禁じ手 ~irregular~
(1)
幽々子は、桜に見入っていた。
数えきれないほどの、桜の木。
幽々子が冥界の管理人になると決まったとき、白玉楼をとり囲むように桜の木を植えてもらった。
永遠を生きる幽々子は、幾度と無く春を迎える。
春を迎えるたびに、桜の花を愛でることができるようにと、紫が強く望んだのだ。
桜の花を見ることが叶わぬままに逝ってしまった、彼女への手向けだった。
「私の身から出た、錆なのよ」
紫は盃を傾けた。
残酷なほどにすべてを受け入れる、幻想郷。
思念体である妖怪が生息できるこの世界こそが、もっとも強力な思念体なのだ。
息づく者たちの思念を吸い上げて、具現化してしまう。
それを熟知しているはずの紫なのに、いつまでも後悔を断ち切ることができず、ずるずると過去をひきずっていたことが元凶。
「紫にも、他人に知られたくない弱みがあったのね。初めて知ったわ」
「幽々子、貴女、楽天家もほどほどにしなさいよ」
紫はまじめに話しているのに、幽々子は、おもしろい世間話を聞いたみたいに、にこやかに酒をたしなんでいた。
酒なんか呑んでいる場合じゃないのに。
「でも、私たちにできることなんて、お酒を呑みながら、妖夢の行く末を見守ることくらいでしょう」
「貴女ね……」
こんな話を聞いて、そんなふうにのほほんとしていられるのは、幽々子くらいだろう。
「夢が自我を持つ。浪漫のあるお話だわ」
「善い夢なら、浪漫に想いを馳せていられるけどね」
「それが、妖怪の賢者の、哀しい過去では、浪漫なんて言っていられないわよね」
「他人事みたいに言うけれど、幽々子にも関係があることなのよ」
「そう……、そうなのよね……」
目を伏せて、指先でお猪口を弄ぶ。
「私のことなのに、他人のことみたいで。でも、自分のことだという自覚もある」
どれだけ探しても、その記憶は幽々子の中には無い。
ところが、自分の身に起きたことなのだと、すんなり受け入れることもできてしまう。
「紫は、私のことを楽天家と言ったけれど、それは違うわ。私は、うれしいのよ」
なぜか既視感を覚えてしまう、白玉楼では無いどこか。
存在しているような、いないような、自分とは切り離された記憶。
いままでは、それが不気味だった。
私は私なのか、私は何者なのか、私がどこから来たのか、はっきりしなかったから。
「うれしい?」
紫はあきれて肩をすくめる。
「この話は、哀しい結末で幕を閉じる。そう運命づけられている。それをありがたがって、うれしいだなんて……」
「あら? 哀しい結末が待っているとは限らないでしょう」
すました顔になって、藍にお酒のお代わりを催促する。
「妖夢が、なんとかしてくれるわよ」
運ばれてきた酒を、紫はぶんどって、言った。
「幽々子。貴女はやっぱり、とんでもない楽天家だわ」
(2)
「紫の能力は、無限の可能性を秘めているわね」
幽々子が茶化した。
「そんなことはないわよ」
「照れちゃって。たまには腹の底を見せたほうがいいわよ」
「照れてなんかないわよ。素直にそう思うわ。たった一人、人間の娘も救うことができずに、なにが無限の可能性よ」
「紫の力をもってしても、救うことはできないの?」
「〝八雲紫には、富士見幽子を救うことはできない〟のよ。これは、あの世界における絶対の法よ」
だから紫は、同じ夢を見る。
哀しい夢を。
大切な人間の友人が、命を落とす夢を。
その友人を救うことができない、自分の夢を。
何度も、何度と無く、同じ夢を見続けてきた。
「だから、物語を他の結末に誘導したいのなら、紫以外の誰かがやらないといけないということなのね」
それを紫は、妖夢に託した。
親友の幽々子が愛する従者に、重い荷物を背負わせることになった。
あの、いけ好かない女の言いなりになって。
「ああ、本当に自分が嫌になるわ」
「自分を責めるものじゃないわよ。特異な能力を持つこの身でも、自分でどうすることもできないことのほうが、多いでしょう」
幽々子は、おおらかな笑みを浮かべた。
それで、紫の心もいくぶんかやわらぐ。
「でも、そう言えば……」
「そう言えば?」
「こないだ、霊夢が愚痴を言っていたわ。幻想郷の連中は、自分が強い能力を持っているという自覚が無いって」
