以前~long ago~
輝夜と阿求が同居している設定については、別のお話にて。
(1)
紫は、幻想郷を見つめていた。
澄んだ空気に混じる、少しの人間。
そして妖怪は、人間の命を奪って穢れを払う。
かつての世界がそうであったように、幻想郷も、そうして均衡を保っている。
それが健全な秩序であるかどうかは別だが、紫は、人間と人外の者との匂いが混ざり合う、この世界の空気が好きだった。
紫は頬杖をつきながら、愛して止まない幻想郷の景色を、飽きもせずに眺めていた。
青空を、鳥たちがのびのびと泳いでいる。
その中に、烏天狗や妖精も混じっていて、博麗神社の境内に降り立つと、霊夢となにごとか言葉を交わしている。
朝からずっと、神社の屋根の上に座っているが、人間が博麗神社に参拝する様子は、まったく見られない。
霊夢は、不思議と妖怪に人気があった。
博麗神社には、人外の者ばかりが集まってくる。居候みたいに、神社に居つく妖怪までいる。
そのため、人間が近寄りにくい場所になってしまった。
霊夢は、おもしろい人間だ。
肝が据わっていて度胸もあるし、人間にしておくには惜しい逸材だ。
(いっそ、霊夢に、このことをうち明けてしまおうかしら)
紫は思いつめていた。
今回の件は、紫をしても、気の迷いが生じてしまいそうなくらいに重かった。
(情けないわね……)
妖怪の賢者と称される明晰な頭脳。
幻想郷という、大きな箱庭を創造することができる、強大な力。
無敵に見える八雲紫であっても、弱点というものは存在するのだ。
「藍の料理が食べたいわね……」
妖怪である紫は、文化的な食事を必要としない。だが、思考に耽るのに疲れてきたのか、紫の脳は、楽しいことを求め始めた。
「それに、橙を甘やかしたいわ……」
ばたばたとどこかに出かけ、かと思ったら、ばたばたと帰って来る。あの気まぐれな猫の妖怪は、実に甘やかし甲斐がある。ただ、こんなに中毒性があるとは知らなかった。
いま藍と橙の二人は、白玉楼におもむいている。
藍は、幽々子の身の周りの世話をするために。橙は、幽々子の精神安定剤として。
二人がいない家は、がらんとしているので、余計にさみしい。
だからこうして、博麗神社の屋根の上でたそがれている。
(それにしても……)
おいしいものを食べたいとか、子どもをかわいがりたいとか、これじゃまるで、人間のようじゃないか。
これしきのことで頭を悩ませて、心が重くなるなんて脆弱な。賢者の称号なんて返上してしまえ。
と自分を責めてみたところで、心が晴れるわけではない。
空はこんなにも青いのに。
(2)
「紫―。いつまでそんなところにいるのよー」
たそがれていた紫に、霊夢が呼びかける。
違う世界から現に戻ってきたことをたしかめるように、霊夢の姿を瞳に映す。
そしてまた空を見上げる。
山の向こうに、薄い衣のような雲がかかっている。
(おぼろ雲……)
雨が降る前兆だった。
冷たく乾いた風の中に、かすかな湿り気を感じる。
凍てつくような氷雨が降る時期が終わる。
じきに、しっとりとした雨が降りそぼる。
それは、冬が終わる合図。
そして幻想郷に、春がおとずれる。
季節の変わりめを示す、かすかな予兆。
紫はそれを見逃すことは無い。
なぜならば、紫にとって、幻想郷は絶対的な信仰の対象であり、おおいなる愛情をそそぐべき子どもであるから、変化に気がつかない道理が無い。
紫は、ふわっとスカートをたなびかせながら、境内に降り立った。
「まるで猫みたいに、ずっと日向ぼっこしてたわね。そんなに屋根の上が気に入ったの?」
「猫といえば、例の、永遠亭の……」
「あの妖怪だったら、珠枝って名づけられて、輝夜と阿求が猫っかわいがりしてるわよ」
兎にも猫にも姿を変える妖怪を猫っかわいがりとはややこしい。変な妖怪が生み出されたものだ。
「名前が付いたら、いよいよ自我が確固たるものになるわね」
妖怪は、精神体だ。
現実に存在しているようでしていない、曖昧な存在なのだ。
だが、名前が付与され、性格や容姿が認識されれば、強く現世と結びつくことができる。
そうしてこれまでも、多様な妖怪が生まれてきた。
「そうね。いわゆる、一匹妖怪ってやつね」
「幻想郷じゃ、めずらしくもないけれどね」
紫は自虐をした。
一匹妖怪というのは、名前それ自体が種族の名称になる。
八雲紫という妖怪がそうであるように。
