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【第3話】色めく街と、小さな温もり

マリアと出会った街を離れてから、ケントは東へ向かっていた。


 理由はない。


 あえて言うなら、そこに“居続けられなかった”だけだ。


 彼は振り返らない。


 振り返ってしまえば、思い出すから。


 赤い髪。 強気な声。


 あの夜、眠る前に感じた体温。


 それらはすべて、もう過去だった。


 小さな村をいくつも越え、山道を歩き、野営を重ねる。


 人の少ない道を選んだのは、誰とも深く関わりたくなかったからだ。


 だが――

 山を越えた先で、景色は一変した。



 光。

 それが、最初に思ったことだった。


 夕暮れの空の下、無数の灯りが瞬いている。


 色とりどりの提灯、魔法灯、煌びやかな看板。


 異世界に来てから見た、どんな街よりも明るい。


「……すげえな」


 思わず、声が漏れる。


 その街の名は、サカエ。


 旅人の間では有名な場所だった。


 金が動き、欲が集まり、夜が終わらない街。


 酒場。 娼館。


 路地裏では、女たちが男を誘い、旅への同行を持ちかける。


 ――護衛。

 ――恋人。

 ――あるいは、もっと曖昧な関係。


 中には、ほとんど奴隷のような条件で身を売る者もいるらしい。


 街の空気は、甘くて、濁っていた。


 それでも。


 その輝きに、ケントの心はほんの少しだけ躍った。


 暗闇の中を歩き続けてきたからだ。


 光に、惹かれないはずがない。


 街に入った時には、もう夕方だった。


「……まずは、休もう」


 彼はそう呟き、宿屋の看板を探す。


 この街で、何が起きるのか。


 誰と出会い、何を失うのか。


 それは、まだ分からない。

 

 ケントは、宿屋の扉を押し開けた。









 夜のサカエは、眠らない。


 宿の薄い壁の向こうから、途切れ途切れに声が漏れてくる。


 笑い声。 甘えた声。 重なる息遣い。


 ケントは、布団の中で目を閉じた。


 聞こえないふりをするように、耳を塞ぐ。


 ――見なければ、感じなければ。


 そうしてきたはずなのに、

 声は、過去を呼び起こす。


 クレアの微笑み。


 マリアの横顔。


 思い出したくないのに、

 忘れたいのに。



 結局、眠りに落ちるまで時間がかかった。

 










 朝。


 目を覚ますと、街は驚くほど静かだった。


 昨夜の喧騒が嘘のように、

 サカエはまだ眠っている。


 歩きやすい。 人も少ない。


 ケントは、少しだけ気が楽になった。


 それでも、朝から開いている店はある。


 露出の多い服を着た女が、欠伸混じりに声をかけてくる。


「お兄さん、どこ行くの?」


 ケントは視線を逸らし、軽く会釈してその場を離れた。


 買い物を済ませ、街の端へ向かう。


 森が、すぐそこにあった。


 人の気配が薄れ、空気が澄んでいく。


 ――その時。


「きゃっ……!」


 小さな悲鳴が聞こえた。


 反射的に、声のする方へ走る。


 そこには、水色の髪をした小柄な少女がいた。


 背は低く、華奢な体。


 彼女の前に、魔物が一体。


 見覚えのある、下級の個体。


 今の自分なら――勝てる。


 ケントは剣を抜き、間に入る。


 数合。


 魔物は怯み、やがて森の奥へ逃げていった。





「……大丈夫?」


 少女は、目を丸くして何度も頷いた。


「はい……! 本当に、ありがとうございます!」


 名前は、リア。


 森に花を摘みに来たところ、襲われたらし

い。


 年の頃は、十歳前後だろうか。


 まだ、子供だ。


「お礼しなきゃ……!

 あの、よかったら……お家でご飯、食べていってください!」


「いや、俺は――」


 断ろうとしたが、リアは引かない。


「お願いします! 助けてもらったままじゃ、嫌なんです!」


 真っ直ぐな目だった。


 押し切られる形で、ケントは彼女の後をついていく。




 やがて辿り着いたのは――


 サカエの繁華街の一角。


 昼間でも、どこか落ち着かない場所。


 リアの家は、その中にあった。


 小さな扉の前で、彼女は振り返って笑う。


「ここです!」

 

 リアの家は、決して大きくはなかった。


 だが、掃除が行き届いていて、生活の匂いがあった。


 色街の中にあるとは思えないほど、落ち着いた空気。


「少し待っててくださいね!