「生まれたときから持っている力だから、たいしたことは無いと、過小評価してしまうのよね」
「それが、引き金だったのかしらね。私には、幻想郷という、一つの世界を創造する力があるっていうのに」
徳利を差し出した。
親友の酌で呑む酒を、幽々子は旨そうに呑んだ。
「こうして、紫からお酌を受けることも、無くなるかもしれないのね」
「一つの可能性にすぎないわ。実際になにが起こるのか、私も『あいつ』もわかっていない」
「なにが起こるかわからないのに、幽子……、って私が言うのは変ねぇ。でも、私って呼ぶのもおかしいわよね。だけど間接的には私なのだから、やっぱり私……?」
どうしたらいいのかしらぁ。と考え込む幽々子。
天然である。
紫の頭脳をもってしても、幽々子の本心を見抜くことは難しいのだ。
幽々子が言ったとおり、紫は、腹の底を簡単に見せることをしない。
妖怪の賢者としての自分に箔をつけるため、意図的にやっていることだ。
ただ、己をまっとうするのみ。
妖忌が言っていたことを、紫は紫なりにかみ砕いて、実践してきた。
昔の紫は、持って生まれた才能を、ことさらにひけらかし、優越感に浸るためだけに能力を使っていた。
そうした、卑下た虚栄心と縁を切り、己を世界に溶け込ませ、世界のためにのみ、己の能力を行使する。
それは、美しいことではない。
結果、紫が得た評価は、油断のならない妖怪とか、冷徹だとか、好ましいものではない。
でもそれでいいのだ。
紫には、自負がある。
自分は、誰よりも幻想郷を愛しているという、強烈な自負が。
なによりも幻想郷が大事であり、幻想郷を守ることが使命だと思っている。そのためについてまわる評価なんて、塵あくたのように無価値なものである。
(だけど、今回の件は、本末転倒なのよね)
紫の幻想郷への執着心は、そのまま、幽子への愛情の重さにつながる。
紫は、幽子が存在した世界の香りを残したくて、幻想郷を創造したはずだった。
それなのに……。
「ほら、また」
「な、なにが?」
「そうやって、一人で考えて、なにも言わなくなる」
「そうね……、ごめんなさい」
「いいわよ。紫は、考えごとをしているときが、一番きれいな顔をしているから」
「よしてよ」
妖怪にとっての外見なんて、相手に自分の存在を認識してもらうための、手段にすぎない。
美しい容姿も、妖怪の賢者という肩書きも、すべて、自己を演出するもので、それ以上の価値を紫は認めない。
「幻想郷は、みんなが思っている以上に、もろい世界だものね。紫がうろたえたり、悩んだりしている姿を見せたら、みんなが動揺する。だから紫は、深い思考に沈むとき、もっとも美しい顔になる」
他者を不安にさせぬため。また、妖怪の賢者としての面子を保つため。
「よくわかっているわね」
「それはね。長いつき合だもの。でも、生前からのつき合いだったなんてね」
幽々子は、両手を組んで、ぐーっと前に伸ばしてみせた。
「紫の夢が具現化しつつあるあの世界は、幻想郷に、どんな影響をおよぼすの?」
「いまはまだ、夢と現のはざまにある。でも、一つの世界として独立するのは、時間の問題だわ。幻想郷と同じ質量をもった世界に自我が芽生えたとき、あの世界と幻想郷は密接につながるでしょうね」
そのとき、富士見幽子が存命であったなら、幽子と幽々子の身になにが起きるのか、予想できない。
「もしかして、紫が妖夢を選んだのは……」
紫は、人差し指とキスを交わした。
それを受けて、幽々子は、伸ばしていた手を口にあてがい、口に封をした。
奴はいまや、幻想郷とあちらとを、自由に行き来している。どこで聞き耳をたてているのか、わかったものではない。
(私の腹の中を、知られるわけにはいかない)
妖夢は切り札なのだ。
ずるずると紫がひきずっていた過去。
悪しき因縁。
それらを、断ち切るための。
実力者がそろう幻想郷にあっても、それを成し遂げることができるとしたら、魂魄妖夢をおいて、他にはいない。
(3)
妖夢は、極度の緊張を味わっていた。
座っているだけで冷や汗が垂れ、のどが乾いてひりひりする。
空せきをしたくなったが、我慢した。
妖忌は、幽子のまえに正座をしていた。
まっすぐに背筋を伸ばし、わずかの身じろぎもしない。
岩のようである。
