myself ~わたしがわたしとして生きる意味~
「貴女が送り込んだ半霊は、いつ動いてくれるのかしら?」
鋭い目つきをしている彼女に、紫は、あわれみの視線を返す。
「なによ、その目は」
それが癇に障ったようで、彼女の目つきが鋭さを増す。
まるで、むき出しの刃物。
能力をさらけ出せば、他者を威圧し、屈服させることができると疑っていないから、こういうことができるのだ。
(愚かな……)
我がことながら、情けなくなる。
「先に断ったはずよ。不確定因子を出すくらいしかできないって。あとは、流れに任せるしか無いというのに……」
「なんなのよ。いちいち引っかかるわね」
「妖夢に、会いに行ったらしいわね」
「行ったわよ。状況が動かないのだから、誰かが動かすしか無いでしょう」
「そして、その誰かは、自分しかいないと」
「だってそうでしょう。あの世界に行けるのは、私か貴女しかいないのだから」
自分は、特別な存在である。
自分こそが、至高の存在である。
だから、自分以外の要因に、成り行きをゆだねることができない。
恐れているのだ。
描いた青写真が汚されることを。
理想にたどりつけないことを。
故に、攻撃的な行動をとってしまう。
(哀れだわ。どこまでも哀れ)
救えない。
この、八雲紫という愚か者は、救いようが無い。
(2)
「紫、もう一人の貴女は、いま、どうしているの?」
徳利を運んで来た藍は、紫の顔を覗き込んでから、幽々子のかたわらにお盆を置いた。
幽々子は、手酌で盃に酒を注ぎ、持ち上げる。
視線の先には、桜の木々。
白玉楼の桜の木々は、開花のときを、いまかいまかと待ちわびていた。
幽々子が徳利を差し出してくる。
幽々子の酌で、盃が酒で満ちると、紫は酒を一気に飲み干した。
「紫様。無茶な飲みかたはお控えください」
藍が諫めたが、紫はかまわずに、盃を酒で満たす。
「なかなか、不調みたいね」
「自分で招いたこととはいえ、あいつと顔を合わせるたびに、嫌な気分になるわ」
「あら、そうなの? 私も、昔の自分と会ってみたいから、うらやましいわ」
「幽々子は、前世の記憶が無いから、そんな気楽なことが言えるのよ」
「ははぁ、覚えているから、余計に苛立つのね」
「そうよっ」
紫は、勢い良く酒を流し込んだ。
吞まなきゃやってられん、という心の声が聞こえてきそうだった。
「幻想郷は、おもしろいわね」
幽々子の口元が緩む。
人々の想い。
願いも、憂いも。
幻想郷は、どこまでも寛容に受け入れる。
そして幻想郷は、鏡よりも精巧に、人々の想いを実現させる。
誰の、どのような想いであっても、例外は無い。例外は認めない。
幻想郷は、ひたすら冷徹に、平等であった。
「ずっと隠してきた私の想いも、幻想郷には、見透かされていたのね」
富士見幽子を救うことができなかった後悔。
そして、あの時代を生きていた、愚かしい妖怪。
自らを、絶対的な存在だと妄信していた、井の中の蛙。
それが、八雲紫という、一匹の妖怪。
何度も、何度も、何度も……。
春を迎えるたびに、同じ夢を見た。
それは強い思念となり、ついに幻想郷は、紫の想いを具現化させてしまったのだ。
遠い昔。
まだ、富士見幽子が生きている世界が、形を成してしまった。
富士見幽子、八雲紫ら、物語の登場人物とともに、一つの世界として自我を持ち始めてしまったのだ。
「馬鹿げた話だわ」
紫であっても、話の規模が大きすぎて、現実味を味わうことができなかった。
だが、紫の力は絶大なのである。それこそ、幻想郷という、一つの世界を創造してしまうほどに。
紫の強い想いによって生まれた、もう一つの世界は、やがて自我を確立して、幻想郷のごとく、独立していくだろう。
そのとき、幻想郷に、どんな影響を与えるか、計り知れない。
「紫様。差し出がましいようですが、自我を持ちつつあるあの世界を、封印することはできないのでしょうか」