 すぐご飯、作りますから!」


 リアはそう言って、台所へ向かう。


 それと同時に階段を下りる足音が聞こえる。


 眠そうな欠伸とともに、二人の女性が姿を現す。


 一人は、長身で大人びた雰囲気の女性。


 薄いピンク色の長い髪が背中まで流れている。


 包容力の塊みたいな体つきで、落ち着いた色気があった。


 もう一人は、少し背が低く、柔らかい印象。


 肩に届く水色の髪はリアと同じ色で、どこか

幼さも残している。


 だが体つきは姉に劣らず、存在感があった。


「……おはよ」


「朝からお客さん?」


 リアが振り返る。


「アンお姉ちゃん、ユメお姉ちゃん!

 この人、森で魔物から助けてくれたんだ

よ!」


 アンとユメは一瞬目を見開き、すぐに微笑んだ。


「それはそれは」


「助けてくれてありがとう」


 二人は丁寧に頭を下げる。


 その動作で、寝起きの無防備さが強調され、

 ケントは思わず視線を逸らした。


 ――目のやり場に困る。


 それを、二人が見逃すはずもなかった。


「ふふ、正直だね」


 アンが、わざと一歩近づく。


「こんな反応、久しぶり」


 ユメも反対側から寄ってきて、

 すれ違いざまに軽く身体が触れる。


 からかわれている。


 そう分かっていても、体が強張る。


「ちょ、ちょっと!」


 リアが慌てて声を上げる。


「ダメだよ!

 この人、恩人なんだから!」


「はいはい」


「怒られちゃったね」


 二人は笑いながら、距離を取った。


「私たちの仕事は夜からだからさ」


 アンが欠伸混じりに言う。


「起きるのは、だいたいこの時間」


「良かったら、うちの店にも――」


「ダメ!」


 リアが即座に遮る。


 その必死さに、ケントは少し救われた。


 リアが鍋をかき混ぜながら、ぽつりと話す。



「……パパとママは、五年前の戦争で……」


 国と国の争い。 巻き込まれた民間人。


 ここに来た理由は、単純だった。


 ――生きるため。


 姉たちは、リアを養うために働いている。


 リアは、それを理解している。


 だからこそ、明るく振る舞っている。

 

 ケントは、何も言えなかった。


 この街の光が、

 誰かの犠牲の上に成り立っていることを、改めて知ったからだ。




 食卓には、素朴だが温かい料理が並んだ。


「どうぞ!」


 リアが誇らしげに言う。


 久しぶりに、誰かと囲む食事だった。


 ケントは自然と肩の力が抜けるのを感じた。


「で、旅人さん」


 アンが箸を止めずに言う。


「どこから来たの?」


「……遠い街から」


 嘘ではない。

 だが、真実でもない。


 ユメが、じっとケントを見る。


「ふうん……」


 その視線は柔らかいのに、鋭かった。


 娼館で働く中で、 男の“違和感”を見抜く目を持つ二人。


「なんていうかさ」


 アンが微笑む。


「この世界の人じゃない“匂い”がするんだよね」


 ケントの手が、一瞬だけ止まった。


「気のせいですよ」


 そう言って、視線を落とす。


 それ以上、二人は踏み込まなかった。


 踏み込まない優しさも、またこの街の流儀だ。


 食事が終わると、リアが身を乗り出す。


「ねえ!

