第二十ニ章:幸せを願う者
夜空に裂け目が走り、王城の奥――血の陣と檻と、王太子の顔までもが街に晒された。
石畳に立ち尽くした人々は声を失い、ただ頭上を仰ぐ。沈黙は、かえって耳を痛くした。
やがて、誰かが叫んだ。
「……あれ、子どもじゃないか! 檻に閉じ込められてる!」
空気が爆ぜるようにざわめきが広がる。灯が倒れ、油の匂いが鼻を刺した。
路地では母親が膝をつき、両手を合わせた。
「どうか……どうか無事で……!」
隣で父親は唇を噛み、石畳に血を落とした。
次の瞬間、映像は揺れ、陣が崩れ、子どもたちの影が煙の中から消える。
王都のあちこちで戸が叩かれた。
「お母さん!」――掠れた声。
扉を開いた母は、泥と血にまみれた息子を抱き締め、喉を裂くように泣いた。父は二人を覆うように抱き、声にならない声を上げる。
「戻った! 戻ってきたぞ!」
その歓喜が連鎖し、街の至る所で抱擁と涙が弾けた。だが同時に――怒りもまた燃え上がる。
「王太子め、子どもを殺す気だったのか!」
「悪魔と契約していただと⁉︎」
石が投げられ、徴税所の窓が割れた。夜警が駆け寄り、剣を抜く音が響く。市場の若者たちが対抗して棒を振り上げる。暴力はまだ散発だが、火種は街中に落ちていた。
孫を抱きしめてながら、老婆が泣きながら呟く。
「助けてくれたのは……銀の髪の聖女だ。あの子が……」
「オリヴィア様!」
子供が元気良く名を呼んだ。
そのころ、貴族街のある家の裏門では馬車が軋んでいた。
「急げ! 荷は半分でいい、夜明け前に出ろ」
貴族の男が怒声を響かせていた。
召使いが慌ただしく木箱を積み、貴族のケバケバしい女は宝石箱を胸に抱えて震えている。
女の横にいる娘は気配を消していた。頬には大きな痣がある。苛立った貴族の男に振りかぶって殴られた。
パァンッ‼︎と破裂音が響き、慌てて女性が止めた。
「あなたダメよ!目立ってしまうわ‼︎」
「エミリー…‼︎こいつがあの乙女を上手く使えなかったせいで…、こいつのせいで…」
娘エミリーは地面に伏したままだった。小声で「私のせいじゃない、私のせいじゃない……」と呟いている。
「旦那様、急ぎましょう!」
執事が急かし、娘は侍女に二人に抱えられる。
「……例の失敗した奴は、足が付かないようにしただろうな」
「ええ旦那様…いつも通りに」
「念のため国外に出たら、仲介屋も消す手筈を整えねばならんかもしれん。くそっ!あの時仕留められていたら…!エルフォードめ!」
不穏な会話をしながら、質素にしたつもりで夜逃げにしては豪華な馬車に乗り込む男。
「乙女様の取り巻きの家だろ」「逃げるのか?」「やっぱり共犯なんじゃないか」
囁きが近所の人々の口にのぼり、怒りと軽蔑が混じる。
そしてーその中の一人の若者は、暴動のための斧を手にしていた。
若者と恋人の息子は生まれたばかりだった。真夜中に子供が拐われそうになったのを、必死で抱きしめ抵抗した恋人は、背中を何度も刃物で切り付けられていた。
暴漢が去った後、自身の胸から息子の顔を離してーー窒息していることに気がついた。
先日恋人は自分で首を吊って死んでしまった。
若者は馬車に向かって斧を振り上げた。
街は歓喜と怒り、祈りと暴力が渦を巻く大河のようだった。
子を抱いて泣く者の肩越しに、石を掲げる者がいる。
笑いながら涙を流す者の隣で、夜逃げを急ぐ馬車が闇に消える。
その全ての影で、子供たちの温かな言葉が繰り返された。
「オリヴィア様……ありがとう」
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王城の医室。
