第九章:誘惑の悪魔
波の音が遠くで低く唸り、海の霧が重く別荘を包んでいる。地下では、また脈動するような魔力の気配が揺れていた。
オリヴィアはまた気配絶ちのローブをまとい、誰にも気づかれぬように階段を降りる。先日訪れたときとは明らかに空気が異なっていた。まるで地下そのものが“何か”を待ち望んでいるような圧。
(くそ、人の身体があるって面倒ね。魔界の魔力に当てられて、吐き気と頭痛が……)
「っはあ、はああ……うっ、うぷ……っ私は、誇り高い、悪魔の娘!この程度…」
膝で歩いていながら、誇りが守られているかは不明だが、今回は扉の中に入ることが出来た。
扉の取手を持ちながら、押し開けた先に転がり込むと、石床にぶつかった半身がジワジワと痛み、頭は内側と外側から響く痛みで割れそうになった。
芋虫のように頭を抱えて丸まり唸っていると、石床を叩く靴音が響いた。
背筋に汗が伝う。
(こんな場所に誰がーー?だってこの場所は……)
靴は黒く大きい、男のものだった。
「やあ、オリヴィア。ようやく来たね。」
声は低く艶やかで、どこか気怠げな響きを含んでいた。
オリヴィアは警戒しながらも、まだ身を起こすことが出来なかった。
下から見上げた男は、後ろに撫でつけた黒髪に、暗闇に光る宝石のような金色の瞳。恐ろしいほど整った青白い貌をしていた。
黒いジャケットも揃いのパンツもそれ自体は珍しくない。むしろよくある地味な部類だ。撫でつけた髪型だってそうだ。形だけなら貴族出身の廷臣のように見えるが、目の前の男の立ち姿は、ひどく現実味がなかった。
まるで蜜のように漂う妖艶さ。男が近づいて来るほど、言葉にできない不安が胸を掻き立てる。
「……はッ、待ち伏せとは、趣味が悪いわね……。」
「趣味の問題じゃないよ、仕事さ。君を“試す”ために来ている」
(試す……悪魔ね)
男はオリヴィアを見つめながら、扉の枠組みにもたれかかった。オリヴィアを真上から覗き込んでいる。
「君が求める魔界門は、ここに確かに存在している。だけど今の君には開けない。絶望が足りないからだ。」
「……何が言いたいの?」
「俺は君の母ノクティレアと同じく誘惑の悪魔、フィンレイ…。」
フィンレイはゆっくりと微笑んだ。
「“記憶”だ。君がもっとも大切にしている記憶──それを代償として差し出すのなら、俺が魔界門を開いてやる」
時が、止まったようだった。
「記憶……?」
「そう。ノクティレアとの思い出だ。あの魔界での日々、弟妹たちと笑った日常。痛みから救われ、愛された証。君の“帰る理由”そのものを、この場に捧げるんだ」
オリヴィアは息を呑んだ。
色鮮やかに浮かぶのは、あの温かな腕。焼きたての甘いパンにヤカンの湯気。弟妹たちの笑顔。揺れる洗濯物と香草の香り。
──それらを、失う?
「そんな……馬鹿げてる……!」
「馬鹿げていないさ。実際にそうやって望みを叶えた者は、数多くいるよ。過去を捨て、自分を忘れ、ただ望みだけを残して駆け抜ける」
「そんな……そんなの……」
絶望をどれほど集めれば良いのか分からない。この身体でどこまで出来るかも不明だ。
まだ王太子の婚約者の身分も保留である、自由に動くことも工夫が必要だろう。
だが、あの思い出を代償に門を開く?
記憶を手放して、ノクティレアを、弟妹たちを、思い出せなくなっても──それでも、帰る?
「……違う。そんなの、意味がない」
オリヴィアは首を振った。
「私は、あの時間を取り戻すために帰りたいの。あの思い出は、私の全てなのよ!」
フィンレイはしばらく黙っていた。
そして、ふっと微笑んだ。
「ここで新たに得られるかもしれないじゃないか……どうだい君に優しい人間だって現れたんだろう?」
「……シャーロットのこと?彼女はあなたの仕組みで私の側にいるの?」
するとフィンレイは唇を歪めてニヤリと笑った。
「いいや?鎌をかけただけさ。何だ本当にいるんじゃないか。」
「ふざけないで、お喋りしている時間はないのよ…っ」
忘れるということは、彼女の愛をなかったことにすること。
弟妹たちの涙も、笑顔も、励まし合った言葉も──消し去ること。
それは、オリヴィアが自分で自分を裏切る行為だった。
「……母さんを、あの日々のことを、忘れて生きるくらいなら……私はここで一生を終える方がマシよ」
フィンレイの金の瞳が、すっと細められる。
オリヴィアの足元を照らす蛍火魔術の淡い光を受け、言葉にならない美しさを湛えながら。
「……ふふ。そうだろうと思った」
その声音には、どこか安堵すら含まれていた。
「君が“選ばない”ことを、俺は見届けに来たんだ」
「……え?」
予想外の言葉に呆けた声が出た。
「悪魔は、ただ願いを叶えるだけの存在でも、ただ人間を堕とす存在でもない。俺たちは“選ばせる”。
君たちの意志を試す。願いを持つ者が、叶えるに足る魂かどうかを──」
オリヴィアの心臓が、徐々に落ち着いていくのを感じた。今まで速かったことに、今更気付いた方が正しいか。
「つまり……あれは、本当の契約の提案じゃなかったの?」
途端にフィンレイの視線は冷え冷えしたものになった。
「君が契約を望んでいたなら、それは本物になった。だけど君は、それを拒んだ。だからこそ、次に進める。…非常に厳しい道のりだがね。」
魔界門を開くため、次にオリヴィアがすべきこと。
──人々の絶望を集める。誇り高い悪魔として同時に、その痛みに触れ、救うこと。
後半は、本来“予言の乙女”に期待されたが、しなかったこと。
でも、オリヴィアなら出来る。
それが僅かだとしても、しないよりずっと良い。
なぜならオリヴィアは、“絶望を知っている”からだ。
あの時ーー血まみれの暗い部屋で縛り付けられている時、誰かがオリヴィアのために一言でも庇ってくれたら。
抱き締めてくれなくて良いからせめて、兄たちだけでなく女である自分の誕生日を、覚えてくれている人がいたら。
泣いても吐いても鞭で打たれ、背中が膿んで熱が出ても、教養の授業や舞踏の練習をさせられていた時に、誰かが罵倒以外の言葉をかけてくれたら。
誰かが、ただの一度でも認めてくれたら……。
ーー誕生日を祝われていた令嬢は、親に抱きしめられ、愛情の言葉と祝福のキスを受けていたーー。
いつか実父母もオリヴィアを愛してくれるのではと期待した。だが、それはもうあり得ない過去だ。今はーー。
「私は、悪魔の娘だもの!…ハッ、出来るに決まってるわ……」
手を床についたが、力が入らず滑ってしまった。滑ったまま肘で顔を上げる。
「既に大分辛そうだが……?身体の調子を治してやろうか?」
「結構よ!っぐ、ぅ……うえぇえええ!!!」
限界を迎え、床に広がる液体と水音。
フィンレイは面倒臭そうに顔を背け、天井を見上げるようにした後、退屈そうに語り出した。
「……ああ、なんか大変そうだから、少し昔話をしようか。この国の王家はこの場所で、“百年の繁栄”と引き換えに“最大の絶望”を差し出す大掛かりな契約を結んだ。最大とは何か?――“未来”だよ。つまり、希望を抱いた子どもを残酷な手段で折ること」
「……‼︎」