妖夢が知っている妖忌よりも、やや硬い印象だった。
筋肉の成熟期にあるのか、体全体がごつごつしていて大きい。
若さと力強さは感じるけれど、妖夢に稽古をつけてくれた妖忌よりも、精錬さでは劣るように感じた。
だが、発する気迫のすさまじさは変わらない。
そこにたたずんでいるだけで他者を圧倒してしまう。
忘れかけていた緊張感だった。
妖夢は身動きすることも、言葉を発することもままならない。
「今日は、一大事をお伝えに参上いたしました」
おごそかな声である。
それが例え、飼い猫が子どもを産んだという報告であっても、彼は同じ声色で話すだろう。
「あの……、私は外します」
やっと言葉を発することができた。
「私は居候の身ですから」
それは本音でもあり、口実でもあった。
妖夢が発言すると、妖忌がこちらを見つめてきて、目が合う。
恥ずかしいやら、ひさしぶりに会えてうれしいやらで、感情がぐちゃぐちゃになる。
一刻も早く、ここから逃げ出したかった。
「遠慮することは無いわ。貴女が信頼に足りる人であることは、私も葵も、良く知っているわよ」
「恐縮です……」
ささっと退席したかったが、幽子からの信頼が重しになって、動くことはかなわなかった。
妖夢は居住まいを正す。
場が整ったところで、妖忌は話を始めた。
「幽子様。先の右大臣殿と大納言殿の供養塔をご存じでしょうか」
「ええ。いまの右大臣様が、供養を依頼して、供養塔と共に、桜の木を奉納したと聞いたわ」
「偽善だわ。本当は、政敵がいなくなってうれしいくせに」
葵は憮然と言い放った。
目上の人間たちの会話に、平然と割って入れる葵を、妖夢はすごいと思った。
(どこか尊大さがある子だと思ってたけど、そうか、貴族の娘だったのか)
主君に仕える宿命を背負った妖夢とは違い、葵は、他人を従えるお姫さまなのだ。そりゃ、妖夢と価値観がすれ違うわけだ。
「為政者というのは、そういうものです」
妖忌は、無表情のまま言う。
話の腰を折られて気を悪くしたふうでも無いし、権力者への嫌悪感も無い。
彼は、そういう人だ。
世の中を、あるがまま受け入れる。
それが、妖夢が尊敬してやまない師匠の、芯の太さだった。
「供養塔に祀られた霊魂ですが、いまだ成仏できていないようなのです。それどころか、怨念の強さは日に日に増していき、他の怨念も取り込んで、いまや寺の住職でも抑えきれないほどだとか」
「そのまま、右大臣を祟り殺しちゃえばいいのよ」
「葵。よしなさい」
「右大臣が祟りに遭えば、幽子様のことを害しようとする者は、いなくなります」
「そうしてまた、新たな怨念が生まれ、負の連鎖は、いつまでも止まらない」
「そんなこと、幽子様が気にすることじゃありません。あいつの因果応報なんですから」
「話を続けてもよろしいか?」
妖忌が断りを入れると、その圧を受けて葵は口を閉じた。
彼のひと言は、どんな説教よりも効果があるのだ。
「供養塔から漏れ出した怨念が、右大臣が奉納した桜の木を喰い始めたのです。このままでは、妖の桜が生まれ、人々に害をなすでしょう」
「死者の想いというのは、すさまじいのね」
死霊と交わることができる幽子は、そのおそろしさをよく知っていた。
「勅命が下りました。妖の桜の下で、自害せよと」
妖忌は、いまだに表情を変えない。
(4)
葵は絶句している。
幽子はあきらめきった顔をしていた。
妖夢は、とうとうきたかと、息を漏らした。
居間は静寂に包まれた。
いつしか、雨が降り始めていた。
やわらかい小雨が、庭石や草木をしっとりと濡らしていく。
「私の死をもって人柱とし、怨念を封印するのね」
それが、富士見幽子という哀しい物語の結末。
彼女の死によって封印された桜の木は、西行妖と名付けられ、幽子の転生に併せて、幻想郷の冥界にやって来た。
枯れた木の枝に桜が芽吹くことは、無い。
西行妖に巣食っている怨念を、幽子が封印しているためだ。
「日どりは」
「10日後。当日の警護は、不肖ながら某が務めさせていただきます」
「わかったわ。妖忌が付き添ってくれるのなら、これ以上なく安心だわ」
「恐れ入ります」
「なんで……」
最初に沸いた感情は、疑問。
「なんで、幽子様も貴方も、そんなに落ち着いていられるの……?」