オリヴィアは薄い寝台に横たえられていた。指先は氷のように冷えており、シャーロットが握っても、身体をいくらさすっても、一向に熱が戻らない。
「オリヴィア様…!お願いです!どうかご回復なさってください!」
「シャーロット殿、よろしいでしょうか。」
「何でしょうか?後で良いならそのように」
「オリヴィア様のかかりつけ医が参りました。シャーロット殿はこちらに」
貴族御用達病院でオリヴィアを診てくれた医師がヨレヨレの白衣で現れた。目が充血しているのは就寝中だったのだろうか。走ってきたようで、汗をかき、ぜいぜい言っている。
「事件と聞きましたが、オリヴィア様は⁉︎ ああ…良かった、生きてる…」
涙ぐむ医師にオリヴィアを託し、シャーロットは自身を呼びに来た近衛と話しながら移動する。
「…シャーロット殿、私は今夜のことを同僚伝いに噂で聞いただけなのですが、何故貴方はあの場面で男達の前に飛び出したので?」
「私は王侯貴族の方々をお守りする訓練も受けておりますので、多少は動けます。」
「ああ失礼。いえ、そういうことではなく…オリヴィア様はこの計画を貴方だけに話されていたのかと……。もし失敗していたら、オリヴィア様はきっと…、殺されていました。」
シャーロットの唇が戦慄いた。
「本当にそうです…。オリヴィア様は死ぬところでした。あんな魑魅魍魎の巣に、単身で……。私は何も教えていただけなかった……!」
「…それは貴方に迷惑を掛けないようにとのオリヴィア様のご配慮でしょう」
「分かっています、分かっています…。オリヴィア様はいつもボロボロになって、一人で全て抱えてしまわれる。優しすぎる…。
子供を助けられなかった時には、住居もない身分の母親に罵倒されても文句ひとつ言わず、母親と共に泣いて、謝られておられました。」
「泥にまみれて遊ぶ子らに誘われれば、粗末な服で一緒に遊び、お身体が弱いのに差し出された野菜をその場で食べて、お礼を述べておられました。」
「私は“私に出来ることをしたくて”…。
オリヴィア様が今までにご訪問された村や町の方々にお手紙を書かれると仰った時に胸騒ぎがしたんです。まるで…別れの挨拶にようで」
近衛は黙ったまま頷いた。
「手紙を届ける際に、受け取り主にそのことを伝えて、許可をもらって中を見ました…。詳しい事情は話せないけれど、この日時に複数の子供達を村役場に転移させるので、どうか保護してほしいと…。
またオリヴィア様は一人で何か大変なことをしていると思い至りました。しかも複数の村や町に同じ依頼をしていて、これはオリヴィア様に危険が迫っているのではと不安で、それで……私は、私は……」
シャーロットは涙を溢れさせながら、拭うことも忘れているかのように告白した。
「丁度一昨日、儀式の前日にオリヴィア様が倒れた際に怪我をされて、出血を拭いました。その血を以って、自分で服従の呪いをかけました…。
これで私はオリヴィア様の奴隷です。どこにいても主人の危機には転送され、助けねばなりません。」
「シャーロット殿!貴族の貴方が奴隷になるなど!」
「こうしなければオリヴィア様は…!いえ、この国の子ども達は生贄にされるところでした!」
ぐぅと蛙を潰したような声が近侍の喉から漏れた。
シャーロットは襟裳のボタンを外し、首から鎖骨の辺りまで奴隷を表す紋が刻まれていることを見せた。
「……貴方は凄い。国のために軍人になった筈なのに、近衛になっても私にはそのような覚悟がなかった。」
シャーロットは涙で濡れた顔に、それでも笑みを浮かべた。
「いいえ、私はただ……願っただけです。オリヴィア様の幸せを。そして、この国の子どもたちの未来を」




