を終えかけていた。
ミリムは三人に囲まれながら、楽しそうに笑っている。
そこに、昨日見せた寂しげな表情はどこにもなかった。
「今日の夜には、故郷の一つ手前の町まで進もう。明日の夕方には着けるはずだ」
アルがそう言って皆をまとめ、出発の準備が始まる。
その日の道中は驚くほど穏やかだった。
魔物に遭遇することもなく、ミリムを巡る露骨な駆け引きもほとんど起きない。
昨日、それぞれがミリムと過ごした時間が、三人の気持ちを多少なりとも落ち着かせたのだろう。
ケントはそう解釈するしかなかった。
夜になり、目的の町に到着すると宿を取る。
ロビーで部屋割りを決める中、ミリムが言った。
「今日は、一人で早く寝たいな」
その言葉の裏にある意味を、誰もが察した。
不満そうな表情を浮かべながらも、三人はそれ以上何も言わず、それぞれの部屋へ向かっていった。
ケントも一度は自分の部屋に戻った。
だが、どうしてもミリムのことが頭から離れない。
昨夜のこと、考えれば考えるほど、胸の奥が落ち着かなかった。
気づけば、ケントはミリムの部屋の前に立っていた。
小さくノックをする。
「……誰?」
扉の向こうから、警戒した声が返ってくる。
「俺、ケントだよ」
少し間が空いてから、ミリムの声が聞こえた。
「ごめん。今日は本当に、一人で寝たいの」
その声には迷いがなく、意思の固さが伝わってきた。
ケントはそれ以上何も言えず、「分かった」とだけ答える。
自分の部屋に戻り、ベッドに横になる。
天井を見つめながら、明日のことを思う。
――明日には、アルたちの故郷に着く。
ケントは目を閉じ、静かに眠りへと落ちていった。
アルたちの故郷に着いたのは、夕陽が一番強く輝く時間帯だった。
赤く染まる空の下、四人の表情は自然と明るくなる。
長い旅路を無事に終えたこと、その安堵と懐かしさを、この瞬間だけは全員で分かち合っていた。
町の名前はフシミ。
町というよりは村と呼んだ方がしっくりくる規模で、小さく、落ち着いた場所だった。
派手さはないが、静かで、人の営みがきちんと根付いている。
それがケントの抱いた第一印象だった。
歩きながら、アルがケントに声をかける。
「小さい場所だけどさ、いい町なんだよ、ここは」
「まあ、学校はないけどな」
アルは北の方角を指差した。
遠くに、大きな城がそびえ立っている。
旅の途中から何度も目にしていた、あの建物だ。
「あれがラズベリ城だ。この辺じゃ一番でかい建物だな」
さらに続ける。
「城下町に学校があってさ。この辺の子供は、みんなそこに通うんだ」
城はただの象徴ではないらしい。
「この辺で問題が起きたら、あそこの兵士がすぐに飛んでくる。だから、ここは割と平和なんだ」
町の中心部に差しかかったところで、アルは足を止めた。
そして、全員を見回して言う。
「今日はここで解散しよう。みんな、家族とも話したいだろ」
短い沈黙の後、続ける。
「明日、昼前に広場で集合な」
それぞれが頷き、軽く手を振って散っていく。
ミリムも、いつもの笑顔で手を振り、三人と別れていった。
ケントは、アルたちに教えてもらった町の中の小さな宿へと向かう。
素朴な建物だったが、清潔で、人の気配が温かく感じられる場所だった。
荷を下ろし、部屋に入る。
窓の外では、夕陽が完全に沈み、フシミの村に夜が訪れようとしていた。
夜、部屋の戸が静かに開いた。
「ケント……」
小さく名を呼ぶ声。立っていたのはミリムだった。
「この間の夜はごめんね。私らしくなかったよね」
池のほとりで見せた、あの物憂げな横顔が脳裏をよぎる。
そう言いながら、ミリムは迷いのない仕草で布団に入り、そっと距離を詰めてきた。
「……ずっと、ケントとは何もしてなかったでしょ」
甘い声でそう告げられ、触れられる気配だけで、ケントの意識は一気に引き戻される。
久しぶりの温もりに、身体が正直に反応してしまう。
「いいのか? 今日は……家族と過ごす時間じゃ……」
そう問いかけると、ミリムは首を横に振った。
「私、両親はいないの。いなくなった、が正しいかな」
初めて知る事実だった。
言葉に詰まるケントに、ミリムは静かに続ける。
「そんなこと、気にしなくていいの」
その声は柔らかく、どこか決意を含んでいた。
「ケント……これはね、私の贖罪なの」
小さく、ほとんど独り言のように呟く。
その意味を問い返す間もなく、ミリムはそっと身を寄せてきた。
言葉はそれ以上交わされなかった。
ただ、互いの存在を確かめ合うような、甘く静かな夜が流れていく。
行為を終えると、ミリムは静かに身体を離し、身支度を整え始めた。
その動きには名残惜しさよりも、決めていたことをやり遂げた後のような落ち着きがあった。
「……みんなには、絶対言わないでね」
振り返らずにそう言い残し、戸口へ向かう。