菜花としめじのおひたしがよそられた小鉢を、二人の間に置きながら、藍。
「それはね、私もまっ先に考えたことよ。でも、小賢しく立ち回っている奴がいるでしょう」
富士見幽子が生きた世界には、厄介な存在がくっついている。
昔の、八雲紫だ。
自分こそが絶対で、自分が望んだことは、必ず叶えられると思い込んでいる。
「そこに、幽子を失った怒りが加わっているのだから、もう無敵よ。交渉のしようが無いわ」
あちらの世界の紫は、幽子を生き永らえさせる未来しか、見えてない。
もし、協力をしないようならば、幻想郷にある西行妖を、満開にさせると脅しをかけてきた。
「ふぅん」
幽々子は、興味深く主従の会話を見守っていた。
「西行妖に、花を咲かせる、ね……。おもしろいかも」
「やーめーてー、ちょうだい。幽々子、変な気を起こさないでよ。ただでさえ、あっちの世界のことで、頭が痛いってのに」
西行妖。
白玉楼の敷地内に植えられた、巨大な桜の木。
その木には、富士見幽子の魂が眠っている。そして、彼女が自害し、人柱となることで抑え込んでいる怨念も。
西行妖が花を咲かせるということは、幽子とともに、怨念をも復活させるということだ。そうなれば、幻想郷は大混乱に陥ってしまう。
「これから、どうなるのかしらねぇ」
ひなたぼっこをしている老人みたいに、幽々子はぼんやりとつぶやいた。
(3)
屋根に積もっていた雪が溶けて、雫がしたたり落ちる。
日差しを浴びた雪解け水が、真珠のように輝いている。
春の到来を感じさせる、やわらかい日差しが、縁側から部屋にかけて伸びてきている。
昨日までの大雪が、嘘のようだった。
(春を迎えるための、最後の試練、か)
試練としては、少々、厳しすぎたのではないか。
神仏というのは、ときたま、手加減を間違えることがある。
どこかで、雪が滑り落ちて地面に打ちつけられる音がした。
それ以外の音は聞こえない。
幽子が幽閉されている、元大納言の別荘は、不気味なほど静まりかえっていた。
―――晴れたよ、妖夢! すぐに隠し道を掘り起こさなきゃ!―――
いつもの葵だったら、そう言って、妖夢を急かしてきたに違い無い。
だけど、なにも言ってこない。
せっかく脱出路を探り当てたのに、納屋が無残にも倒壊してしまい、心がへし折られたのだ。
しかも、幽子の自害を目前に控え、二十人を越える兵たちが、屋敷を見張るようになった。
それも妖忌が選抜した精鋭で、立ち振る舞いに隙が無く、幽子たちが怪しい動きをしていないか、きびしく目を光らせている。
ぎりぎりまで見張りをつけなかったのは、それまでに幽子が逃げ出したら、それもやむなし、と妖忌は考えていたのだろう。
だが天命は、幽子から逃げ道をうばってしまった。
もはや葵は、黙々と最低限の仕事をこなすのみである。
(考えをまとめるのに、ちょうどいいけれど……)
妖夢だって、いつまでも日和見を決め込んでいるわけにはいかない。
決断をするには、早いほうがいい。
逸る気持ちを抑えながら、思考の整理を始める。
行動を起こすならば、心がまっさらな状態でなくてはならないから。
雑念が混じったまま選んだ道の先に、良い未来が待っているはずが無い。
妖夢は、白壁の前に端坐した。何色も混じっていない白い壁を、穴が開くくらい見つめる。妖夢の心にも、他の色が混じらないようにするために。
ただ、己の心一念に従うために。
ひとつ、ひとつ、身の回りで起こっていることを思い浮かべていく。
幽子は、自害を命じられた。
名目は、桜の木から漏れ出してしまいそうな死者の魂を、幽子を人柱とすることで封印すること。
そうして生まれた桜の名を、西行妖と呼ぶ。
幻想郷の冥界、白玉楼のほど近くに生えている、花を咲かせることの無い桜の木だ。
幻想郷の閻魔の命により、富士見幽子は、西行妖の内部に、この時代の記憶ごと封印されてしまった。
