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第八章:絶望と涙

 別荘に来てから七日目の朝、空は鈍色の雲に覆われ、海は黒く唸っていた。


 潮風に晒される石造りの館は、静寂という名の檻だ。ここには豪奢な舞踏会も、貴族たちの視線も、王太子の怒声もない。ただ波の音と、夜の冷気と、己の内に渦巻く声がある。


(──魔界門があるのなら、探し出してみせる。必ず、帰る)


 あの日感じた、地下に満ちる懐かしい気配。あれは間違いなく、魔界からの呼び声だった。


 けれど、人間界から魔界門を開くには条件がある。


 “絶望”と“強い欲望”。


 「本来悪魔は、強い欲望を持つ人間が、悪魔による誘惑や人の世のしがらみによる絶望を超え、それを叶えるに足るかを試す者…。だから絶望と欲望の両方に触れていなければ帰れない…」

 魔界の学校で幾度も聞かされた教え。


(……誰かの悲劇を利用しなければ、帰れない……)


 オリヴィアの胸に、ほんの一瞬だけ、ざらりとした罪悪感が芽生えた。


 だが次の瞬間、それは打ち消された。

 連日の夢のおかげだった。


(──魔界で“家族”になった、あの子たちのため。マイロも、エイヴァも、ギルバートも。私が帰らなければ、誰が守るの?)


 (しっかりしなさい!オリヴィア!あなたは悪魔の娘でしょう!)


「悪魔の仕事の一つは絶望を集めること。その方法は、人々の悲しみに触れること」


 かつてノクティレアが言っていた。


『けれど、ただ悲しみを奪うだけの悪魔にはなるな。触れたなら、見たなら、少しでも救ってあげな。“それ”は禁止されていない。悪魔だって、そういう選び方はできるよ』


 ──選ぶのは、私。

「悪魔は自分のしたいように生きる者。人間界でもそう伝わっているだろう?」


(そうよ、私は帰りたいから帰るの。誇り高い悪魔の娘としてね。)


ーーーーーーーーーーーーーー


「シャーロット、少し……外に出たいのです」


 朝の食堂。まだ体調は万全ではなかったが、湯気の立つスープをひと匙すくったタイミングで、オリヴィアはそっと告げた。


 シャーロットの表情が一瞬だけ動いた。


「……体調は、本当に回復されたのですか?」


「ええ、まだ完璧じゃないけど。……でも、ずっと閉じこもってばかりは、余計に身体に悪い気がして」


 それは決して嘘ではなかった。魔界でも、塞ぎ込んだ弟妹たちを元気づけるために、よく外に連れ出していた。身体よりも、心の方が先に腐ってしまうことを、彼女は知っている。


 シャーロットはしばらく考えた末、静かに頷いた。


「では、海辺の小道を少しだけ……警護も最低限に留めます。ただし、倒れそうになったら、必ず言ってください」


「ありがとう」


 また、素直に口をついて出てしまった言葉。オリヴィアは内心で苦笑した。


(……もう、“ありがとう”を言う自分を止められそうにないわね)


ーーーーーーーーーーーーーー


 海沿いの小道は、まだ朝の霧が薄く残り、ひんやりと湿っていた。


 肌に触れる空気は冷たくとも、心の奥にある焦燥を冷やしてはくれない。


 波打ち際では、数人の村人たちが作業をしていた。網を干す老漁師、魚籠を抱えた少女、壊れた柵を直す青年。


 その誰もが、どこか影を宿しているように見えた。


(……この村……何かがおかしい)


 別荘の周辺には、かつて王家が療養のために利用した集落がある。今でも別荘がある以上、王家が利用する可能性がある土地なのだから、本来は整えられていて当然だが、今、その面影はどこにもない。どの家にも傷んだ屋根と潮風で曇った窓が並び、人々の顔には活気がなかった。


 シャーロットが小さく呟く。


「……この辺りでは、近年、怪我や病気が妙に増えているそうです。特に子どもが……。医者も原因が特定できないまま、対症療法の薬が処方されているのみとか……」


 その言葉を聞いた瞬間、オリヴィアの心にざわりと波が立った。


(子どもが、苦しんでる?)


 魔界で暮らした年月。弟妹たちの涙と震えが、鮮やかに蘇る。

(……善人じゃなくて悪いわね。)

 その夜オリヴィアは、こっそり細工した気配絶ちのローブをまとい、密かに屋敷を抜け出した。


ーーーーーーーーーーーーーー

 その夜、空には月も星もなかった。

(もう、ずっとそうね……。)


 漁村の路地。石畳の隙間に苔が生え、潮の匂いと腐った木材の臭いが混じっていた。


 戸口の前にしゃがみ込むように座っていたのは、小さな男の子だった。まだ五歳にもならないような幼さ。足元には割れた靴、腕には赤く腫れた痕。

(親に叩かれたの……?)


「……どうしたの?」


 オリヴィアがしゃがみ込むと、少年はびくりと肩をすくめた。彼女が微笑むと、その目が涙で滲む。


「おなか……いたいの」

「名前は?」


「ラ、ライル……」


 彼の母は流行り病で寝込んでおり、父は海に出たまま戻らず、祖父母はもういないという。

 腹痛に耐えられず、母に何度も声を掛けたところ、うるさいと言われて、どうしていいか分からず家を出たそうだ。


(こんな小さな子が……こんな場所で……一人で……)


 痛みと絶望が、少年の小さな身体から静かに滲み出していた。

 ──これこそが、鍵。


 無条件に愛してくれる筈の親ですら助けてくれず、痛み

は収まらず、未知の恐怖に晒されている。


(でも、集めるだけでは駄目よ……。)


 オリヴィアはライルの腹にそっと手を当てた。

「……大丈夫。痛いの、すぐ治してあげるから」


 (魔界の先生が、一番役に立つからと人間の身体を治す魔術を丁寧に教えてくれる方で良かった。)

 人間界では忘れられてしまった、古い癒しの術式は身体の毒を取り、痛みを和らげる。


 そして、──ライルの“絶望”を、そっと集めた。

「お姉ちゃん、ありがとう!」という無邪気で温かな言葉に抱いた僅かな罪悪感と一緒に。


ーーーーーーーーーーーーーー


 別荘に戻ったオリヴィアは、静かに目を閉じた。

 もう一度、地下へ向かおう。

 今度こそ、魔界門を見つけるために。

 ……絶望を、オリヴィアの希望に変えるために。


(嫌になるわ、無垢な子供を利用するなんて……。)


ライルは言った。

「お母さんも治して!お母さんずっとお腹痛いの。可哀想なの!」

痛みを抱えた自分を夜中に追い出した母を、治してくれと。


「あいつら(実父母)と同じに成り下がった気分ね……」


 “救う”などと大層な言葉を使っても、悪魔でもなく、特別魔術の才がある訳でもないオリヴィアに出来ることなど、ごくごく僅かなことでしかない。


 病を治してやったライルの母は、涙を流しているように見えた。

あれは何の涙だろうか。

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