いいように利用されるだけされて、自害を命じられて、平然としていられる幽子も、こんな残酷なことを、淡々と主に伝えることができる妖忌も、葵には異様に映った。
「幽子様、死ぬんですよ? 死なないといけないんですよ!? なんで、なんで、なんで幽子様が死ななきゃいけないの!? 命じられたとおりに、山奥の屋敷でひっそりと暮らしているだけなのに!」
次に沸いた感情は、憤怒。
やりきれない想いを、葵は爆発させた。
妖忌、妖夢、幽子は、無言で見守っていた。
止めることや、なだめることはしない。
気持ちは、理解できる。
でも、怒っても叫んでも、どうしようもできないことが、世の中にはあるのだ。
富士見幽子は、自刃して果て、死霊をつかさどることができる幽子の能力をもって、西行妖の力を抑える。
幽子が人間として転生すれば、西行妖の封印が解けてしまうかもしれないし、次の転生先で、幽子と同じ能力をもった人間が生まれ、幽子と同じように、哀しい人生を送ることになってしまう。
この負の輪廻を断ち切るため、幽子の魂は、転生することを禁じられた。
そして冥界の管理人、西行寺幽々子として生まれ変わり、前世の哀しい記憶をうばわれた。
(この流れには、逆らってはいけない。抗ってはいけないんだ)
幽子が自害しなければ、なにも解決しないまま、問題を先送りにすることになる。
「妖夢!」
葵は、般若みたいな形相で、妖夢をにらみつけてきた。
「貴女、幽子様に誓いを立てたでしょ! 必ずお守りしますって!」
ちっぽけなものだ。そんなもの。
歴史という大河の流れに比べ、一剣士の誓いなど、なにほどのことがあろうか。
決して変えてはならぬもの、決して抗ってはならぬもの、決して触れてはならぬものがある。
「薄情者!」
非難されようと蔑まれようと、私情を捨て、受け入れなければならないものがある。
(それに、幽々子様はどうなる)
幽子が助かってしまったら、西行寺幽々子は生まれてこない。
「この世界の富士見幽子」と、幻想郷の西行寺幽々子に、関連性があるのかは不明だ。
不明だからこそ、うかつなことはできないし、言えない。
「やめなさい、葵。妖夢は、私たちになんのかかわりも無いのよ。それなのに、これまでよく尽くしてくれた。責めたら罰があたるわ」
心なし、しかるような口調で幽子が言う。それで葵は、黙るしか無くなった。
葵とて、心の底ではわかっている。
いくら憤ってみたところで、ちっぽけな人間の身では、なにもできないのだと。
人間など、本来無力。
努力し、鍛錬し、挑戦し……、己を磨き続けても、それは自己満足にしかすぎない。運命や宿命といったもののまえでは、なんの役にも立たない。
それでも……。
「私、あきらめませんから」
存在するかもわからない、希望に賭けてみたくなるのが、人間の業だった。
(5)
人間の体というのは、案外に頑丈なのかもしれない。
時間が経てば、ちゃんと腹が減るし、陽が暮れたら、体をきれいにしないと落ち着かない。
(あんなに、いろんなことがあったのになぁ)
妖夢は、裸になって浴室に入った。
貴族の屋敷の風呂だけあって、白玉楼にも劣らない立派な造りだった。
湯気が立ち込めている。
幽子と葵は、先に湯あみをすませ、まだ湯が熱いうちに、妖夢が残った湯を使わせてもらう。
妖夢に残り湯を使わせることを、幽子はためらっていたけれど、白玉楼でも、ずっと幽々子の残り湯を使っていたので、新しい湯のほうが、むしろ落ち着かないのである。
(師匠……)
妖忌に刀で突かれた、左の鎖骨の下をさすった。
「まさか、師匠にも会うことになるなんて」
だが、この世界では、幽子が健在なわけだから、妖忌がいることも自然だし、主人である幽子を訪ねてやって来るのも、当然のことだった。
その、妖忌が訪ねてきた理由というのもまた、一大事。
幽子が幽々子に転生する転換期に立ち会うことになってしまった。
妖忌が去った後の屋敷の空気は最悪だった。
「夕餉のときなんか、誰もしゃべらなかったもんなぁ」
もちろん、妖夢もである。
言葉を溜め込むことに疲れたらしく、一人の空間であるのを良いことに、独り言をつぶやいていた。
かたん……。
「!?」
脱衣所から、物音がした。
五感が優れている妖夢である、聞き間違いは無い。
(ま、まさか、お化け……?)