富士見幽子の魂が生きているかぎり、魂は転生をを続け、忌まわしい能力と、哀しい運命を背負った人が生まれる。だから、彼女ごと封印をする必要があったのだ。
そして記憶を失った女性は、西行寺幽々子という新たな名と魂を授けられて、死ぬことも無く、永遠の美貌を保ったまま、冥界の管理人として生をまっとうする。
そこでは、妖忌、妖夢といった忠実な従者との出会い、そして八雲紫という生前からの因縁で結ばれた親友との再会が待っている。
なんの苦労も無く、白玉楼の姫として、屋敷を囲む桜の木々を愛でながら穏やかに生活することができる。
(師匠が選択した、この道筋を辿ったなら、いったんの不遇と不幸を飲み込みさえすれば、哀しい輪廻は断ち切られる)
師の選択は、正しい。
だが、幽子と葵と触れ合うにつれ、妖夢の直観がうずくのだ。
本当に、それでいいのか。と。
師の選択は、正しい。でも妖夢にとって、それが絶対的であってはならない。
師匠である、魂魄妖忌という存在が絶対であってはならない。それでは、妖夢がここで息づき、妖夢自身の心で選択をする意味が無くなってしまう。
妖忌が刻んだ足跡の上を、妖夢がそっくりそのまま歩くことに、意義があろうか。
剣術の探究という、同じ道を歩いていても、他人は他人、自分は自分なのである。魂魄妖夢として足跡を刻むことにこそ、意義がある。
歴史、という、途方も無いほど大きい書物の中において、わたし、なんていう存在は、1項、記されるかどうか……。
それすら高望み。
1行、記録してもらえれば、上出来。それほど、わたしという個体は、ちっぽけなもの。
だけど現として、わたしはここに生きているのだ。
わたしとして轍を残さねば、なんのための生なのか。
すー、とおなかに力を入れて、息を吸う。
ふーっと、鼻から息を抜く。
(決まった、な)
それが、どんな結末をもたらそうとも、妖夢は、妖夢の心と共に歩む。
それが、師匠を越えるための第一歩なのだ。
「妖夢」
ふすまが開くと、そこには、沈んだ顔があった。
「これ、返すね」
葵の両腕には、二振りの刀が抱かれていた。
(4)
「白楼剣と、楼観剣」
妖夢は最初、葵が、妖忌の刀を盗んできたのだと思った。
妖忌から武器を奪って、最後の賭けに出ようとしたのだと。
しかし葵は、正座している妖夢のまえに、刀を置いて、
「大事な刀なのに、隠していて、ごめんなさい」
しおらしく、詫びを入れてきた。
「それじゃあ、この刀は、私の……」
妖夢と対面して座った葵は、うなずいて肯定した。
「妖夢のこと、ずっと疑ってた」
「うん、そりゃね」
葵と出会ってからこのかた、警戒されていることは察していた。
でも、不快には感じない。こんな山の中で、女一人で行き倒れていたのだから、不審がるのが自然な感性だ。
「私が、幽子様の命をねらっていると思ってたんだね」
「うん。右大臣以外の誰かが送ってよこした刺客じゃないかって。だから、素性がわかるまで、刀を隠してた」
「そっか」
愛刀たちを、握る。
手になじむこの感触は、久しぶりだった。
「で、返してくれるってことは、私の疑いは晴れたのかな?」
「もう、どうでもいい。妖夢が刺客でも、同じことだもの。どうせ幽子様は、明日、死んじゃうんだから」
「らしくないね」
「だってそうでしょ!? もう、どうしようもないじゃない!」
「葵、落ち着きなって。外の兵たちに聞かれるよ」
声を荒げる葵の肩を押さえつける。
葵は、妖夢の肩に頭をもたげた。
「こんな想いをするなら、中途半端な希望なんて、持たなきゃ良かった……」
小刻みに震える。
「泣くなよ、葵」
「だって、だって……!」
「泣くなって」
葵の背中を抱いてやった。
「私が、なんとかする」
体を離した葵は、瞳を大きく見開く。
笑みを返す。
「なんとかするから」