それだけ聞けば、希少種のように錯覚するけれど、そういう妖怪は、幻想郷にごろごろいる。
「幻想郷の人間たちは、不可解なことが起きたら、妖怪のせいにしちゃうからね」
例えば、家の鍋が無くなったことを妖怪のせいにすれば、妖怪、鍋隠しという、非常にニッチな妖怪が誕生する。厠に備えつけてある紙が、いつの間にか切れていることを妖怪のせいにすれば、厠の紙を勝手に使い切ってしまう、たいへんに迷惑な妖怪が生まれる。
このくらいならば笑い話で済むが、
「幻想郷に危害を加えるような妖怪が生まれたら、笑っていられないわよ」
そうなれば、霊夢が退治に乗り出さないといけない。
だから霊夢は、人外の存在が生まれることを警戒しているのだった。
(本来ならば、霊夢に話すべきなのでしょうけど……)
今回のことは、紫だけで処理すると決めていた。
霊夢から視線をそらせば、自然、顔は上に向く。
「そんなに見つめたら、空に穴が開くわよ」
朝っぱらから、空ばかり見上げている紫が、霊夢はおかしいようだった。
「おぼろ雲ね」
山の向こうに、薄い雲がかかっているのを、霊夢は見逃さなかった。
霊夢も、紫と同じ。
幻想郷の秩序を守る博麗の巫女にとっては、幻想郷は、子ども同然であるのだ。
だから霊夢も、幻想郷の変化を敏感に感じとることができる。
だから紫は、霊夢と視線を交わらせることを避けるのだった。
(3)
「藍ちゃーん! お酒お代わりー!」
幽々子は親指と中指で徳利を弄びながら、酒の代わりを所望した。
すると藍は、苦々しい顔で主客殿の襖を開けた。見れば、幽々子は足を崩してすっかりくつろいでいて、着ものも鎖骨が見えるくらいにはだけている。
「幽々子様。あまり羽目を外しすぎませんようお願いいたします」
藍が、机の上に散乱した徳利や料理の皿を、おぼんに乗せながら小言を言う。
しかし幽々子は、わずかに徳利の中に残っていた酒をお猪口にそそいで、
「いいじゃない。どうせこの身は亡霊なのだから。いくら吞んでも食べても、体を壊すことは無いもの」
ほがらかに笑う。
「それに、藍ちゃんのご飯、すごくおいしいから、お酒も進んじゃうのよね」
小鉢の里芋の煮つけを、器用に箸で割きながら、口に運ぶ。
(うぅ……。それは、朝食のために作り置きした煮ものなのに……)
藍が整えた夕食は、すでに綺麗に平らげられていた。
それで幽々子が満足しなかったので、藍はしかたなく、追加で里芋の煮ものを膳に乗せたのだった。
「心がけのことを申し上げております。自堕落な生活は、心を蝕みます」
しかし、これ以上は、いくら幽々子がもっと食べたいと言ってきても、妥協しない覚悟であった。
煮ものと同じく、明日の朝食用に作り置きしている金平ごぼうは、絶対に死守しなければならない。従者の朝は、忙しいのだから。
「橙も。そんなところで寝ていたら、幽々子様に失礼じゃないか」
幽々子の膝の上に頭を乗せて、橙がまどろんでいた。
藍は、橙の体をゆすって起こそうと手を伸ばしたが、
「いいじゃない。気持ち良さそうにうとうとしてるんだから、邪魔しちゃかわいそうよ」
幽々子がそれを止めた。
「しかし……」
「いいのよ。もう妖夢は、こんなふうに甘えてくれなくなっちゃったし」
幽々子は、橙の茶色い髪を指先で撫でた。
(そりゃ、そうだろうな)
妖夢も藍も、いっぱしの妖怪になった。
たまに精神が不安定になることもあるし、誰かに甘えたい気持ちになるときもある。
だが、一定に分別がつくようになると、そういう気持ちを、主人に向けることは無くなる。
主従関係にあるから。ということもあるけれど、それはタテマエも孕んでいて、主人に甘えたり弱みを見せるのが、恥ずかしいのである。
だから。
「甘えたいときに甘えさせてあげたらいいわよ。まだ幼いと思っていても、すぐ大人になって、私たちから離れていくんだから」
という幽々子の言葉にも、一理あるなと思えるのだ。
「幼い子たちの成長を見守るのは楽しいけれど、自分は歳を取らないって自覚しちゃうから、さみしくもあるのよね」
冥界の管理を任されている幽々子は、年齢を重ねることは無い。
幽々子の体は、時間が止まっているかのように、美しい容姿と豊かな体系を維持し続ける。
生涯を終えることは無く、魂が転生することも無い。
不死の体を持つ幽々子は、幻想郷が滅びでもしない限りは、永遠に冥界の管理人を務め続けるのだ。