 外、行こうよ!」


「……外?」


「うん! 森! ケントがいれば安全だし!」


 すっかり懐かれてしまったらしい。


 アンとユメは顔を見合わせて笑う。


「じゃあ、行ってきな」


「日が落ちる前には戻ってきなさいよ」


 二人は、穏やかな目で見送ってくれた。

 






 街を離れ、森へ。


 昼の森は、朝とも夜とも違う顔をしている。


 静かで、優しい。


 リアは花を摘み、

 ケントはそれを見ていた。


 とりとめのない話。


 街のこと、森のこと。


 やがて二人は草の上に腰を下ろし、


 そのまま横になる。


「気持ちいいね」


 リアが言う。


 ケントは、空を見上げた。





 ――昼の戦闘。


 下級とはいえ、確実に倒せた魔物。


 思い出すのは、塔の前で感じた無力。


 そして、路地裏で見た光景。


 マリアが、

 別の男に身を委ねていた姿。


 その時の絶望。


 胸を締めつけた痛み。


 それが――

 確かに、今の力になっている。


 体の奥に残る、数値の感覚。


 体力。

 パワー。

 素早さ。


 確実に、上がっている。


(……女神の言ってた“力”)


 望まない成長。


 失うことでしか得られない力。


 だが、今は。


 隣で、安心しきったように眠るリアがいる。


 穏やかな時間。


 何も奪われない、何も期待しない時間。


「……今は、これでいい」


 ケントは目を閉じた。


 再び、昼寝に身を委ねる。










「ケント、起きて!」


 肩を揺すられて、ケントは目を開けた。


 視界いっぱいに、夕焼けの色。


 空はオレンジに染まり、森の影が長く伸びている。


「……寝ちゃってた」


「もう。そろそろ帰るよ」


 リアは少し呆れたように笑い、立ち上がった。


 二人並んで、サカエへ戻る。


 街が近づくにつれ、光が増えていく。


 昨日と同じ――いや、それ以上に。


 夜のサカエは、やはり眩しかった。


 欲が、音が、笑い声が渦巻いている。


「この街、すごいでしょ……」


 リアが、ぽつりと言う。


「私はまだ、そういう仕事はできないけどね」


 一瞬、言葉を選ぶようにしてから、続けた。


「でも……この街、好きなの」


 ケントは黙って聞く。


「お父さんとお母さんが亡くなってから、ずっと元気が出なかったけど……

 この街の光が、少しだけ、心にも光を分けてくれた気がするの」


 無邪気な声だった。


 それが、余計に胸に刺さる。


 リアの家に着くと、ちょうど扉が開いた。


 アンとユメだった。


 昼に見た、寝起きの姿とはまるで違う。


 身体の線を強調した衣装。


 肌の露出。


 男の視線を引き寄せるための、完成された姿。


 ケントは、思わず目を逸らし――


 それでも、ちらりと見てしまう。


「……ケント」


 リアが、むっとした声を出す。


「見すぎ!」


「ご、ごめん……」


 アンとユメは、くすっと笑った。


「正直でいいじゃない」


「じゃあ、行ってくるね」


 二人はそう言って、夜の街へ溶けていった。


 残されたのは、静かな家と、二人分の影。

 







 夜ご飯は、リアが作った。


 素朴だが、心のこもった料理。


 食べながら、リアは言う。


「ねえ、ケント。

 これまで、どんな旅してきたの?」


 せがまれて、ケントは話し始めた。


 教会でシスターに助けられたこと。


 仲間と出会い、別れたこと。


 危険な戦いと、逃げるような旅。 


 リアは目を輝かせて聞いている。


「すごい……」


「私も、いつかこの街を出て、旅とかできるのかな」


 まだ見ぬ未来を、楽しそうに語る。


 ケントは、曖昧に笑うしかなかった。


「……できるよ。きっと」


 その言葉が、どこまで本当かは分からない。


「ねえ、ケント」


 食後、リアが少し照れたように言う。


「今日は……泊まっていってよ」


 断る理由は、見つからなかった。


 風呂を借り、寝床まで用意してもらう。


 ――本当によくできた子だ。


「おやすみ、ケント」


「おやすみ、リア」


 部屋は別々。

 それでも、同じ屋根の下。


 ケントは布団に入り、目を閉じる。


 色街の夜は、今日も騒がしい。


 だが、心は不思議と静かだった。


 こうして、

 サカエでの二日目の夜は終わった。

 



 

 


