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第四章:眠る魔界門

 海沿いの断崖に建つ王家の別荘は、王都の華やかさとは無縁だった。

 苔に覆われた外壁、崩れかけた石畳、軒下には使われなくなった海鳥の巣。潮風が吹き抜けるたびに、どこかから外れた鎖の金具がカランと鳴る。


 馬車を降りると、強い潮の匂いが鼻腔を満たした。湿った空気は肌にまとわりつき、遠くの海では波が断崖を打ち砕いて白く砕けている。

 足元は雨で滑りやすく、石の目地に苔が生えていた。


「足元にお気をつけください、オリヴィア様」


 横に立つシャーロットが、自然な仕草で肘を差し出す。

 その腕に一瞬触れたが、すぐに手を引いた。


「ありがとう」


 またしても口をついて出た言葉に、自分でも驚く。

 シャーロットもわずかに目を見開いたが、すぐに表情を戻した。


(不用意ね……今の私の口から出るべき言葉じゃない。しっかりしないと)


 別荘の玄関扉は重く、錆びた蝶番が低く軋んだ。

 中に入ると、潮の匂いと古い書物の匂いが混ざり合った空気が迎える。

 形だけの暖炉には魔法火が入っていたが、壁は冷たく、床板も湿り気を帯びている。


 案内された部屋は広いが、どこか人の気配が薄かった。

 家具は最低限、シーツは冷たく、窓の外は灰色の海。

 療養地というより、穏やかな幽閉先――それが第一印象だった。

(ここがもし“そう” なら、やっぱり忌避されているから手入れが少ないのかしら…。それとも別の理由…?)


 着替えを終えると、身体の奥に鈍い痛みが広がった。

 封印解除の後遺症。骨を軋ませるような痛みと微熱、痺れ。

 ベッドに横たわり、重いまぶたを閉じる。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 夢の中――そこは魔界だった。

 赤紫色の空に黒曜石の塔が立ち並び、その間を洗濯物がはためき、香草の匂いが漂ってくる。

 振り返ると、ノクティレアが笑って立っていた。


「おかえり。よく頑張ったね」


 ふくよかな体を柔らかな布で包み、エプロン姿のまま、大きな手でオリヴィアの頬を撫でる。

 額に、しつこいほどキスを落とし、抱きしめてくれた。


「泣かないの。いつも言ってたでしょう?体に魂が呼ばれても、オリヴィアはこの家にちゃんと帰って来られるって。」


「……母さん……」


 声が震える。涙が頬を伝う。

 ノクティレアは何も聞かず、ただ腕の中で包んでくれる。

 ウインナーの入ったスープ、砂糖をまぶした甘いパンの匂いが漂い、心が満たされていく。

 全部私の好物だ。


「大丈夫。全部、大丈夫だからね。愛してるよ、オリヴィア」


 その言葉が、胸の奥の痛みをそっと溶かしていった。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 目を覚ますと、外は夜だった。

 窓の外では波の音が絶え間なく響き、時折、潮風が窓を叩く。

 身体は重く、関節が痛む。


 扉をノックする音がした。


「オリヴィア様、勝手に失礼いたします」


 入ってきたシャーロットが盆を持っていた。蒸気の立つ薬湯から、香草の匂いが立ち上る。


「お熱があるようでしたので、近隣の薬師に処方してもらいました。少しでも楽になりますように」


「……ありがとう」


 また言ってしまった。しかし、不思議と後悔はなかった。

 薬湯は苦かったが、香りが心を落ち着かせる。


(早く回復しなければ……母さんのところへ帰るために)


 胸の奥で、決意が静かに固まる。


 ーーーーーーーーーーーーーー


 翌朝、屋敷はまだ静まり返っていた。

 後遺症の痛みは残っていたが、今は少し動ける。


(今のうちに……)


 魔界で学んだ知識を元に、魔力を総動員して気配を探り、廊下を歩き、図書室の壁を押す。

 わずかに沈んだ感触とともに、仕掛け扉が開いた。

 薄暗い石造りの階段が地下へと続いている。


 ひんやりとした空気。湿った石の匂いの奥に、懐かしい甘美な香り――魔界の気配。

 胸が高鳴る。


(間違いない……魔界門が近くにある)


 昨日空に浮かぶ魔界門を見たが、通常はあのように、悪魔が人間界と出入りする際に一時的に出現するものだ。

 だが、人間と悪魔が大掛かりな契約を結んだ場合、魔界門を人間界に固定することがある。


(魔道具授業の脱線話を覚えていて良かった……。

この国の海の近く、王家の館の地下に、凝った魔界門があるはず……)


 足を進めるたび、頭痛が強まり、吐き気が込み上げる。

 それでも階段を降り、扉を押し開けた。


 石の床、湿った空気。

 視界の端に黒い靄が揺らめいた気がした。


 ――その瞬間、全身から力が抜けた。

 視界が暗転し、冷たい石の感触が頬を打つ。


(ーっ!ここではダメ…もしこの隠し扉が塞がれでもしたら帰れない…!)


階段を這いつくばって上りきり、自分の身体をもたれ掛け、壁を閉じると、そのまま床に崩れ落ちた。

(この程度で……)


ーーーーーーーーーーーーーー


「そこに誰か……?ーっオリヴィア様……!!どなたか来てください!」


 遠くで誰かの声がする。

 次に目を開けたとき、古い照明器具が吊られた天井とシャーロットの顔があった。

 その瞳は、泣き出しそうなほどに揺れている。


「オリヴィア様、どうかご無理はなさらないでください」


 三日間も寝ていたらしい。その間、夢の中で弟妹たちの声を聞いた。

 マイロ、エイヴァ、ギルバート――あの子たちは夜が怖くて泣くのだ。

夜の闇に悪意を隠した親から悪魔に売られ、村の生贄にされ、黒魔術の被験体にされたから。


(帰らなきゃ……私がいないとあの子たちは眠れないんだから)


 体力が戻ってくると、屋敷の廊下をゆっくり歩いた。

 掃除をしていた小さなメイドが、慌てて頭を下げる。


「先日は……私めがお身体を勝手に……!」

「ああ、あなたなのね。有難う。助かったわ」


 少女は目を丸くし、顔を赤らめた。


(……この世界にも、少しくらいは救いがあるのね。


 けれど、私の居場所はここではない。

 あまりこの世界に入れ込まないようにしないと)


 絶望と欲望を集め、魔界門を開く――それが帰還の鍵。


(早く帰ろう、そのためにー)


「早く良くならないと…。いっちに、いっちに…」

壁伝いに少しずつ、それでも額に汗を浮かべながらオリヴィアは歩き続けた。

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