「本当に……? 信じていいの……?」
「もちろん」
葵の手を握りしめて、力強く宣言する。
(って言って、本当は、あんまり自信は無いけれど)
この決断が、どのような結末に向かうのか、どんな未来を招くのか。それが最善の道である保証なんて、どこにも無い。
でも。
だからこそ。
暗い未来に怯えて縮こまるよりも、明るい未来が待っているのだと信じて努力したい。
穏やかな日差しが、雪を溶かしていく。
もうすぐ、春が来る。
(5)
その日は、拍子抜けするほど、あっさりとやって来た。
ここに至るまで、様々なことがあったというのに。経過なんか無視して、朝日は昇る。
粥を炊いている鍋のフタが、小刻みに上下している。
椀に粥を移して、梅干しと沢庵を添えた。
幽子の、最後の食事だった。
「幽子様、食事をお持ちしました」
「ありがとう」
幽子は縁側に座っていた。
いつものように、庭の桜を眺めていた。
いまだ、花を咲かせていない桜の木。
幽子は、そこに自身を重ね合わせているのだ。
「妖夢。あまり無理強いをしたくは無いのだけど、これからも、葵と一緒にいてあげてほしいの」
「……、考えておきます」
それだけ応えて、奥御殿を後にした。
「私じゃ、だめなんですよ。幽子様」
葵が慕っているのは、幽子だけ。妖夢にその代わりは務まらない。
葵は、ずっと幽子と一緒にいたいのだ。一生を添い遂げたいと思っているのだ。
(それは、わがままなんだろうか?)
好きな人と一緒にいたいだけ。
そんな、ささやかな夢を描くことすら許されないのだろうか。
「幽子様、どうだった?」
廊下に葵が立っていた。
顔を合わせたら泣いてしまうかもしれないと言って、食事を運ぶのを妖夢に任せていたけれど、やっぱり様子は気になるようだった。
「うん、いつもどおり、穏やかな顔で、桜を眺めておいでだったよ」
「そう……」
葵はうつむき、顔を上げる。
「本当に、幽子様を助けてくれるの?」
「剣士に二言は無いよ」
「でも、もし、妖夢までいなくなっちゃったら……」
「そんな心配そうにするなよ。強く思い込むと、現実になってしまうよ」
もう、決断したのだ。
あとは迷いを断ち切って、後悔の無いように進むだけ。
その先に、より良い未来が待ってくれていると信じて。
日が高くなり始めたころ。
「御免。幽子様をお迎えに参った」
大きな影が門をくぐった。
妖夢は無言のままに頭を下げて、葵は、妖夢の後ろに隠れながら、眉をひそめていた。
「妖忌、ご苦労様」
「どうぞ、お籠へ」
白い衣に着替えた幽子が姿を現すと、兵が籠を庭に運んで来た。
幽子は、帝から自害を命じられたのだから、罪人みたいに、馬に乗せられて、さらし者にされても文句は言えないのに、漆で塗装された、立派な籠が用意されていた。
「右大臣の差し金ね。器が大きいところを見せつけようっていう魂胆なんだわ」
妖夢の背後で、葵がねちねちと文句を言っていた。
「葵、これまで、よく仕えてくれたわね。なにも返してあげることができなくて、ごめんなさい」
幽子と葵は、しばしの間、見つめ合っていた。
名残を惜しみつつ、幽子は腰を折って、籠の中に吸い込まれていった。
「では……」
妖忌は、余計なことを口にしなかった。役をこなすことに徹しているのだろうと思って、妖夢のほうからも、話しかけることをしなかった。
葬列のように、ゆるゆると進んでいく一団を、妖夢と葵は見送った。
(6)
「行くか」
背中に背負った楼観剣を紐で固定し、白楼剣を腰に差した。
稽古着の袴の帯を、念入りにきつく締めた。
これから、乾坤一擲の賭けが始まる。
勅命に従って、おとなしく幽子をひき渡しておいて、自害が始まろうというその瞬間に攻撃をしかける。
味方のいない妖夢が、大人数を相手に活路を見出すなら、彼らが油断をしている瞬間をねらっての奇襲しかない。