 柔らかい感触で、ケントは目を覚ました。


 窓の外は、まだ暗い。


 布団の中。 胸元に、重さ。


 視線を向けると、水色の髪が視界に入った。


「……リア?」


 一瞬、そう思った。


 だが、当てられている感触は、リアの持つそれとは違いすぎる。


「あれー、起きちゃった?」


 囁く声。


 ユメだった。


「仕事、終わって帰ってきたところ」


 少しだけ、酒の匂いがする。


「お姉ちゃん、まだ向こうで仕事しててさ。

 待つのもあれだから、先に帰ってきちゃった」


 彼女はそう言いながら、距離を詰める。


 意図的だと分かるほど、近い。


「……ずっと、当たってるんだけど」


 ケントが言うと、ユメはくすりと笑った。


「やっぱ、あなた……別の世界の人よね」


 囁く声が、妙に生々しい。


「触れてると分かるの。

 今までに味わったことない感じ」


 さらに、体重がかかる。


 思考が、遅れる。


「リアが……いるんですよ」


 言葉では拒んでいるのに、

 体は、固まったままだった。


「だから――」


 ユメは、唇に指を当てる。


「声、出しちゃだめ」


 布越しに伝わる温もり。


 呼吸が近い。


 快楽と戸惑いが、同時に押し寄せる。


 それはケントにとって、異世界に来て初めての情事だった。


 リアの顔が、脳裏をよぎる。


 ケントは歯を食いしばり、声を押し殺した。


 ユメは、それを見て満足そうに笑った。


「ふふ……」


 それ以上、言葉はいらなかった。


 世界が、近すぎる。


 意識が、曖昧になる。


 ――どこまでが、現実で。

 ――どこからが、流されているだけなのか。


 考える余裕は、もうなかった。

 







 どれくらい、時間が経ったのか分からない。


 ユメは、静かに身を起こす。


「……楽しかった」


 それだけ言って、部屋を出ていった。


 扉の閉まる音が、やけに遠く聞こえた。


 ケントは、天井を見つめたまま、動けなかった。

 











 ユメが部屋を出ていってから、どれくらい経っただろう。


 ケントは、まだ天井を見つめたまま動けずにいた。


 ――コン。


 小さく、戸の開く音。


 足音は、迷いがない。


「……起きてる?」


 低く、落ち着いた声。

 アンだった。

 

 薄暗い部屋の中でも分かる。


 昼とは違う、仕事の後の気配。


 彼女は、ためらいなく言った。


「ユメと、したでしょ」


 ケントの胸が、強く脈打つ。


「……ごめんなさい」


 反射的に、そう口にしていた。


 アンは、くすっと笑う。


「謝らなくていいよ」


 一歩、距離が縮まる。


「私も、狙ってたから♡」





 次の瞬間、視界が塞がれた。


 重み。 体温。


 アンはケントの上に跨り、逃げ場を与えない。


 ユメとは、違う。


 包み込むようでいて、 容赦のない圧。


「大丈夫」


 耳元で囁かれる。


「力、抜いて」


 言われるがまま、思考が溶けていく。


 快楽と、背徳と、諦め。


 それらが混ざり合い、

 抗う理由を失わせる。


 リアの眠る気配は、遠い。


 この部屋には、

 今は、二人だけ。


 夜は再び静かに、深く沈んでいった。


 







 朝の光とともに、肩を揺すられる感覚でケントは目を覚ました。


「ケント、朝だよ」


 柔らかく、澄んだ声。


 そこにいるのはリアだった。


 昨夜の出来事が、ふと脳裏をよぎる。


 しかし目の前の彼女は、それとはあまりにも対照的な存在だった。


 曇りのない表情。


 何も知らない、優しい朝。


 その無垢さに、胸の奥が少しだけ軽くなる。


「今日はね、用事があるの」


 朝食を用意しながら、リアはそう言った。


「だから、今日は一人で過ごしてもらうことになるけど……」


 申し訳なさそうに言うリアに、ケントは首を

振る。


「大丈夫だよ」


 すると、彼女は少し嬉しそうに笑った。


「次の旅に出るまで、泊まってていいからね」


 その言葉に、甘えてしまう自分がいることを、ケントは否定できなかった。

 