心臓が、飛んだり跳ねたりしているみたいに揺れまくる。
浴室の戸が、すーっと横に動いた。
そのとき、妖夢の思考がすっ飛んだ。
逃げ場は無い。
武器も無い。
しかも、湯あみの最中で、すっ裸ときた。
(やられるまえに、やる!)
どんな逆境に置かれても、剣士として一矢報いねばならない。
日々、地道に鍛錬を積んできたのだ。相手がお化けだろうが、無抵抗でやられわけにはいかない。
死なばもろとも。
浴室に入ってきた影に組みつき、相手の動きを封じる。
(む、思ったより、やわらかいな。人の肌みたいな感触だ)
少しずつ、お化けの正体があきらかになる。
背丈は、妖夢よりも少し低い。顔つきは、幼さが滲んでいて愛嬌があり、髪型は、妖夢と同じく黒髪のぱっつん。
もう一つ、妖夢と彼女の共通点をあげるならば、二人とも、凹凸が少ない、なだらかな体形をしているということだった。
妖夢と葵は、浴室の入り口で、抱き合う格好になった。
というよりも、妖夢が一方的に葵に抱きついている。
「なに考えてんの!? 妖夢の変態!」
地道に鍛錬を積んできた剣士であっても、葵が繰り出した平手打ちをかわすことは、できなかった。
(6)
「入ってくるなら、声をかけてよ」
妖夢の右頬には、葵の右手の形が、正確に刻印されていた。
それだけ、もろに平手打ちを食らったということである。
「女同士なんだから、いいでしょ。いまさら遠慮する仲でもないし」
「そうだけど……」
否定できない妖夢。
毎日、顔を突き合わせて家事をしてきたし、なんだかんだ、友達みたいな関係になっていた。
葵のことを、ずっと怪しんできたから気づいていなかったけれど。
二人して、湯船に浸かった。
抵抗が無いのが不思議だった。
(葵って、なんなんだろう?)
妖忌から教えてもらった幽々子の過去には、葵の名は登場しない。
でも幽子の従者として、ずっと幽子の側にいて。でもそれは見せかけで、裏では、幽子に復讐する機会をうかがっていて。でも……。
(でも、が多すぎるんだよな。葵は)
でも、幽子の自害に反対していて、幽子を助けたいと思っていて。
昼間、妖忌のまえで見せた怒りは本物だった。あきらめないと言いきったときの瞳に、偽りは見られなかった。
「今日は、幽子様と一緒じゃないんだ」
聞きたいことは、星の数ほどあったけれど、当たり障りの無いところから会話を始めた。
「妖夢と話がしたかった」
葵は早口で即答した。
「なに?」
妖夢も短く聞いた。
葵は、早く会話を進めたがっている。そうしないと、湯が冷めてしまうから。
「あの人が持ってた刀……」
「刀? あの人っていうのは、ししょ……、妖忌さんのことだよね」
「ううん。なんでもない。それより、あの人と妖夢と、どっちが強い?」
「勝負してみないと、わからない」
反射で応えていた。
本音は、師匠には一生勝てない、適わぬままだと言いたい。どうせ自分なんかと妥協してしまえば、楽ができる。
だけど、鍛錬に励んだ日々が、楽をすること、甘えることを拒否する。
越えたい。いつかは。
あの偉大な影を、越えていきたい。
「妖夢、お願い。幽子様を助けて」
「えっ!?」
「妖夢がいれば、この山から出られる。宮中から追っ手が来ても、妖夢なら退治できるでしょ」
「それは……」
並みの刺客には負けない自信がある。
自信があるから、言葉が淀んでしまう。
葵の言ったとおりだ。
妖夢の力をもってすれば、幽子をこの屋敷から脱出させることができる。できてしまう。
それはつまり、幽子の自害を回避するということ。
定められた運命を、ねじ曲げてしまうということだ。
(7)
「妖夢。お願いよ」
葵は策士だ。
浴室という逃げ場の無い状況では、返事をはぐらかすことができない。
はっきりとした返事をしないと、葵はきっと納得しない。
「そのまえに、聞かせて。葵は、幽子様を恨んでいるんじゃないの?」
淀みの無い言葉を発するために、わだかまりは滅しておきたい。
葵の真を知りたかった。
「恨んでたよ。父上が死んじゃったのも、家が無くなっちゃったのも、ぜんぶ幽子様のせいだって、恨んでた。いつか家宝の短刀で、幽子様に復讐するんだって誓って、従者になりすましたの。でも……」
葵の言葉に、熱が籠っていく。
