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第ニ章:悪魔の娘

 あの日──まだ六歳になったばかりのある日。

生贄にされた大量の動物の死骸と血の匂いで満ちた、家の地下の儀式室。


 幼かったオリヴィアは、両手足を革のベルトで拘束され、泣き叫んでいた。

「いや!怖い!……やめて……お願い助けて!助けてください!」


 父親も母親も、儀式陣の外から冷めきった目で見下ろしていた。


 両親だけではない。雇われた魔法使い、家の重臣たち、誰一人として彼女を助けようとはしなかった。


 オリヴィアにとって、生誕以来美しいと讃えられた容姿や、厳しい教育に耐えられてしまった素質や、王太子の婚約者に相応しい家柄に生まれてしまったことが悲劇だった。


 両親は家の繁栄のため、完璧な操り人形となる娘を作ることにした。


 反抗に繋がるような人格を封じるという禁忌の手段を用いて。


 そして儀式は失敗した。


 魔法使いが震える声で「無理だ、魂が足りない!」と叫んだ刹那、オリヴィアの意識は焼き切れるような痛みと共に闇へと引きずり込まれた。


 骨が砕けるような衝撃。

 内臓を抉られるような苦痛。

 自分のすべての組織が引き剥がされていく恐怖。

 あまりの痛みに、いっそ殺してほしいと願った。


 しかし、死は訪れなかった。

(ここは……?)


 気づけばそこは、実に美しい場所だった。だが違和感のある、明らかに人工的に作られた美しさだった

 今までのオリヴィアの世界では見たことのない、整えられた景色。


 まるで獲物をおびき寄せるための蜘蛛の巣のように、美しさの中にひと匙の恐ろしさがあった。


 少し先には重苦しい瘴気と硫黄の匂いが立ち込める山があり、紫黒色の空には赤い稲妻が閃き、地平には無数の塔が立ち並んでいた。

 ここは地獄と隣接する魔界──人間が忌み嫌う悪魔の世界だった。


「……可哀想に。こんなに幼いのに……よく頑張ったね」

 その時、柔らかく少し低い声が聞こえた。

 顔を上げると、オリヴィアの頭を膝に乗せ、介抱してくれている女性がいた。


 艶やかな黒髪はさっぱりと肩の上で切り揃えられ、吸い込まれるような赤銅色の瞳が印象的だった。小枝のような女性ばかり見てきたオリヴィアからすると、ややふくよかな身体は柔らかな布に包まれており、教会の壁画に描かれているような旧い服装に見えた。


 目尻には笑い皺が刻まれており、包容力ある微笑みを浮かべていた。


 それが──魔界第四層、誘惑の領域を統べるノクティレアだった。


「よしよし、もう大丈夫だよ」

 大きな手がオリヴィアの頬に触れた。

 暖かくて、優しくて、誰からもらったことのない温もりだった。何故だか流れた涙は温かい気がした。


「ここは魔界だよ。あんたの魂は身体から引き剥がされて、人間界から遠いここまで来たんだね……。」

 ノクティレアは、オリヴィアを抱き上げ、柔らかな腕の中にぎゅっと抱きしめた。

 彼女の体からは、香草の香りがした。


「怖かったでしょう。痛かったでしょう。でももう大丈夫。ここでは誰もあんたを傷つけやしないよ」


 それからの日々は、まるで春の陽だまりのようだった。

 ノクティレアは料理が得意で、いつも香ばしいパンや甘いスープの匂いを漂わせていた。


 魔界で働く他の悪魔たちも、オリヴィアと仕事の後の食事をしにやってくることがあったが、誰も古典的な悪魔のイメージのように血や痛みや死の匂いを纏ってはいなかったし、見た目はさておき怖い人柄ではなかった。


 そして誰もオリヴィアに冷たくしなかった。


「今日はきのこと鶏のクリーム煮だよ!さあ、いっぱい食べな!」

 ノクティレアはオリヴィアの髪をくるくるっと触りながら言った。


 彼女は人間の男性を誘惑する仕事が主なのだと、からりと笑って話してくれたが、オリヴィアにはただ、優しい母にしか思えなかった。


 魔界で暮らす他の子供たち──親に売られたり、生贄にされたりといった、地上で居場所をなくした子供たちもいた。


 彼らと一緒に食事をし、魔界での仕事や学問を学び、たまに悪魔たちの労働を見学したり、簡単な作業を手伝わせてもらったりした。


 驚くことに悪魔であるノクティレアの家に、天使が来たこともある。

それも「ちょっと失礼」とでも言うように、肩の力を抜いていて現れて、骨付きの鶏肉は両手の指で摘んでかじつりいていた。


 悪魔はただ我欲で人間を堕とすのではなく、人間が願いを叶えるための試練を課す存在なのだそうだ。

 試練を超えた先で願いを叶えるのは天使や神様たちで、お互い強力しているのだそうだ。


 来客の麗しい女性天使とノクティレアを見比べて、

「お腹のお肉増えたね?」と子供にからかわれた時、ノクティレアは「うるさいね〜!」と怒ったふりをして、その子供を抱きしめ髪をわしゃわしゃと撫でた。

 その時のノクティレアの笑顔は、地上の誰よりも美しかった。


 だが、楽園のような魔界での日々にも影が差す。

 夜になると夢を見る。

 人間界に残された身体に残る魂はわずかだが、それでも繋がってしまっているせいで、日中に起きた出来事を追体験するのだ。


 この感情の動きが時間を曲げて身体に伝わるために、身体の方は人と対話できるくらいのコミュニケーション能力が維持できているらしい。


 今日も領地経営がうまくいかず苛立った父親に殴られ、ダンスのステップや課題を一つでも間違えれば母親に鞭打たれ、メイドには薄い体を更にコルセットで締め上げられ、体型のための鳥の餌のような食事に飢えていた。


 どこかの貴族のパーティーで、同世代の令嬢が笑っていた。

 淡い色の風船が部屋中に飾ってあり、シャンデリアから二階の手すりにリボンが伸びて、会場の奥にはたくさんのプレゼントの箱があった。


 主役であるその令嬢は、大きな熊のぬいぐるみを抱きしめていた。自分が親にそうされていたように。


 令嬢が父親に抱き上げられ、母親にキスをされていたのを、遠くからじっと見ていた。

 母親はそれを「はしたない」と言っていた。


(戻りたくない。絶対に戻りたくない……)


 朝になると、ノクティレアはいつも抱きしめてくれた。九年間ずっとだ。

「おかえり。今日も頑張ったんだね。偉い子だよ、“私の娘”オリヴィア」


 ごめんね、私には悪夢を止められなくてと、その声を聞くと時々涙が出た。ノクティレアが泣いていたからだ。


(私は必ず帰る。母さんの元に。魔界に……私の居場所があるから)

 オリヴィアは強く決意した。


(そうよ、私は悪魔の娘なんだから。出来ないことなんてないわ)

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