 リアと別れ、街に出る。


 サカエの昼は、夜ほどの熱はないが、それでも活気に満ちている。


 ふと目に留まったのは、情報屋の看板だった。


 中に入ると、年配の男が奥から顔を出す。


 旅人だと告げると、男は少し考え、南の町について話してくれた。


「南の町にはな、集会場がある。仲間を探すなら、悪くない場所だ」


 今すぐ仲間が欲しいわけではない。


 だが、聞いておいて損はない。


 礼を言って店を出る。


 次に目に入ったのは、占いの館だった。


 せっかくだし、と軽い気持ちで入る。


 中で待っていると、現れたのは目元以外をスカーフで隠した妖艶な女性だった。


 彼女は無言で水晶に手をかざし、やがてケントの目をじっと見つめる。


 沈黙は、ちょうど六十秒ほど。


 そして、静かに口を開いた。


「あなた、最近……辛い別れがあったでしょ。それも、女性と」


 胸が、わずかに跳ねる。


「いつか、その女性とまた会うことになるわね。きっと」


 マリアの顔が浮かぶ。


 ――その時、あの男も一緒なのだろうか。


 占いだ。信じすぎるものじゃない。


 そう思いながらも、心は少しざわついた。



 館を出て歩いていると、今度は見慣れない建物が目に入った。


 《安眠の兎小屋》


 興味本位で中に入ると、受付の男性がにこやかに迎えてくる。


「どのうさぎちゃんがいいですか?」


 指差された先には、ウサギ耳をつけた女の子たちの写真。


 ――そういう店か。


 引き返すには、もう遅い。


 金髪のうさぎちゃんを指名し、奥の部屋へ案内される。


「ご主人様、おかえりなさい」


 そう声をかけられ、言われるがままに膝枕。


 だが、想像していたものとは違った。


 頭を撫でられ、褒められ、耳かきをされる。


 ただそれだけ。


 あまりの心地よさに、いつの間にか意識が落ちていた。


 目を覚ますと、外はすっかり夕暮れだった。


 店の名の通り、安眠の兎小屋。


 外に出ると、空の暗闇と街の光がせめぎ合う時間帯。


 そろそろ帰るか。


 ケントは、リアの家のある方へと足を向けた。




リアの家に戻ると、彼女はどこか不機嫌そうに腕を組んでいた。


「……おかえり」


 声は冷たくはない。


 けれど、いつもの柔らかさがなかった。


 どうやら姉たちから、昨夜のことを“ふんわり”聞いたらしい。


「男の人って、みんなそうだよね」


 ぽつりと、リアが言う。


「そういうこと……出来れば、誰でもいいんだ」


 胸に、鈍い痛みが走る。


 否定したい言葉はいくつも浮かぶのに、うまく形にならない。


 沈黙が、そのまま肯定のように重く落ちた。


 夕食は、静かに終わった。


 気まずい空気から逃げるように、ケントは外へ出る。

 





 そういえば、この街の夜を、ちゃんと歩いたことはなかった。


 サカエの夜は、やはり異様だった。


 光、音、笑い声。


 そして、至るところに渦巻く欲。


 さすがに今は、そういう店に入る気にはなれない。


 それでも、この街の空気そのものが、否応なくそれを感じさせる。


 路地裏。


 何組もの男女が、影の中で身を寄せ合っている。


 どうやら、そういう“場所”らしい。


 その中に、見覚えのある姿があった。


 アンとユメ。


 夜の闇に溶け込むように、二人は一人の男のそばにいた。


 あの夜に見たのと同じ、仕事用の表情。


 胸の奥が、ざわりと揺れる。


 ――もしかして、また……。


 だが、あの時のような変化は、何も起きなかった。


 ステータスが上がることもない。


「兄ちゃん、初めてかい?」


 近くにいた男が、気軽に話しかけてくる。


「ここはな、店の女の子を誘えば、外でもいいんだよ。気に入った子がいたら、声かけてみな」


 ……つまり、あの男は二人を“買った”のだろう。


 それ以上、見るべきものじゃない。


 ケントは視線を逸らし、適当な酒場に入った。


 薄い酒を一杯、二杯。


 酔うほどではないが、頭は少しだけ鈍くなる。


 リアが、もう眠ったであろう時間。


 街の喧騒を背に、ケントは家路についた。


 