「妖夢。たすき掛け、していったほうがいいよ」
「あ、うん。そうだね」
「そっち向いて、してあげるから」
「えっ。自分でできるからいいよ」
「いいから」
強い口調だった。
こうなると、葵は退かないだろうから、妖夢が折れるしかなくなる。
(なんだか、笑ってしまうな)
ついこの間、初めて顔を合わせたばっかりだと思っていたのに、いつしか、友人みたいな関係になっていた。
葵は、わきの下に帯を通して、左の鎖骨の上に結び目を作った。
「ありがとう。それじゃ、行って来るから」
「私も行く」
「え?」
「私も行く」
「いや、しかし、それは……」
盗賊を退治しに行ったときとは、わけが違う。手練れの兵士たちの中に飛び込んでいくことになるし、葵を守っている余裕は無い。
「妖夢、洛中は不案内でしょ。どこに幽子様がいるか、わかるの?」
「たしかにそうだけど……」
「大丈夫よ。足手まといにならないところで、見守ってるだけだから。でも……」
葵は、懐から短刀を取り出してみせる。
「もしものときは、私も、幽子様と妖夢の後を追うから」
「葵……!」
「幽子様も妖夢もいない世界なんて、生きてる価値が無いわ。二人ともいなくなったときは、私も……」
「わかった」
これ以上、言葉は必要無い。
葵は、直に戦わないでも、幽子と妖夢と、一蓮托生でいたいのだ。
「行列が、あの遅さで進んでいるのなら、先回りできるだろう。案内、頼むよ」
「任せて!」
葵に先導されて、屋敷を飛び出した。
(7)
籠の揺れがおさまった。
幽子は、籠から降りて草履を履いた。
お天道様が、傾きはじめていた。
山中の屋敷を出たのが朝だったから、ほぼ半日をかけて、洛中にやって来たことになる。
(もっと、急ぐこともできたでしょうに)
妖忌は、小さく会釈をしてきた。
妖忌は、幽子が悔いを残すこと無く、この世に別れを告げられるように、時間を稼いでいたのだ。
「幽子様。このたびは、ご奇特なことで……」
人の好さそうな中年の男性が、幽子に手を合わせた。
何度か面識があった。この寺の住職だ。
「大僧正様には、ご迷惑をおかけしました。私が葬ってしまった命です。私の命を賭して鎮めるのは、当然のこと」
「拙僧の力が至らぬばかりに……、おいたわしや」
「お気になさらず。覚悟は済ませてまいりました」
「では、短い間ではございますが、誠心誠意、おもてなしをさせていただきます。といって、食事を差し上げることはできませぬが」
そう言われて、おなかがすいていることに気づいた。
朝、粥を食べた他には、なにもお腹に入れていない。
お腹が鳴らないように気をつけながら、住職に案内されて、書院に入った。
これから自害する人間が、胃の中に食物を残しておくと、絶命した後に、見苦しい姿をさらしてしまうことになる。
だから、心と共に、身もからっぽにしないといけない。
(人間、どれほどの名誉や地位を得たところで、生まれるときも死に逝くときも、からっぽなのね)
書院には、立派な文机と、上等な和紙が備えてあった。墨は、すでにすられている。
座布団の上に正座して、自分の生涯を振り返る。
「願わくは、花の下にて、春死なん……」
満開の桜の下で生涯を終えることができたら、どれほど素晴らしいことでしょう。
ですが、思うようにいかぬのが人生。
泥で身を穢しながら、与えられた生をまっとうする。それもまた、素晴らしいことです。
(それでも……、清く生きてみたかったという後悔は、消せないのね)
歌をしたため終わり、筆を置いた。
「幽子様。刻限でございます」
若い僧侶が、迎えにやって来た。
(8)
「これは……」
幽子は息を飲んだ。
覚悟はしていたけれど、想像以上に禍々しい空間がそこにあった。
寺の境内の裏庭に建立された供養塔の周囲を、妖気が飛びまわっている。
「毎日、読経を行い、供物も絶やしてはおらぬのですが、妖気は増すばかり」