反対に、湯船のお湯が、熱を失っていく。
「本当に悪いのは誰なのか、わかったの。幽子様は、右大臣が権力を握るために利用されただけなんだって」
「それで、幽子様を助けたいんだ」
「始めは、助けるなんて、大それたこと、考えてなかったの。私は非力な人間だから。だからせめて、庭の桜が花を咲かせるまでは、生きていてほしくて……。幽子様は、桜の花が好きだから……」
葵の瞳が、うるむ。
「桜の花を見ることもできないなんて、あんまりよ。いくらなんでも、哀れすぎるでしょ……」
言葉に詰まって、葵は、湯船のお湯で顔を洗った。
「右大臣と密約を交わしていたのは、時間稼ぎだったのか」
「私も用済みになったら、刺客に襲われた男みたいに、消されちゃうに決まってる。あんなやつとの約束なんて、誰が信じるもんですか」
「すごいな」
たいした軍師だ。
この見ためで、時の権力者を騙していたのだから。
いや、子どもみたいな見ためも、葵は武器にしていたのかもしれない。ずる賢い右大臣も、葵が子どもだと思って、甘く見ていたのだ。
そしてこの優秀な軍師は、妖夢という強力な手札を得た。
禁じ手の手札だ。
本来であれば、妖夢はこの世界、この場面に存在しないのだから。
賊を退治して以来、葵の機嫌がやたらに良かったり、妖夢に愛想良く接してきたのは、幽子を助けるための手段を得たからだったのだ。
(もしや、紫様のねらいも、ここにあるのでは無いか?)
先日、山の中で出会った紫は、幽子を見捨てるなと言い残して消えた。
(だが、幽々子様まで巻き込んで、幽子様を助けたい理由はなんだ)
せっかく葵への懸念が消えたのに、新たな疑問が生まれてしまった。
すべてがすっきりとつながらない。
湯が冷めきってしまうまでには、疑問が解消されることは無いだろう。
「考えさせて」
はぐらかしたのでは無い。
真剣に、考える覚悟で応えた。
(8)
あのとき、こうしていれば、こうなっていれば。
不幸に見舞われたとき、そういう思考に陥りがちだ。
でも、違う道を選んでいたら、いまよりももっと不幸になっていたかもしれない。
幽子は哀れだ。
権力者に利用されるだけされて自害など、不憫でしか無い。
「でも、最後は丸く収まるんだ」
妖夢は、布団の上で正座していた。
生と死を操るという、忌まわしい能力を持った魂は、幽子の自害をもって転生することがなくなる。
権力者の命による自害、という点に目をつぶれば、幽子の魂は救われることになる。
だから妖忌は、幽子の自害という現実を受け入れる。
妖忌の選択は、正しい。
幽子の魂は、哀しい過去を忘却し、冥界の管理人という天職にたどり着く。そこで八雲紫と再会して、二人は生涯の親友となることができる。
「その未来を知りながら、幽子様を助けることに意義があるのか」
意義があるとするのならば、感情の満足くらいだ。
哀れな女性を、権力者から救い出す。
武勇伝としては申し分ないし、心躍る噺ではある。
しかし、天寿をまっとうした幽子の体から解脱した魂は、転生を続ける。安寧の地を求めて、旅をしなくてはならない。
(幻想郷の冥界以上に、幽子様の魂が安らげる場所など、あるのだろうか)
無い、と言いきることができない。
紫は、幽子を見捨てるなと言い残した。
ということは、紫には、幽子を救った後の成算があるということなのだろう。
(ならば、紫様の言葉に従うか……。いやダメだ。こういうことは、自分で決断しないと)
灯りを消した部屋は、暗闇に包まれている。
いまの妖夢の状況を表していた。
道しるべは無い。だが、どこかには進まなくてはならない。
選ぶことができる道は、一つだけ。
「いずれにしても、穏便には済みそうに無いな」
甘んじて幽子の自害を受け入れるのならば、幽子を見殺しにし、葵の嘆願を退けることになる。
幽子を救うのは修羅の道。上手く逃げることができても、そのあとに、よりよい未来が待っている保証は無い。幽々子への影響も不明だ。
情か非情か。
どっちをとっても、誰かが犠牲になってしまう。
あちらを立てればこちらが立たず。
浮世というのは、世知辛い。
「生きるっていうことは、それ自体が修業なのかもしれないなー」
禅僧みたいなことをつぶやいて、妖夢は布団にもぐりこんだ。