 横になり、天井を見つめながら、ケントはさっきの光景を思い返していた。


 ――なぜ、ステータスは上がらなかったのか。


 考えてみれば、不思議なほど心は静かだった。


 アンとユメが、夜の路地で誰かに身を寄せているのを見ても、あのときのような胸を引き裂かれる感覚はなかった。


 それはきっと、分かっていたからだ。


 彼女たちは娼婦で、それを生業としている。


 自分に向けられたあの夜の行為も、特別なも

のではなかったのだと。


 だから、自分も彼女たちに何かを期待していたわけでも、強く縛られていたわけでもない。


 失ったものが、そもそも「絶望」と呼べるほど大きくなかった。


 ――女神の言っていた“対価”には、足りなかった。


 そういうことなのだろう。


 それに。


 リアの存在が、頭をよぎる。


 まっすぐで、嘘がなくて、感情を隠さない。


 あの真摯さに、心が当てられているのかもしれない。



 コンコン。


 控えめな音が、思考を遮る。


「……入っていい?」


 断る理由は、なかった。


 戸を開けると、リアが少し不安そうな顔で立っていた。


「さっきは……嫌な態度とって、ごめんね」


 視線を落としながら、そう言う。


 短い沈黙のあと、彼女は小さく付け加えた。


「……一緒に、寝てもいい?」


 断れなかった。


 布団に並んで横になり、ケントは意識的に距離を保つ。


 触れないように、ただ温もりだけが伝わる位置で。


 リアは、安心したように静かに息を整えていく。


 闇の中、彼女の寝息を聞きながら、ケントは目を閉じた。


 触れ合わなくても、人は救われることがある。


 そんなことを、初めて知った気がした。


 こうして、サカエでの――

 三日目の夜は、静かに終わった。






 朝、目を覚ますと、隣にあったはずの温もりはもうなかった。


 一瞬だけ胸がざわつくが、すぐに鼻先をくすぐる匂いに気づく。


 焼いたパンと、どこか甘いスープの香り。


 食卓へ向かうと、リアがエプロン姿で忙しそうに立ち回っていた。


「おはよう、ケント!」


 振り返って、いつもの元気な声。


 それだけで、不思議と胸の奥が少し軽くなる。


 言われるがまま席につき、朝ごはんを食べる。


 今日も、変わらず美味しかった。


「今日は予定ないから、また遊びに行こうよ!」


 無邪気な誘いに、少し考えてから答える。


「……見晴らしのいい場所に行きたいな」


「あ、それなら!」


 リアはぱっと顔を明るくして、街の南にある展望台の話をしてくれた。


 ――そこからの景色は、確かに素晴らしかった。


 色街サカエを見下ろし、さらにその向こう、

南の地平線に別の街影が見える。


「あれ……」


 自然と口をついて出た。


「情報屋が言ってた街、たぶんあれだ」


「え?」


 リアが、驚いたようにこちらを見る。


「ケント……どこか、行っちゃうの?」


 少しだけ、言葉を選ぶ。


「旅人だからな。ずっと同じ場所にはいられない」


 そう答えると、リアは一瞬だけ黙り込み、そして小さく笑った。


「……そうだよね。でも、寂しいな」


 少し間を置いて、ぽつりと。


「わたしも、連れて行ってほしいな……」


 返事は、しなかった。






 夕方、家に戻ると、今日は珍しく姉たち二人が揃っていた。


 どうやら、今日は休みらしい。


 リアが、少し緊張したように言う。


「……ケント、そろそろ行っちゃうんだって」


 姉たちは一瞬だけリアの表情を見て、それから出来るだけ明るく笑った。


「旅人ってのは、そういうもんさ」


「せっかく仲良くなれたんだしさ」


 アンが続ける。


「明日はパーティーにしよっか」


「ケントの旅の無事を祈って、ね」


 リアは目を少し見開き、それからぱっと笑顔になる。


「うん! じゃあ明日は朝から買い出しだね!」


 その様子に、姉たちも嬉しそうだった。


 その夜は、四人で食卓を囲んだ。


 笑い声の多い、穏やかな時間。


 リアは先に眠りにつき、残った三人で少し話をする。


「リアと仲良くしてくれて、ありがとう」


「……あの子が楽しそうなのが、私たちにとって一番なんだ」


「また、いつでもこの街に戻ってきていいからね」


 ケントはうなずき、答える。


「もちろん。……リアには、いつか必ず会いに来ます」


「えー、私たちは入ってないの?」


 軽口が飛び、自然と笑いがこぼれる。


 笑顔と話し声に包まれたまま、

 旅立ちを控えた夜は、静かに更けていった。


 