大僧正は、わが身の力の無さを嘆いていた。
「経を刻み込んだ霊石を用いても、怨念を閉じ込める結界にしかなりませぬ」
しめ縄がされた霊石が、供養塔を囲っている。
その空間の中で、怨念が嵐のように渦を巻いている。
霊魂は、悪鬼のようなおぞましい表情を見せたかと思うと、成仏できずに苦しんでいる、哀れな人間のような表情を見せる。
幽子は、自然と両手を合わせていた。
「それに、あの桜です。まるで散ることを拒むように、花を散らさぬのです」
供養塔のかたわらには、満開の桜。
どす黒い紫色の花びらが、狂い咲いている。
無造作にとりこまれた死者の怨念が膨れ上がり、妖の桜を生んでしまったのだ。
これを鎮めるには、幽子を人柱として、封印を施すしか無い。
妖忌が、無言のままに短刀を渡してきた。
受け取り、異形たちが舞い踊っている封印の中に入り、白石を踏みしめた。
妖忌が手を挙げると、兵たちは腰を下ろし、僧侶が結界をとり囲んだ。
最後に、妖忌の顔を焼きつけておこうと振り返ると、腰を下ろした兵たちの向こうに、牛車が止まっているのが見えた。
(乗っているのは、おそらく……、いえ、もはや私には、どうでも良いことね)
オォ……。オォ……。
暴風がうねっているような音が、耳の奥でこだまする。死者の声だ。
「みんな、私と一緒に、楽になりましょう」
桜の木の下で、短刀を抜いた。
のど元に突きつける。
あとは、ほんの少し手に力を込めてやれば、それで終わる。
「幽子……」
名を呼ばれた気がして、のどから短刀を離した。
「幽子様ぁ!」
今度は、はっきりと聞こえた。
その姿を見ることもできた。
ざわつく兵たちを、妖忌が叱咤して、落ち着かせる。
武器を構えた兵たちが立ち上がれば、駆けて来た女の子の姿は見えなくなった。
男たちに、背丈も体格も劣る妖夢なのに、怯むことなく兵の中に突っ込んでいった。
(9)
妖夢が振り下ろした木刀は、いとも簡単にはじき返され、むなしく宙を舞って、地面に突き立った。
(なぜ……、どうして……)
何度も問いかける。
まじめに鍛錬に励み、反省し、無駄を省いて技に磨きをかけて……。
やっていることは間違っていないはずなのに。
届かない、適わない、この人に。
妖怪とはいえ、妖夢は女性。
どうしたって、体力では妖忌に劣ってしまう。
それを言い訳にしたくなくて、無心で鍛錬にとりくんで。
師匠は、木刀を拾い、はにかみながら、言った。
「妖夢」
「あっ……」
「どうしたの、ぼけっとしちゃって」
「いや、大丈夫」
洛中の大通りで、棒立ちになっていた。
こんなところで、急に昔のことを思い出していた。
「しっかりしてよね。もう妙蓮寺よ」
「ここか」
見てすぐにわかる、名刹であった。
立派な作りの門が、町人、商人、貴族まで、様々な人を吸い込んでいる。参道から本殿までは、どんな身分の者でも分け隔てなく自由に参拝していた。
「幽子様は、どこだ」
門をくぐって、境内を探ってみた。
「あっ!」
「な、なに!?」
葵は、慌てたように妖夢の後ろに隠れた。
背後から腕が伸びてきて、洛中の大通りを指さす。
一台の牛車が、人混みをかき分けて走っていく。
艶やかな朱塗りの車輪が人目を惹いている。高貴な人物が乗っていることは、誰の目にも明らかだった。
「右大臣の牛車だわ」
「えっ!」
葵を見、大通りに目を戻すと、車は緩やかに角を曲がり、お寺の裏手に向かって行った。
「幽子様の自害を、自分の目で見届けないと安心できないのね」
「と、いうことは……」
葵とうなずき合う。
参道を外れて走り出した。
水場のまえを駆け抜けると、庫裏へと続く細い道があった。
その先は、寺院の者しか出入りできないように、木の柵で封鎖されている。そこに、槍を持った二人の兵が、見張りに立っていた。その厳重さが、道標になった。
(この先か!)
