第二十三章:復讐
王都の朝は薄く濁っていた。
オリヴィアが倒れてからもう七日、王城の医室では、うわ言ひとつなく眠る彼女の布団が静かに上下している。額にのせられた冷魔布はすぐに温み、取り替えるたびにシャーロットの指先がかすかに震えた。
栄養や薬の管が何本も細い身体に取り付けられている。
若い看護師達がこっそり覗きに来て廊下で囁いている。
「まるで吊るされているようだわ…」
「ちょっと!」
「だって、このまま天まで引っ張り上げられてしまいそうで…!」
「きっと大丈夫よ、新しい魔法薬を投与するって決まったじゃない」
「でもそれって、副作用がキツイやつじゃないですか……あのお身体で耐えられるか…。」
――やがて医室の薄闇で、オリヴィアは静かに目を開けた。
身体は鉛のように重い。けれど、耳はよく働く。廊下を行き交う足音、扉の向こうで押し殺した声、紙の擦れる音。
オリヴィアは魔力を振り絞って情報収集に力を注いだ。
細い細い糸のようにあらゆる場所へ意識を向ける。
追い詰められた王太子や、その後援であるエルフォード家が、オリヴィアを殺そうと目論むことが十分に考えられたからだ。
情報は渦水のように集まる。王太子は言い訳に追われ、王は塞ぎ込み、……エルフォード家は――動いた。
「嗚呼……。」
初めに浮かんだ感情は、「やはりそうだった」という諦めだ。
(分かっていたわ。そういう人達だって…)
我が子の帰還を泣いて喜び、苦しいほど抱き締める親たちを見すぎたせいか、身体が弱っているせいか。
世間で聖女と呼ばれるほどに、オリヴィアが頑張っても、実父母はオリヴィアを認めなかった。再度捨てたのだ。
(駄目ね、オリヴィア。しっかりしなさい、あなたは悪魔の娘よ。)
「私を“元に戻す”つもりね。人格を剥ぎ、器にする。――なら。」
胸の底で、氷のように澄んだ決心が固まる。
この儀式を、利用する。
自分の魂を魔界へ帰還させるために。そして、儀式そのものは失敗するように仕込む。
(愚かね、人間。あなた達のお陰で私の帰還が早まるわ)
オリヴィアはくすくすと笑った。けれどその眦からは涙が溢れていた。
(今までで一番苛烈にしてあげる‼︎
貴方たちが最も厭う方法で罰してあげるわ!美しさに固執する母上も王太子も見るも無惨にしてあげる!
父上、エルフォード家はおしまいよ!あなたのせいであなたの代で、エルフォードの名は地の底に落ちるの!
ああアイラ、子供たちを救う力を持ちながら遊び回っていたあなたに、子供たちの痛みを味わわせてあげる!)
オリヴィアは両親にも王太子にも、これまで感情を向ける価値すらないと思っていた。
オリヴィアにはもう、魔界に“本当の家族”がいる。
(けれど――私が本当の家族の元に帰ることすら邪魔をするなら、話は別よ。)
胸の奥で、黒く強い熱が生まれる。復讐という名の、冷たく鋭い熱と欲だ。
ーーーーーーー
オリヴィアが決意を固める少し前、王太子アルヴェインは大掛かりな尋問が行われていた。
アルヴェインとアイラは、衛兵に囲まれたまま壇上へ引き出された。あくまで“事件の関係者としての聴取”。
牢を出たわけではない。鎖は外されているが、手枷足枷は残されている。
「誤解だ」
王太子は声を張った。
「我々は災厄対策として“秘儀”を検討していた。歴代王が契約によって繁栄を得た記録がある。民を守るための神頼みの再現であり、無辜を害する意思はない」
アイラが白い礼服の胸に手を当て、後を継ぐ。
「わたくしはただ、国の平安を祈っておりました。どうか信じてくださいませ」
重臣の一人が、署名と封蝋の欠けた命令書を掲げた。
「ならば、この欠落は何だ。王家印も執政印も空白だ」
王太子が何か言い訳する度に、周りからは証跡付きで反論された。
若い廷臣が泣きながら言う。
