第五章:予言の乙女様
予言の乙女アイラの過去のお話です。
予言の乙女視点はあと2話で終わりです。
貴族ですら目を瞠るほど磨かれた床は、燭台の光を反射して、アイラの薔薇色のドレスの裾を星屑のようにきらきらと縁取る。
首には深紅の宝石。手首には宮廷一の金細工師が仕立てたブレスレット。鏡に映るアイラは自分で見ても、“予言の乙女”という称号にふさわしく見えた。
下働きの少年が水瓶を落として手を深く切り、泣き声を上げた。侍女が慌てて布を押し当てても血は止まらない。
アイラは鏡から目を離さず、軽く顎を上げた。
「騒がしいわねぇ、廊下を汚さないでちょうだいよ」
彼女にとって従者や民草は風景だった。絵の中の小物と同じ。触れる必要も、視線を配る理由もない。
(せっかく良い気分でいたのに)
「ねーえ、誰か紅茶頂戴?」
この無関心の根は、遠い田舎の男爵家にある。家の財産はないに等しく、暖炉は冬でも息をしているだけ。姉は美しく、兄は才覚に溢れて、家族の話題はいつもその二人でいっぱいだった。
「この二人なら」きっと家を立て直してくれる!
この二人「は」我が家の誇りだ!
――そして“口減らし”という言葉がアイラに向いた。
アイラは幼い内に教会へ預けられた。粗末な寝台、硬いパン、冷たい井戸水。信じてもいない神への祈りの時間は長く、何も楽しくないアイラは何にも身が入らなかった。
院長の叱責は強く、祈りの時間に匹敵するほど長かった。その度にアイラは不満を募らせた。
「…私は貴族なのに。もっと可愛がられるべきなのに」
「聞いているんですかっ⁉︎アイラ!」
「何よ!あなたなんか名字もないくせに!」
「ここでは名前による差はありません!アイラ、罰として懲罰房で夜を過ごしなさい‼︎」
努力して何かになるより、“そこにいるだけで褒められる存在”でありたい――熱病のような願いが、胸の奥で熟れていった。
突然の儀式で、“予言の乙女”として迎えられたとき、夢は現実に触れた。
拍手、歓声、玉座の近くに立つ特権。
天から降ってきた、今まで渇望していた“才能”
アイラはそれを当然の配当だと受け取り、さらに上乗せを望むようになった。
(今まで苦労したんだもの。その分を取り戻さなくっちゃ)
その日、彼女は温室で花弁の香りを楽しんでいた。昼の光を薄絹の天蓋がやさしく分け、花々は絵の具のように鮮やかだ。
(ああ、私にピッタリの景色。)
「今日もお美しいですね」
低いがよく通る声に振り向けば、漆黒に近い濃紺の上着を纏った長身の青年が立っていた。
金の瞳。“人外のように”整いすぎた顔立ち。
その悪魔はフィンレイと名乗った――彼は身分を語らない。ただ魔術に通じた者であることを匂わせる。
アイラは勝手に“高貴な魔法使い”だと思い込んだ。
(殿下だけじゃない。こんな素敵な人まで、私に惹かれているのね)
「あなたの美しさには及びませんが、素敵な首飾りですね」
「ええ。アルヴェイン様が贈ってくださったの。私にぴったりでしょう?」
フィンレイは唇の端をわずかに上げ、肩をすくめる。
「私の方があなたに相応しいものを差し上げられますよ。」
(きゃーっ!これはアルヴェイン殿下への嫉妬なの?)
「ただ、全ての願いには代償が必要です。
あなたが今よりもっと“苦労に触れず、優雅に、愛される”日々を望むなら、いくつか『支払い』が生じる。
例えば――あなたの洞察は少しばかり鈍くなり、あなたの望みを支える筈の“縁”は薄くなる。」
これは悪魔の契約の説明だ。口ぶりは穏やかだが、ところどころに不穏な影が刺す。
だがアイラは、半分も聞いていない。
(難しい話は苦手…。要は、私がもっと愛されて、楽に暮らせるのでしょう?)
「構わないわ。必要なら、あなたに何でも差し出しますわ」
フィンレイは“何でも”という無邪気な言葉に、微細に目を細めた。
「承りました。では、指先を」
(えっ、指に触れるの⁉︎きゃーっ)
彼の掌に触れた瞬間、足元に淡い紋が浮かび、胸の奥がきゅっとひきつる。糸が一本、見えない場所で結ばれた感覚。
「これで手続きは済みました。あとは、あなたらしく微笑んでいれば、それでいい」
夜風が花の匂いを攫い、彼は影に溶けるように去った。
アイラは胸の高鳴りにしばらく酔いしれていた。
――殿下も、あの魔法使いも、私に夢中。私はもう選ばれる側。そうでしょ?