足のつま先で、地面を掴んで疾走する。
一歩、二歩、三歩、と、跳躍するように兵たちに肉薄する。彼らは、妖夢になにかを叫んでいた。
「とまれ!」
「この先に立ち入ること、ままならぬ!」
などと忠告し、槍を構えようとしているうちに、妖夢は、腰の白楼剣を抜きはらい。兵たちが反撃しようと思ったときには、剣を鞘に戻していた。
「強い……」
昏倒する兵たち。
「よ、妖夢……」
その顔を、心配そうにのぞき込む葵。
「みね打ちってやつだよ。気絶してるだけ。葵は、水を汲んできて、介抱してあげて」
葵の頭を撫でる。
「幽子様、ちゃんと連れて帰って来るから」
それだけ告げて、裏庭を目指した。
(10)
駆ける。
全力で、駆ける。
目に映る景色が、一瞬のうちに流れていく。
前方には、隊列を組んだ、屈強な兵たちが立ちはだかっている。
恐れは抱かない。
油断も慢心も湧いてこない。
そこにある景色が、一枚の絵のようにしか感じない。
(五人……)
攻め寄せてくる兵たちの人数も動きも、はっきりと視える。
だから、左右から斬撃が繰り出されても、いとも簡単に躱すことができた。
己の心が感じるまま、体を滑らせ、なめらかに白楼剣を走らせる。
兵の手の甲から血が流れ、彼は槍を落とした。
右横から突き出ててきた槍を難なく躱し、今度は小指の付け根を斬りつけた。痛みに顔を歪めているうちに、別の兵の太ももに、刀の先で傷をつけてやる。
無駄に深い斬撃など不要。
相手が戦意を失う程度の攻撃を的確に繰り出して、気づいたときには、五人の強者がうずくまっている。
新手が妖夢を囲む。
敵は、必至の形相で刀や槍を繰り出してくるが、虚しく空を切り、あるいは危なげ無く受けられ、妖夢に有利な間合いになっていて、なす術も無く斬りつけられていく。
(弓っ!)
妖夢を囲んでいた男たちが退き、交代するように、また別の兵たちが姿を現した。
彼らは弓を引き絞り、妖夢めがけて矢を放ってきた。
飛びかう無数の矢の動きを、ぎりぎりまで見極める
(視るんだ、よく視る……)
そうすれば、おのずから、どう動けば良いかが見えてくるはずだ。
「ふぅぅっ」
背中の楼観剣も抜き、二刀で構える。
「二百由旬の……」
兵たちは、信じられないものを目の当たりにすることになる。
「一閃!」
そのとき妖夢は、放たれた矢よりも速く動いていた。
妖夢の動きを、正確に視認できた者が、どれほどいただろうか。
矢と矢の狭い隙間を縫って身を躱し、白楼剣と楼観剣を巧みに操って矢を叩き落し、妖夢は、無傷でそこに立っていた。
歓声のような声があがった。恐れと、敬意が入り乱れていた。
やがて兵たちが二つに割れて、その奥から、ひときわ背丈と体格が大きな男が現れた。
彼はすでに、二刀を抜いている。
互いに言いたいこと、聞きたいことがあったかもしれない。
しかし、二人はじっと視線を合わせたまま、なにも言わなかった。
腰を低くして構える。
地面を蹴る。
二人の距離が縮まっていく。
白楼剣と白楼剣。
楼観剣と楼観剣。
絶対に交わることが無いはずの、二振りの刃が交わった。