 


 朝は、リアに起こされた。


「ケント、起きて! 買い出し行くよ!」


 眠気を引きずったまま家を出て、二人で市場を回る。


 肉や野菜、パンに果物。少し奮発して甘いお菓子も買い、お酒も何本か抱えて、昼前には家に戻った。


 起きてきた姉たちと合流し、部屋の飾りつけをする。


 簡素な家が、少しだけ華やぐ。


 料理は手分けして進めた。


 リアは楽しそうに動き回り、姉たちは手慣れた様子で火を使う。


 夕方前、パーティーは始まった。


 美味しい料理が並び、笑い声が途切れない。


 姉たちはお酒を飲み、ケントも付き合う。


 その輪の中心で、リアはずっと笑っていた。


 あの街の光よりも、ずっとまぶしい笑顔だった。


 食事が落ち着いた頃、ケントは明日の朝に出発することを伝えた。


 リアは一瞬だけ寂しそうな顔をしたが、


「……また、いつか来るよ」


 そう言うと、少し間を置いて笑顔に戻った。


「うん。待ってる」


 楽しい時間は、本当にあっという間だった。


 夜も更け、姉たちはリビングでそのまま眠ってしまった。


 ケントも自分の部屋で寝る準備をする。


 そのとき――


 ノックはなかった。


 静かに戸が開き、リアが立っていた。


「……今日も、一緒に寝ていい?」


 返事を待たず、布団に潜り込んでくる。


「いつか、絶対帰ってきてね」


 小さな声。


 ケントが頷くと、リアは安心したように、静かに笑った。


「わたしね……ケントのこと、好きなのかも」


 その言葉は、軽く扱ってはいけないものだった。


「ありがとう。……嬉しいよ」


 それ以上は、言えなかった。


 言って満足したのか、リアはすぐに目を閉じ、穏やかな寝息を立て始める。


 小さな温もりと、規則正しい呼吸。


 それが――

 サカエで過ごす、最後の夜だった。 







 その日は、いつもより早く目が覚めた。


 隣には、まだ小さな温もりがあった。


 規則正しい寝息が、静かな朝に溶けている。


 起こさないように、そっと布団を抜け出す。


 荷物をまとめ、剣を確かめ、旅立ちの準備を進めた。


 もうすぐ終わる、というところで――


 バタバタと慌ただしい足音。


「……ケント!」


 リアが寝間着のまま飛び出してきた。


 少し乱れた髪、焦った表情。


「勝手に行っちゃうのかと思った……!」


 その声には、はっきりと不安が混じっていた。


「そんなことしないよ」


 ケントは苦笑して答える。


「最後に、リアの朝ごはんも食べたいしな」


 一瞬きょとんとしたあと、リアはぱっと笑顔になった。


「……もう! びっくりさせないでよ!」


 そう言いながら、ぱたぱたと台所へ向かう。


 その音につられるように、リビングで眠っていた姉たちも目を覚ました。


 四人で囲む、最後の朝ごはん。


 いつも通りの味。


 でも、どこか特別な時間。


 食事が終わり、荷物を背負う。


 感謝を告げ、この街を出る準備をするケントに、アンとユメが近づいてきて、こっそり耳打ちした。


「また来たらさ、今度はそっちから夜誘ってよ♡」


「ほんと、待ってるからね〜」


 本当に、この人たちは――と、思わず苦笑する。


 リアは少し俯いたまま、家の前に立ってい

た。


 背を向け、歩き出した、そのとき。


「ケント!」


 駆け寄ってくる足音。


「……これ」


 差し出されたのは、森で見た花を編んだ、小さな腕飾りだった。


「ありがとう」


 そう言うと、リアは少し照れたように視線を逸らしながら言った。


「今はまだ、子供だけど……

 ケントが帰ってくる頃には、もっと大人な女の子になってるからね」


 そして、くるりと背を向ける。


 走りながら手を振り、姉たちの元へ戻っていった。


 その背中を見送り、ケントは静かに歩き出す。




 ――次の街へ。

 南に見えた、あの場所を目指して。

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