「たまに、思うのよね」
幽々子は、自分の手のひらを見つめた。
「私が私になるまえは、なにをしていたのかなーって」
「……」
藍は、どう応えて良いかわからず、食器を乗せたおぼんを持ったまま、その模様を眺めていた。
(4)
(幽々子様だ……)
間違い無い。
「体が良くなるまで、ゆっくり休んでいきなさい」
そう言って、自室に戻って行った女性は、全体的に幽々子よりも線が細く、おしとやかで達観した印象だった。
容姿こそ、妖夢が知っている幽々子とは別人。
しかし、内包している気は、幽々子と寸分の違いも無い。
(私が、幽々子さまの気を見間違うはずが無い)
幼いころからずっと、幽々子に仕えているのだから。
「はぁ……。頭がこんがらがりそうだ」
幽々子と同じ気をまとっているあの女性は、誰なんだろう。
状況を整理しようにも、わからないことばかりで、推理のとっかかりが見当たらない。
布団にくるまって、天井を見上げた。
手入れが行き届いていないのか、天井の端っこに、小さな蜘蛛の巣ができていた。
(う……、気になる)
職業病というやつであろう。
妖夢は、自分の置かれた状況よりも、部屋の掃除が完璧でないことのほうが気になってしまった。
(あと、庭も……)
さっき、ちょっと縁側に出たときに、屋敷の庭を見てしまった。
最低限の仕事はしているみたいだけど、秩序のある庭とは、とても言えなかった。
(あの、葵っていう子が従者っぽいけど)
他に、使用人はいないのだろうか。
そうだとしたら、女の子一人で、主人の世話から屋敷の手入れまですべてこなすのは大変だ。細かいところにまで手が届かないのは、しかたが無い。
白玉楼の管理を一手に担っている妖夢には、その苦労がよくわかった。
「手伝うか」
一宿一飯の恩義。
倒れていた妖夢を介抱してくれたのだから、なにかしら恩返しをしないといけない。
それにどうせ、横になっていても、いろんなことが気になって眠れないだろうし。
布団から抜け出し、縁側を渡って葵を探した。
それなりに広い屋敷だし、どこになんの部屋があるのかわからないから、見知らぬ街を歩くみたいに、きょろきょろと周囲を見渡しながら歩いた。
「土間は、こっちかな? ……っ!?」
背後に嫌な気配を感じた。
反射的に床を蹴って、その気配と距離をとる。
腰の刀に手をかけようとするが。
(しまった! 白楼剣も楼観剣も無いんだった)
いまの妖夢は、武器を持たぬ丸腰だった。
(まずいか、これは……)
(5)
「なに……、してるの?」
そこにいた人は、やっと絞り出して言う。
「あっ……」
背後に化けものでもいるのではないかと思っていたので、妖夢は困惑した。
妖夢と同じくらいの背丈の女の子が、それこそ化けものでも見たかのように、恐怖で体を震わせている。
「ご、ごめん」
葵は、妖夢の尋常で無い反応速度に、びっくりしたのだろう。
鍛錬を積んでいるうえに、半分、妖怪の体を持っている妖夢だ。その動きは、人間である葵を驚かせるには、充分すぎた。
「なにしてるの」
葵は、今度ははっきりとした声を発した。
「寝てるだけなのもなんだから、家事を手伝おうかと思って」
すると葵は、不快そうに眉を動かした。
「いいわよ。幽子さまのお世話は、私の仕事なんだから」
自分の領分を侵されることを、嫌っているようだった。
「うん。それはわかってるよ」
でも、葵一人では、細かいところにまで手が回っていないのは、明白だ。
「私は、言われた仕事を手伝うだけにするから。それならいいでしょ」
葵は、表情を和らげることは無かったが、やがて、はーっと息を吐いた。
「わかったわよ」
一人だけでは限界があると自覚していたのだろう。案外、すんなりと妖夢の提案を受け入れてくれた。
「それじゃあ、これからお昼ご飯を作るから、手伝って」
「もちろん」
妖夢がほほ笑みかけると、ようやく、葵の顔から険しさが消えた。
(あれ?)
ふと、妖夢はいまの会話を振り返った。
「ちょっと待って。幽子さまって言った!?」
「は?」
葵は、なにを当然のことを言っているんだろうといった様子だった。
しかし妖夢にとっては、由々しき事態である。
「言ったわよ。だって私は、富士見幽子さまにお仕えしてるんだから」
幽子。
富士見、幽子。
それは、幽々子の前世の名前だった。