ケントが何か言おうとする前に、ミリムは軽く手を振り、そっと部屋を出ていった。
扉が閉まった後も、部屋にはまだ彼女の気配が残っているように感じられた。
久しぶりに触れたミリムの温もりが、ケントの身体に静かな幸福感として広がっていく。
それは高揚というより、満たされたという感覚に近かった。
その幸せを確かめるように、何度も心の中で夜の出来事をなぞりながら、ケントはゆっくりと眠りに落ちていった。
朝、ケントは宿の簡素なベッドで目を覚ました。
身体にはまだ昨夜の余韻が残っている。
胸の奥に残る温かさと、幸福感が同時にあった。
身支度を整え、軽く食事を済ませると、約束されていた広場へと向かう。
村の昼は穏やかで、子どもたちの声や家畜の鳴き声が遠くから聞こえていた。
広場に近づくにつれ、空気が妙に張り詰めていることに気づく。
声が重なり合い、明らかに言い争いの気配だった。
すでに四人は集まっていた。
だが、いつもの和やかな雰囲気はない。
ミリムは中央に立っていたが、視線を落とし、何も言わずにいる。
その周囲で、アルとロックが向かい合い、激しい口論を繰り広げていた。
どうやら発端は、前の町でのデートをアルが惚気たことらしい。
アルが、あの日ミリムと過ごした時間を嬉しそうに語った。
それを聞いたロックが耐えきれず、
「俺はその後でミリムと一緒だった」と口にした。
そこからは、歯止めが利かなかった。
いつから関係があったのか。
どんな時間を過ごしたのか。
どちらがより深く想われているのか。
言葉は競い合うように重ねられ、次第に誇示と否定に変わっていった。
ミリムは止めようと何度も口を挟んだが、二人の熱は収まらない。
少し離れた場所で、チーズは黙って立っていた。
俯いたまま、肩だけが小刻みに震えている。
そして、ついに一線を越えた。
アルが剣を抜き、ロックがハンマーを構える。
互いに引く気配はなく、感情のまま武器を振るい始めた。
「ミリムは俺を選んだ!」 「違う、俺だ!」
広場に金属音と砂埃が舞い上がる。
ケントの制止も、ミリムの声も、二人の耳には届いていない。
止めなければならない。
そう思い、ケントが剣に手をかけた、その時だった。
「……裏切ったな」
低く、かすれた声。
それはチーズだった。
顔を上げ、ミリムを見据えるその目には、これまでに見たことのない感情が宿っている。
「あの夜……僕だけが、好きって言ったのに」
震える声には、悲しみと怒り、そして深い憎悪が混ざっていた。
ミリムは何も言えず、ただその視線を受け止める。
事態は、もう完全に彼女の手を離れていた。
広場では、剣とハンマーがなおもぶつかり合っている。
そして、静かに崩れ始めた関係の中心に、ミリムは立ち尽くしていた。
「ミリムが一番好きなのは、僕なんだろ。そう言ったじゃないか」
チーズは声を荒げ、叫ぶように詰め寄った。
その瞳には、期待と依存が混ざり合った危うい光が宿っている。
ミリムは言葉に詰まった。
もう、正しい答えが何なのか分からなかった。
「……私は、みんなが好き……」
絞り出すように返したその言葉は、チーズが求めていたものではなかった。
「ふざけるな」
低く吐き捨てるように言うと、チーズは杖を掲げた。
刹那――
闘技場で一度見た、あの炎の龍が空間を引き裂くように現れた。
「危ない!」
ケントは反射的にミリムを抱き寄せ、身を投げ出すようにその場を離れる。
炎の奔流が背後を焼き尽くす。
だが、炎の龍は止まらなかった。
明確な意志を持ち、ただミリムだけを狙って追ってくる。
我に返ったチーズが叫ぶ。
「ち、違う……消えろ、消えろ!」
必死に魔法を解除しようとするが、炎の龍は揺らぎもしない。
「なんで……?」
ケントはミリムの手を引き、逃げるしかなかった。
ステータスが上がった今でも、この魔法を正面から受け止められる気がしない。
町の中を必死に駆け抜ける二人。
背後では、炎の龍が家屋を薙ぎ払い、道を焼き、無差別に破壊を広げていく。
子供の悲鳴が響く。
人々の叫びが空に溶けていく。
ようやく町の外まで辿り着いたとき、ミリムは立ち止まった。
振り返った先には、燃え盛る故郷の光景。
「ケント……ごめんね」
そう言って、ミリムはケントを突き飛ばした。
「狙われているのは私。チーズの感情を受け止めなきゃいけないのも、私だから」
その場に立ち尽くすミリムに、ケントが手を伸ばす。
「待て!」
だが、その声よりも早く、炎の龍が視界を埋め尽くした。
灼熱が全てを包み込み、炎の龍はミリムを呑み込む。
ミリムの身体が完全に灰となるまで、炎が鎮まることはなかった。
そして、1つの存在が消えた時、役目を終えたかのように、龍は静かに消え去った。
ケントの目に最後に映ったミリムの顔は、微笑んでいた。
それは、すべてを受け入れた者の、静かな表情だった。