「何度も何度も殿下にお願いしたのです。子供たちを贄にするなどやめてほしいと。王もそんなことは望んでいないと言っていたのに、次々と改竄され、あちこちで知らぬ間に事が運ぶのです。」
老魔術師が震える声で告げる。
「これは祈祷の陣ではありません……献供の配列です。止めねばならなかったのに、止められなかった。…上の圧力が、我が孫を拐わせるぞと脅されて…」
ざわめきの端で、別の囁きが立ち上がる。
「聖女殿がおいででなければ、うちの子は戻らなかった」
「聖女様は港町でも、漁村でも、失った子を見つけてくださった」
「聖女オリヴィア様が止めてくださって本当に良かった」
その囁きに王太子は青筋を浮かべ、犬歯を剥き出して食い下がった。
「国のためだ。百年の繁栄のため、わずかな――」
「わずか?」
二人の子を持つ母である廷臣が、低く、明瞭に言葉を返した。
「その“わずか”が、うちの子で、隣の家の子で、皆の未来です」
拍手は起きなかった。代わりに、長い、重い沈黙が落ちた。そこには“見限り”という名前があった。
午後には、異母弟を推す会合が三つ、四つと開かれた。
「第ニ王子を王太子に」
反論する者はいなかった。
王はオリヴィアと同じく寝込んでいた。悪魔に思考を誘導されていた負担は大きく、当時の思考は明瞭にならない。
扉の外で囁きが育つ。「愚王」「隠居を」。
その言葉を王は静かに受け止めていた。
――夕刻、地下牢。
看守の交代の隙に、囁きがしみ込む。
「殿下、こちらへ」
現れたのは、エルフォード公爵家の側仕えと王太子派の貴族たち。
買収された合鍵、見張りの目を逸らす僅かな事故。様々な工夫の元、彼らはここにいた。
「このままでは殿下も我らも終わりです。弁明の機会は過ぎてしまいました。とにかくここを出ましょう」
枷が外れる金属音。
アイラは蒼白なまま頷いたが、王太子は薄く笑った。
彼らは人目を避ける地下回廊を抜け、闇に紛れて運び出された。
夜。エルフォード家の応接間
追い詰められた王太子の陣営は、最後の綱を手繰っていた。
エルフォード家――オリヴィアの生家。
王都でも指折りの旧家だが、今は王太子派であることが枷となっていた。
そして「オリヴィアのせいだ」という陰口が針の雨のごとく降り注いだ。
公爵とその妻は向かい合い、温い酒を前に沈黙した。
「殺すのは下策だ。すぐ疑いが来る」
「なら、戻すしかないのね。――“あの時”のように」
人格を封じ、操りやすい器に戻す。あの知識と外見は使える。王太子の隣に置き直し、家の面目も立て直す。
よぼよぼと現れたのは家お抱えの魔法使い。
もうかなりの老人だが、オリヴィアの人格を一時的にでも封じていた人物だ。禁術をーまして今のエルフォード家のために使ってくれる者は他にいないだろう。
王太子とアイラが呼ばれたが、話し合うほどのこともなく、密談は短く終わった。
「ではオリヴィアの人格を封じ、再び王家とエルフォード家のへの忠誠を誓わせましょう。――聖女だ何だと持ち上げられて勘違いしているあの女が我々に付くと言えば、皆ころっと手のひらを返す。それで立場は守れる」
アルヴェインはあっさりと頷いた。
アイラも頷いた。内容は半分も分からない。ただ“殿下に必要とされている私”に頷いた。
だが、老魔法使いの話は終わっていなかった。
「前回は、魂の総量が不足した。動物だけでなく、補填が必要だ。……前回は偶然にもオリヴィア様自身の魂の一部で補ったが、今回は……」
その目が、ゆっくりとアイラを射抜いた。
「予言の乙女の魂なら丁度良いでしょう」
アイラの喉から乾いた音が漏れる。
「え?」
視線は王太子に向けられる。
「殿下……」
「国のためだ」
即答だった。
アイラの微笑は、カンバスから滑り落ちた絵の具のように崩れた。




